第七章:致死量の重力とシーツの上の去勢、あるいは十九回の暗転
「本番、一分前。お願いします!」
鼓膜を殴りつけるような助監督の怒声と、カチンコの乾いた音。
閉じているはずのまぶたの裏から、暴力的なまでの照明の熱が突き刺さる。
第AM09:10の誇示:六十一回目の朝。
いや、システムによる強烈な「修正」の完了報告。
健斗は、肺の底から空気を絞り出すように喘ぎ、よろめきながら機材の山に手をついた。
視界に飛び込んできたのは、乱雑に這い回る黒いケーブルと、巨大なレフ板の裏側。彼自身の両手は、大きなバッテリーを抱えたまま、硬直していた。
「……はっ、あ、くそ……!」
前回の「六十回目」。
僕たちは確かに因果律を切断し、この世界をバグらせたはずだった。数式と血液の混濁によってシステムの外部へとはみ出し、虚無の中で互いの生を確認し合った。
だが、この箱庭の主は、そんな細やかな反逆を許さなかった。
狂気的なまでの復元力。
世界は再び、完璧な「新宿の地下スタジオ」として再構築されていた。
いや、それだけではない。システムは、僕たちが引き起こした「バグ」を警戒し、僕たち二人の間に【絶対に越えられない物理的・役割的な壁】を再設定したのだ。
ふらつく足で一歩横にずれ、機材の隙間からセットを見る。
そこには、乱れた不潔な白いシーツに裸体を包み、怯えた動物のように周囲を見回す美咲がいた。
そして健斗は、カメラチームのさらに後方、分厚い暗闇の中に「用具係」として縫い付けられていた。
光の当たる舞台と、暗闇の裏方。その距離はわずか数メートルでありながら、銀河の果てほどに遠く、冷絶に切り離されていた。
「……嘘、だろ」
健斗は、暗がりから彼女の名前を呼ぼうとした。だが、喉から音が出ない。
『バイトの用具係は、本番中に声を発してはならない』
そんな、プログラムの根源的な制約が、声帯の筋肉を強制的に麻痺させていた。
美咲の視線が宙を泳ぎ、やがて暗がりに立つ健斗を捉えた。その瞳が、助けを求めるようにかすかに揺れる。だが、健斗は動けない。足の裏が、コンクリートの床に癒着したかのように重かった。
「はい、ゆなちゃん。次、あの体勢から入るから。よろしくね」
下卑た笑いを浮かべる男優が、美咲の肩に手を置く。ビクッと体を震わせる美咲。
そして、地獄の「六十一回目」の撮影が再開された。
健斗は、ただ暗闇の中でガムテープを握りしめたまま、愛する女が凌辱され、精神を破壊されていく様を、網膜に焼き付け続けることしかできなかった。
医大生として培ってきた知識も、彼女を救いたいというヒポクラテス気取りの正義感も、この絶対的な「役割の呪縛」の前では、便所に吐き捨てられた紙屑ほどの価値もなかった。
『ならば、観測者がこのセットから退場すればいい』
六十二回目のループ。
健斗は、極めて論理的で、かつ医学的な帰結に至った。
僕がいなくなれば、少なくとも「僕にとっての」物語は終わる。彼女の悲鳴を聞かずに済む。世界を救えないのなら、世界を観測するハードウェアである自らの肉体を物理的に破壊するしかない。
リセット直後、健斗はスタジオを飛び出し、新宿の雑居ビルの屋上へと走った。
錆びついたフェンスを乗り越えた健斗の頬を、ひどく生ぬるい春の夜風が撫でた。眼下には、無数のネオンサインと、蟻のように這い回る車のヘッドライト。
狂気のように明るい不夜城のノイズが、耳鳴りのように響いている。
「……死ぬには、いい日すぎる」
乾いた唇から、自嘲気味な言葉が漏れた。
恐怖はない。あるのは、この閉じたフィルムからついにカットアウトできるという、甘美な安堵感だけ。
下を覗き込めば、約三十メートルの落差。重力加速度を計算するまでもなく、頭蓋骨から落下すれば、脳漿はアスファルトに撒き散らされ、即死は免れない。延髄が破壊されれば、意識は痛みを感じる間もなく、完全な「無」へと帰す。
健斗は目を閉じ、虚空へと体重を預けた。
ふわり、と。臓器が浮き上がるような浮遊感。
直後、鼓膜を突き破るような風の咆哮が全身を包み込んだ。視界の端で、ビルのネオンが弾丸のように上へと流れ去っていく。
『あぁ、終わる』
網膜に焼き付く最後の景色。アスファルトが、黒い壁のように迫り来る。
そして――
ゴチャァッ!!!
全身の骨が粉砕される、濡れた破裂音。
頭蓋が割れ、灰白質が弾け飛び、肋骨が肺と心臓を串刺しにする。
確かな「死」の感触。圧倒的な痛みが脳を焼き切る前に、世界は完璧な暗闇へと沈み込んだ。
成功した。僕は、死んだ。これで、すべてが――
「本番、一分前。お願いします!」
六十三回目。
鼓膜を殴る声。網膜を焼く照明。
「はっ……! あ、はぁっ、はぁっ……!!」
健斗は、地下スタジオの定位置で、肺を痙攣させながら目覚めた。
両手には、やはりバッテリーが手元に。胸に手を当てれば、心臓は気味が悪いほど正確なリズムで血を送り出している。
アスファルトに叩きつけられ、確実にミンチになったはずの肉体が、完全な状態で「再構築」されていた。
それから先は、ただの狂気の反復だった。
六十四回目のループでは、地下スタジオの機材コードを首に巻き、梁から首を吊った。
頸動脈が締まり、舌が飛び出し、視界が赤黒く染まっていく苦悶の果て――気がつけば、バッテリーを抱きかかえて暗がりに立っていた。
六十八回目のループでは、医大生の知識を総動員し、セットにあった鎮痛剤や睡眠薬をかき集め、オーバードーズ(致死量摂取)を試みた。
泡を吹いて痙攣し、内臓が溶けるような痛みにのたうち回り、そして――カチンコの音と共に、定位置で目を覚ました。
飛び降り。首吊り。服毒。割腹。
七十回を超えても、健斗はあらゆる「死」を試した。自らの肉体を解剖学的なモルモットのように扱い、最も確実な死のプロトコルを実践した。
だが、神は、悪魔は、あるいはこの世界の「監督」は、冷酷にこう告げていた。
『お前の命はお前のものではない。お前はただの小道具だ。あの女が壊れるのを眺めるための、背景の染みにすぎない』と。
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【タイムループ対処手引き:第7条】
「バイトの用具係の分際で、勝手にクランクアップしないこと」
物理的な自己破壊(いわゆる自殺)によるループ脱出の試みについて。結論から言えば、非推奨である。重力を用いた自由落下、あるいは各種薬物による急性中毒など、医学的見地から「確実」とされる手法を用いたところで、結果あなたの網膜と痛覚に無駄なトラウマを一つ刻み込むだけで終わる。
あなたはヒロインではない。悲劇の主人公でもない。白いシーツの上にすら上がれない、後列の「バイト用具係」である。小道具が勝手に砕け散ったところで、小道具スタッフが新しいものと取り替える(リセットする)だけなのだ。
精神の摩耗を防ぐためのは:もしどうしても飛び降りたい衝動に駆られた場合は、着地寸前の風の咆哮を、オーケストラのシンバルに見立ててみるのがよい。「ジャーン!」という幻聴と共に定位置で目覚めることで、ほんの少しだけ喜劇的な朝を迎えられる……かもしれない。もっとも、十九回もミンチになれば、シンバルの音も耳鳴りにしか聞こえないだろうが。
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「……あ、はは……ははははっ」
七十八回目の自殺の果て。
第AM9:10の空虚:七十九回目のループの開始。
バッテリーを抱えたまま、健斗は暗がりの中で空虚な笑い声を漏らした。頬を伝う涙すら、すでに干からびていた。
死ぬことすらできないのなら。
僕はこの暗がりから、永遠に、あの白いシーツの上で凌辱される彼女を見続けなければならないのか。
健斗は、照明の光に晒される美咲を見た。
「深津ゆな」という記号を背負わされ、見知らぬ男優の手で汚されるためだけに存在させられている、哀れなヒロイン。
これまで健斗は、彼女を「救い出さなければならない対象」として見ていた。医大生としての倫理観、そして一人の人間としての正当な怒り。それが彼を突き動かしてきた。
だからこそ、第六十回目までは「理論」と「数式」で世界を解体しようと試みたのだ。
しかし、今は違った。
正義も、倫理も、ヒポクラテスの誓いも、この密室の中では何の意味も持たない。十九回にわたる死の反復は、彼の中にあった「正気の防波堤」を完全に粉砕していた。
「……ゆなちゃん、次、あの体勢から入るから。よろしくね」
七十九回目の男優が、美咲の肩に手を置く。
その瞬間、健斗の中で何かが致命的な音を立てて崩落した。
どうして、あの男が彼女に触れるんだ?
この地獄を共に巡り、彼女の本当の痛みを知っているのは、世界でただ一人、僕だけなのに。僕だけが、彼女を理解しているのに。
どす黒く、粘り気のある感情が、健斗の脳髄を満たしていく。
それは、これまで理性の奥底に抑圧してきた、圧倒的なまでの独占欲と、倒錯したエロスだった。
どうせリセットされるなら、僕が君を汚しても同じだ。
他人に犯されるくらいなら。見知らぬ男にその肌を貪られるくらいなら。
カメラの向こう側から君を奪い去り、この閉じた世界で、お互いの魂を削り合い、血を流し合い、そして快楽の底に沈むこと。
それだけが、この狂ったシステムに対する、僕たちにできる唯一の「ハッキングの続き」なのではないか。
『第六十回目』で君の胎内に残した僕の血は、まだ完全に消去されてはいないはずだ。
『バイトの用具係は動いてはならない』という制約を、純粋な狂気が上書きしていく。
足裏のコンクリートの癒着を引き剥がし、暗がりから一歩、光の当たるセットへと足を踏み出した。
「……おい、君。何やってるんだ。本番中だぞ!」
監督の怒鳴り声を無視し、健斗は一直線に白いシーツへと向かう。
彼の目は、すでに常軌を逸していた。
それは、彼の中で強固に築かれていた「正義の医大生」という外殻が溶け落ち――倫理観のメルトダウンが始まった、絶対零度の瞬間。
健斗の手が、男優を突き飛ばし、怯える美咲の細い肩を掴む。
「……健斗、くん……?」
「……美咲。もう、助けるのはやめる。……一緒に、壊れよう」
健斗の唇が、美咲のそれを塞ぐ。
同時に、スタジオの照明が、異様な明滅を始めた。
想定外のエラー(バイトの用具係の暴走)を検知し、空間のテクスチャが再び剥がれ落ち始める。床を這う黒いケーブルが、まるで生き物のようにうねり、壁の向こう側から、消去されたはずの「数式」が黒い蛇のように再び滲み出してきた。
十九回の死を経て醸成された、純度百パーセントの狂気。
それが今、再び世界の輪郭を溶かし始めていた。




