三年分の帳簿が、私の誇りです。——だから、あなたに謝る理由がありません
「君が横領したという証拠がある。婚約は破棄だ」
夕暮れの応接間で、エーリヒ様はそう言った。
三年。
私がこの屋敷で帳簿と向き合った時間。朝は誰よりも早く数字を追い、夜は蝋燭が燃え尽きるまでペンを走らせた。
その三年間が、たった一言で否定された。
「……横領、ですか」
声は震えなかった。不思議なほど、頭の芯が冷えていく。
「そうだ。オルトリートが気づいてくれたんだ。帳簿の数字が合わない箇所がいくつもあるとね」
エーリヒ様の隣で、伯爵令嬢オルトリートが控えめに微笑んでいる。
半年前からこの屋敷に出入りするようになった彼女。エーリヒ様が「相談役」と紹介した日から、私の居場所は少しずつ削られていった。
「リーゼル嬢、私も信じたくなかったのよ。でも数字は嘘をつかないわ」
嘘をついているのは、あなただ。
そう言いかけて、やめた。
エーリヒ様の目を見ればわかる。彼はもう、私の言葉を聞く気がない。
「弁明は?」
「ありません」
エーリヒ様が眉を上げる。オルトリートが一瞬、目を見開いた。
弁明はしない。
する必要がない。なぜなら私は、三年分の帳簿の写しを持っている。
一字一句、私の字で。毎晩、眠る前に書き写した記録。経理を任された者として、当然の備えだった。
「証明します」
私は立ち上がった。
「私が横領などしていないことを。王立監査局に、すべての帳簿を提出してください」
オルトリートの顔から、一瞬だけ血の気が引く。
だが彼女はすぐに微笑みを取り戻した。
「ええ、そうしましょう。真実が明らかになるのは良いことだわ」
エーリヒ様は興味なさそうに手を振った。
「好きにしろ。だが君はもうこの屋敷には入れない。今日中に出ていけ」
「承知しました」
私は深く頭を下げた。
顔を上げた瞬間、視線を感じた。
応接間の奥、影になった場所に誰かが立っている。
北方公爵ヴェルナー閣下。エーリヒ様の遠縁で、今日たまたま屋敷を訪れていたはず。
鋭い灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
その視線の意味はわからない。ただ、逸らさなかった。
私は踵を返し、応接間を出た。
実家に戻ったのは、三年ぶりだった。
子爵家の屋敷は相変わらず慎ましい。使用人は三人しかおらず、庭の手入れも行き届いていない。
「リーゼル」
父が書斎から出てきた。
「話は聞いた。エーリヒ殿から手紙が届いている」
「読みました」
使いの者が持ってきた封書。婚約破棄の正式な通告と、横領の疑いについて王立監査局に報告した旨が記されていた。
「お前が横領などするはずがない」
「はい」
「だが証明は難しいぞ。相手はあの伯爵令嬢だ。オルトリートの実家は借金まみれだが、社交界での顔は広い」
知っている。
だからこそ、彼女は私を排除したかったのだ。エーリヒ様の財産を自由にするために。
「証拠はあります、お父様」
私は自室に向かった。
床板の下、木箱の中。三年分の帳簿の写しが、埃をかぶって眠っていた。
一冊ずつ開く。私の字。私の記録。一晩も欠かさず書き続けた、三年間の証。
これがあれば、オルトリートの嘘を暴ける。
査問会議まで七日。
私は帳簿を抱きしめた。
三日目の朝、来客があった。
「北方公爵閣下がお見えです」
使用人の言葉に、私は手を止めた。
なぜ。
応接間に向かうと、ヴェルナー閣下が窓際に立っていた。
黒髪に灰色の瞳。軍人らしい隙のない体躯。北方の辺境を治める彼は、宮廷よりも戦場に似合う人だった。
「閣下。本日はどのようなご用件でしょうか」
「座れ」
命令口調だった。だが不快ではない。
私が向かいの椅子に座ると、彼も腰を下ろした。
「三日前、お前がエーリヒの応接間で言ったことを覚えているか」
「証明する、と申し上げました」
「証拠はあるのか」
「あります」
ヴェルナー閣下の目が細まった。
「俺に見せろ」
「お断りします」
即答だった。
彼の眉が上がる。
「なぜだ」
「これは私の問題です。閣下にご迷惑をおかけするわけにはいきません」
沈黙が落ちた。
ヴェルナー閣下は私をじっと見つめている。その視線には、怒りも苛立ちもなかった。
「……面白い女だ」
「恐れ入ります」
「手を貸すと言っている」
「ありがとうございます。ですが不要です」
立ち上がろうとした私の手首を、彼が掴んだ。
「待て」
「閣下」
「査問会議には俺も出る。傍聴人としてだ」
手首が熱い。彼の手は大きく、指は武器を握り慣れた形をしていた。
「……なぜ、ですか」
「お前の仕事を、俺は見ていた」
意味がわからなかった。
「三年前からだ。エーリヒの屋敷に行くたびに、お前が帳簿に向かっているのを見た。朝も夜も、いつも同じ場所で」
「それは……」
「俺の領地の経理官は何度も入れ替わった。だがお前のように働く者はいなかった」
ヴェルナー閣下が手を離す。
「だから見届ける。お前が何を証明するのかを」
私は言葉を失った。
三年間、誰も見ていないと思っていた。エーリヒ様ですら、私の仕事に興味を示さなかった。
この人は、見ていた。
「……ありがとうございます」
頭を下げる私に、彼は何も言わなかった。
五日目。
査問会議の準備を進めていると、フリッツという男が訪ねてきた。
ヴェルナー閣下の執事だという。
「閣下からの言伝です。『伯爵家の取引記録はすべて押さえた。逃げ道はない』と」
「逃げ道?」
「伯爵令嬢オルトリートは、実家の借金を返すために帳簿を操作していました。横領したのは彼女です」
知っていた。
帳簿の写しを見れば、どこで数字がすり替えられたかわかる。オルトリートが屋敷に来た半年前から、支出の記録が不自然に膨らんでいた。
「閣下は、なぜそこまで……」
フリッツは微かに笑った。
「お嬢様のことを、閣下は『俺の経理官にしたい』と仰っていました」
「経理官?」
「北方領は広大です。有能な人材を、閣下は常に求めておられます」
私を、経理官として。
仕事を。私の仕事を、認めてくれている。
「……伝えてください。証明は、私の手でやります」
「承知いたしました」
フリッツが去った後、私は窓の外を見た。
灰色の空。北方の空は、こんな色をしているのだろうか。
六日目の夜。
査問会議を翌日に控え、私は帳簿の写しを最終確認していた。
扉を叩く音がする。
開けると、ヴェルナー閣下が立っていた。
「閣下。こんな夜更けに……」
「眠れないのか」
「はい」
正直に答えた。
彼は私の顔をじっと見て、それから懐から何かを取り出した。
小瓶だった。
「北方の薬草茶だ。気持ちが落ち着く」
「……ありがとうございます」
受け取ろうとした手が、震えていた。
明日、すべてが決まる。
私の三年間が嘘ではなかったと証明できるか。それとも——
「リーゼル」
名前を呼ばれた。
ヴェルナー閣下が私の手を包んだ。大きな手は温かく、震えが止まっていく。
「お前は正しい。それを俺は知っている」
「閣下……」
「だから明日、堂々と立て。お前の仕事を、お前の言葉で証明しろ」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見ている。
この人は、いつも私を見ている。
「はい」
私は頷いた。
査問会議の朝。
王立監査局の会議室は、すでに人で埋まっていた。
エーリヒ様とオルトリートが、反対側の席に座っている。オルトリートは相変わらず穏やかな微笑みを浮かべていた。
傍聴席にヴェルナー閣下の姿を見つけた。
彼と目が合う。頷きが返ってきた。
「では、査問を始める」
監査局長の声が響いた。
「リーゼル・フォン・ハイデン。帳簿の改竄および横領の疑いについて、弁明はあるか」
「あります」
私は立ち上がった。
「まず、オルトリート嬢の証言をお聞きください」
監査局長がオルトリートを見た。
彼女はゆっくりと立ち上がり、淀みなく語り始めた。
「私が帳簿を確認したところ、過去三年間の支出記録に不自然な点がいくつもございました。数字が合わない箇所、二重に計上された経費……すべてリーゼル嬢が担当していた期間です」
嘘だ。
その不自然な点は、彼女が作ったものだ。
「証拠はあるのか」
「帳簿そのものが証拠です。改竄の跡は明らかですわ」
オルトリートが微笑む。
勝ちを確信した顔。
「では、私からも証拠を提出いたします」
私は木箱を開けた。
三年分の帳簿の写し。三十六冊。すべてが監査局長の机に積み上げられていく。
「これは何だ」
「三年間、私が毎晩書き写していた帳簿の写しです。原本と照合していただければ、どこで数字がすり替えられたかがわかります」
オルトリートの顔から血の気が引いた。
「そ、そんなもの、あなたが今書いたのでは——」
「紙の経年劣化をご確認ください。インクの色も、三年前のものと今のものでは違います」
監査局長が帳簿を手に取り、頁をめくる。
「……確かに、古い紙だ。インクも褪せている」
「原本と照合すれば、改竄された箇所は明らかです。そして、その改竄が始まったのは——半年前。オルトリート嬢がエーリヒ様の屋敷に出入りするようになった時期と一致します」
会議室がざわめいた。
オルトリートが立ち上がる。
「でたらめよ! この女が嘘をついているのよ!」
「では、もうひとつ証拠をお見せしましょう」
低い声が響いた。
ヴェルナー閣下が傍聴席から立ち上がった。
「北方公爵殿。傍聴人が発言するのは——」
「王国貴族として、証拠の提出を求める権利がある」
閣下がフリッツから書類の束を受け取り、監査局長に渡した。
「伯爵家の取引記録だ。過去半年間の全収支を洗った。帳簿の改竄で作られた架空の経費が、どこに流れたか——これを見ればわかる」
オルトリートの顔が蒼白になった。
「伯爵家の借金は三万ギルダ。だが半年前から、なぜか返済が進んでいる。その金はどこから来た?」
「それ、は……」
「エーリヒの屋敷から流れた金だ。お前が帳簿を改竄して横領した金だ」
沈黙が落ちた。
オルトリートが震えている。
「私は……私は……」
「認めるのか」
監査局長の問いに、彼女は答えなかった。
もう、答える言葉がないのだ。
「リーゼル・フォン・ハイデン」
監査局長が私を見た。
「帳簿の写しと取引記録を照合した結果、貴女の無実は明らかとなった。横領の罪状は取り消される」
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。
三年間が、認められた。
会議室を出ると、ヴェルナー閣下が待っていた。
「閣下。ご協力、感謝いたします」
「お前が証明したんだ。俺は証拠を出しただけだ」
「それでも……」
言葉が続かなかった。
この人がいなければ、オルトリートの逃げ道は塞げなかった。帳簿の写しだけでは、彼女は「リーゼルが今書いた偽物だ」と言い逃れたかもしれない。
「リーゼル」
閣下が私の前に立った。
周囲には、まだ査問会議の傍聴人たちが残っている。彼らの視線が集まる中、閣下は大きな声で言った。
「俺は、お前を北方に連れていきたい」
「……閣下?」
「経理官として雇う。領地の帳簿を任せたい」
心臓が跳ねた。
仕事だ。私の仕事を、求めてくれている。
「それだけではない」
閣下の灰色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「俺の婚約者になれ」
会議室の外が、静まり返った。
「三年間、お前を見ていた。お前の仕事を、お前の姿を。いつからか、目が離せなくなっていた」
「閣下……」
「お前以外はいらない。北方に来い。俺の隣に」
人前で。
逃げ道を塞いで。
この人は、私を選んでいる。
「……私は、婚約破棄された女です。傷物です」
「知っている。だから何だ」
「閣下のお立場が——」
「お前が作る帳簿は完璧だ。お前の仕事は誰にも否定できない。それだけでいい」
私の仕事。
三年間、誰にも見られていないと思っていた。認められないと思っていた。
この人は、最初から見ていた。
「……はい」
声が震えた。
「はい、お受けします」
閣下の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
笑顔ではない。けれど、温かい何かがそこにあった。
「行くぞ。北方は寒い。準備が要る」
「はい、閣下」
「ヴェルナーと呼べ」
「……ヴェルナー様」
彼の大きな手が、私の手を取った。
三年間、ペンを握り続けた手。
その手を、彼は離さない。
「お前の誇りは、俺が守る」
耳元で囁かれた言葉に、涙が溢れた。
嬉しい涙だった。
私の三年間は、嘘ではなかった。
新しい朝日が、廊下の窓から差し込んでいる。
北方への道は、きっと明るい。
隣にいるこの人の手を、私はもう離さない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
三年間の仕事が報われる瞬間を書きたいと思い、この物語を綴りました。
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