06.師匠
イェドとエンの夕食は胡麻のついた麺(パン)と野菜の炒め物になった。
食堂の羹(スープ)は残念ながら肉片が沈んでいたので、部屋には運んでいない。老僧はがぶがぶ酒を飲んで喉を潤している。
「うーんこれぞ命の素」
僧侶は肉食を戒められているが、飲酒は禁忌ではない。もちろん推奨もされておらず本来は控えるべき嗜好品なので、イェドは手を出さないが。
「こんな乾燥した不味い麺(パン)、オマエよく水で喰えるのぉ」
「……」
信じられないという横目で貶され、弟子は目を細めて小さく苦笑した。
エンは口が悪いが年に似ず頑健で繰言の少ない、旅の供を務めるに楽な男だ。これぐらいの言葉は何でもない。世話をするに当たって唯一食事に煩いのは厄介だが、やむを得ない場合はちゃんと粗食にも耐える。本人曰く、老い先短い身でわざわざ気色の悪いものなんか喰いとうないわい、ただし喰わんで死ぬのはもっと嫌じゃということだ。唖然とする逞しさである。
「……後で瓜を切りましょう。師、酒はほどほどに」
買った瓜は水に取って冷やしたほうが旨かろうが、最初に頼んだ行水用の盥もまだ来ないのだから、今更頼んでも望み薄だろう。
「フーンだ、ひとりで澄ましおって。そんなイイ子ちゃんは職業僧がお似合いじゃ。呑む打つ買うどれもせんで死ぬなんて、儂なら御免じゃな」
僧の発言としては大問題の後半よりも、前半の嫌味がイェドの耳には痛い。『職業僧』というのは決して褒め言葉ではない。僧侶とは、経典の原理からすれば、身過ぎ世過ぎのための仕事ではなく人としての在り方を指すはずだ。しかし世の僧の大半は、そんな生など送っていない。堂に学び議論をし、外に寿ぎ(ことほぎ)あるいは葬儀を行い、大小の政治に関わる。さらには騒乱時に生まれた武術を専らとする、イェドのような半端者も多い。
結局、宿の酷い食事よりも、甘い瓜のほうが遥かに旨かった。
「ふたつ買って正解だったのぉ。ひとつは明日の朝喰うぞ」
エンはそれで機嫌を直し、すっかり食事が終わった後に盥水を運んできた従業員も、大目に見ることにしたようだ。そのまま行水を済ませている間に、イェドが食器を下へ運ぶ。朝まで放置しておけば宿の者が片付けるだろうが、それも不潔だし、行水の追加の水を貰うついでだ。エンは案外綺麗好きで、そこはイェドも同様のため、旅の生活はまずまず上手くいっている。
「……」
皿を返す食堂で、先程階段で見かけた五階の男の、仲間と酒を飲んでいる姿がちらりと見えた。
婚礼を控えた者達が酒宴とは早過ぎるのではと思ったが、彼らはエンのような酒好きなのかもしれない。そう思ってはみても、やはり師が外で言った通り妙に違和感のある一行だったが、引っ掛かるひとつひとつは些細なことだ。詮索は、俗世から距離を置くべき僧の行動ではない……内心で言い訳のように考えることこそが、イェドが師に『職業僧』と野次られる半端さの表れなのかもしれない。
「案外時間がかかったのぉ。自分で運ぶと言うても、宿の奴ら出し渋りおったか?」
部屋ではさっぱりとしたエンが、ひとつきりの油の火の下で、服の綻びを調べていた。
洗濯その他の雑事は弟子のイェドの仕事だが、エンは自分で出来ることはさっさと自分でしてしまう。
「ウーン、もう年じゃな。こう暗いでは目が全然見えん。これは明日やろうかの」
「……どこかへ行かれるのですか」
「オマエ、今から行水じゃろ。野郎の入浴なんぞ見たって楽しくないからのう。その間、儂は下で姐さん達でも眺めておるわい」
「……すぐに済みます。階段は暗いので、ここに居られては」
「そんなの、ゲッ、じゃ。いいかオマエちゃんと脇まで洗っとくんじゃぞ、汚くてムッサい男なんぞ儂は一緒におりたくないからのぉ」
清潔を心がけていることもあり、イェドの体臭はそこまで酷くないはずなのだが、エンは喉に手を当て吐きそうな仕草までしながら外へ出る。
鼻から溜息を吐いて、イェドは僧衣の上を脱ぎ、まず手足を洗ってざっと身体を拭うことから始めた。髭は朝のおつとめの前に剃るのが習慣なのだが、この宿は早朝に水を頼んで出してくる気がしない。ついでに当たる。小さい鏡を使って少ない水で剃る術は、旅の間に覚えた。師のエンは髭を伸ばしているが、代わりにたまに頭を剃る。
さて顔を拭き終わり、いよいよ行水という際、ふと物音が聞こえた気がしてイェドは顔を上げた。
「……?」
周りの気配には聡いはずが、一瞬混乱した。静かな部屋をぐるりと見渡せば、火影のゆらゆら揺れる中へ、微かな軋みが響いてくる。そこに不穏を感じ正体を探って、イェドは気づいた。音は窓の外から聞こえてくる……何よりの不審は、その音が酷く近いことだった。城壁の高い階に居るにも関わらず、閉じた木扉の近くで音がすること自体がおかしい。しばらく息を詰めてそちらを伺ったが、やはり気のせいではないようだった。
音は僅かずつ近づいているような気がする。風が吹きはじめたのだろうか。イェドは静かに小さな窓へ歩み寄り、元は弩(おおゆみ)が備え付けられていたらしい台の向こうへ腕を伸ばして、扉を開いた。
そして驚愕した。
陽の落ちた闇に頼りなく揺れるのは、紅色の服の裾と刺繍の靴を履いた足先。部屋から漏れた光の舐める布が包んでいるのは――人だ。
「な……」
すわ首吊りかと鳩尾(みぞおち)がひやりとする間に、繊維の裂ける高い音がして、その塊ががくんと宙を落下し止まる。
窓の外には夕日の中に見た紅の花嫁、もうその爪先ではなく、腹部が覗いて見えている。女は黙り悲鳴ひとつ上げなかったが、身じろぎする動きから、少なくともまだ生きていることは分かった。どうやら上から釣り下がった布に掴まっているらしいが、その命綱が裂けている。
「早く、こちらへ……」
どう見ても、花嫁はじき落下して地に叩きつけられる。そうなればここは城壁の四階、ほぼ間違いなく死ぬだろう。イェドは咄嗟に判断して腕を伸ばしたが、囁きを聞いて驚いたか、女の身体が魚のように跳ねた。
再び命綱が裂け、またその身体が幾らか落ちる。
それでも女は声を出さない。