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物言わぬ花嫁  作者: さい
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【蛇足.02】追跡と翌日の間 イェド視点

 城壁宿を出て暗闇を抜けたイェドとコナは、夜明け前の薄暗がりの中、大河の支流へと辿り着いた。

 そこから街へ入る船を探したのだが、僧侶と娘という明らかに訳ありの二人連れであったため、乗船には日の出まで時間が掛かった。エンからくれぐれも焦るなと念押しされていなければ、気が急くあまり、何か失態を犯していただろうとイェドは思う。口が悪い師だが、エンの読みには到底適わない。

 

『良いか。船を拾うのに余計なことは喋らんでええぞい。城門から外れて水路から街に入ろうとする者なんぞ怪しさ満点じゃ。言い訳や妙な嘘は時間の無駄、イェド、オマエがとにかく大勢に声を掛けるんじゃ。今日は祭で水路も込み合っておる、何十人と頼めば乗せてくれる相手は必ず出る。金は出せと言われてから出すんじゃぞ、舐められるからのう』

 

 ***

 

 臭い木の船縁が、どぷんゴトンと重々しい音を響かせている。冷たい空気が日の出ともに緩んで来ていた。

 積荷にイェドとコナの二人を増やし、ただでさえ目一杯野菜を積んだぼろ船は、水面スレスレまで沈んでいる。だがイェドに今、それを気にする余裕はない。

「うえっ、お……っ」

 コナが体調を崩していた。張り詰めていた緊張の糸が切れたか、明け方に河べりで身体を冷やしたのが祟ったのかもしれない。発熱して、時折思い出したように河へ向かって嘔吐する。先ほどからずっとだ。顔は隠しているが余程に気分が悪いのだろう、苦しげな息と鼻をすする音が聞こえる。

「も、あっちいって」

 強がりか女心か、イェドの胸を押すコナの手は力ない。指は熱い。だがぐったりとした身体は、下手をすると河に落ちてそのまま沈んでしまいそうだ。

 ただでさえ数日中に食べたものは瓜の欠片だけというコナが、身体を折り、残る胃液を絞るように吐いている。イェドは当惑していた。医術の心得などなく、コナがどれほどの病状なのか見当がつかない。落ち着いた場所で寝かせてやりたくとも、船から降りることすらしばらくは難しかった。

 街を横切る水路は、祭の最終日のための船で混雑していた。早朝から酒、野菜、果物、布と物資が運び込まれ、この先の市へと順に進むのだ。

 どこか浮かれどこか冷め始めたような祭の空気、名残のゴミが水路にぷかぷかと浮かび、河を汚している。この祭でただ一年の憂さを晴らす街の民に、祭神である大河ウィグムを心底畏れる者は少ないのだろう。大きな街ではよくある事だ。だが、良くも悪くも皆がそうではない。

 汚れた河に、再びコナが嘔吐する。

(医者に診せるべきか)

 娘の腕を黙って支えながら、イェドは焦りを押さえた。

 二人はまだ追われている最中だ。そしてハイラハの領主がコナを生贄にしようとしている祭を終えるまで、あと半日以上ある。

 城壁宿の連中も、まさか二人が街から遠ざかるどころか水路から一旦中に入ったとは思わないだろうが、しかし何事にも不測の事態は起こりえる。出来る事なら当初の予定通り、市に着くなり今度は街の反対へ抜ける船を探したかった。だが、そもそもはコナを助けるための道程で、彼女の身体を痛めつけては意味がない。十二分に無理を重ねた娘の身体が、どこかおかしくしていても不思議はないのだ。

「……コナ、船を降りたら医者にかかろう」

 エンの襟巻きを被った頭が、ぐったりと横に振られる。コナも一刻も早くこの街を出たいのだろう。あるいはエンと決めた本来の予定を気にしているのか。

 嗚咽を噛み殺しながら理性を保つ彼女の様子を可哀想に思いながら、どこか他人事のように冷静に判じている自分を、イェドは恥じる。

 他人の苦しみをまさか喜びはしないが、真に迫って感じ取れない、正味のところで親身になれない。自身にはそんなところがあると、分かっている。それを全て生まれ育ちのせいにする気はないが、そもそも僧侶になるまでのイェドは、『病の者は無条件にいたわるべき』という考え方を知らなかった。娼館の女達は病を得ても、稼ぎの見込みに応じた手当てしか受けられない。またのちに育った父親の館では、稼ぎの代わりに血統が必要条件だった。

「あんた、尼さんを孕ませたんじゃねぇだろうな?」

 後ろに気配を感じて振り返れば、船頭が胡乱な目でイェド達を見下ろしている。

「違う」

 船頭の言う『尼さん』とはコナの事だった。嘔吐しているのを、つわりだとでも思ったらしい。

 彼女は出家などしていないが、エンの衣を着て頭を覆った姿は尼僧に見えるはずだ。

 コナが花嫁衣裳を脱いだ代わりに着られるものは、エンかイェドの着替えしかなく、どちらも僧衣である。これは尼僧の墨衣と大きな違いはない。ついでに猿轡の跡と切り落とした髪を周囲に不信がられないよう、エンの襟巻きを頭に被れば、見かけだけの尼僧が出来上がる。僧と花嫁の組み合わせよりは、僧と尼僧のほうが目立たないだろうと思っていたのだが、思わぬ勘繰りをされてしまった。

 と、すぐ隣で短い悲鳴が聞こえ、イェドははっと目を細めた。

「嫌や! ……絶対いやや……」

「コナ? ……コナ! 大丈夫だ」

 彼女の震える声がどんな種類の恐怖に囚われての事か、イェドには咄嗟に分かった。

「大丈夫だ。あいつらはコナに手出ししていない。こちらにカマをかけてきたのが良い証拠だろう」

「やって、やって」

「……大丈夫だ。娼館生まれが言うんだ、信じていい」

 ぐらりと河のほうへ傾いた身体を、掴んだ腕で船のほうへ引き寄せ、言い聞かせる。

(コナがあの男達の子を孕んでいるはずがない)

 彼女は純潔の生贄でなければならなかったのだから。そもそも数日で悪阻になるはずがないし、あの男達は、イェドがコナに手出ししていないか挑発の言葉で確認しようとしたのだから。増して自分の身体だ、コナも冷静であれば分かる事だろう。だが今、この娘に冷静さを求めるのは酷というものだ。小さく身体を畳んで、雀斑(そばかす)だらけの顔を伏せて、イェドには察することが出来ない不安と苦しみにコナが嗚咽を漏らす。

「もういやや」

 もう一度嘔吐し、耐えかねてコナが泣く。

「も、もう嫌や。はよう、家(うち)に帰りたい。うえっ、ひっ」

 

 ***

 

(……家(うち))

 

 それはきっと、良いところなのだろう。

 聖都の教えにある久遠の平穏にはほど遠く、欠点だらけであっても、コナにとっては『帰りたい』と願うほどには暖かくて、芯から安心できるところなのだろう。

(必ず、帰してやらなければ)

 周囲を舞う極彩色の紙ふぶきが目に煩い。一年で最も賑やかになる、市場の音楽と浮かれ騒ぐ喧騒の中で、静かにイェドはそう思った。

 船から降り、冷や汗をかいて蹲るコナにとにかく水を飲ませて、周囲に近くの開業医を訪ねた。市場には街外れからの出店や客が多く、要領を得ない答えばかりが返ってくる。船を探した際よりもさらに焦りがつのったところで、コナがイェドの袖を引いた。随分と良くなった顔色で、小さくなって蚊が鳴くような声で告げられた言葉に困惑する。

 

「お弟子さん。うち、治ったん」

「……だが」

「あれ、さっきの……もしかして船酔いってやつかもしれん。うち、これまで船に乗ったことなかったんやけど……兄貴が酷いらしいし。今思い出して」

「……船酔い? あんなに酷い症状が?」

 さっきとは別の意味で半泣きになり、縮こまって正直に言うコナを見る。確かに吐き気は治まった様子で、無理をしている感じはない。

「フラフラはするけど、なんや急に平気になってしもたし。あのう……うち、ほんまに人騒がせでスンマセン」

 

 安堵でどっと疲れた。


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