21.動揺
コナとイェドがいま居るのは、勿論、城壁の外だった。
蹲るコナの背は聳え立つ城壁にもたれ、その外側から微々たる重さをかけていたのだ。
エン、イェド、コナで頭を付き合わせて考えた結果、結局難儀を逃れるためにはそれしかあるまいという答えに落ち着いた。
あのまま城壁宿の中で息をひそめていても、必ず見つかる。またなんとか街へと潜り込んだところで、明日中は見つからずに済むかもしれないが、その後の保障は全くない。街で人目を避けて暮らすあてもなく、そもそもコナを明日の竜神祭の贄にするという言葉が本当とは限らないのだ。それに祭りは一年後に行われる。
城壁の上を逃れる道も盲点ではあるだろうが、逃げた先、どこから降りれば良いのか分からない。
結局のところ、どれだけ当たり前だろうと、逃げるのは外しかなかった。
三人はそこから先の事も幾らか策を立て、思いのほかうまく当たった小細工を通して、ここまでは理想通りの状況に辿り着いていた。
(……なんか距離、近い気ぃする。うち、あかんな)
コナはみっともなく汚れた顔を拭い、鼻を啜りながら、安堵のあまりもう一度泣き出しそうになっていた。
手はず通りイェドが来るのを待って、まだ一時間足らずだろうか。我ながら兎のように怯えて固まっていたせいで、身体がうまく動かない。それを支えて貰っったのは、我ながら甘えすぎだろうと恥ずかしかった。
イェドに名前を呼ばれた瞬間は、嬉しさのあまり、子供のように駆け寄りたいと思ったのだが……幾らこんな状況とはいえ、いきなり他人にべったり依存されたのでは、徳の高いお坊さんでも嫌な気がするに違いない。
そう反省しはするのだが、背中の冷たい城壁とイェドとの間はすでに狭く、コナは困惑する。暗闇で距離が掴めないのか、出会いが出会いだったので相手も感覚が麻痺しているのか、あるいは自分が意識しすぎなのか。触れそうで触れない腕や身体から熱い体温が伝わってきそうな気がして、首を振る。
(ウン、明らかにうちが意識しすぎなだけやな! 相手は坊さんやし男前やし)
数時間前まで、人が……あの誘拐犯達が怖くてがたがた震えていたのに、妙な話だ。多分自分を助けてくれたエンとイェド以外の男を見れば、悲鳴が出るに違いない。何故なら、コナは、目隠しをされたまま攫われ甚振られていたのだ。目の前に居ようとも、コナにはあの男達の顔も分からない。
暗闇の中でイェドに性的な誘いを掛けようとしたあれは、自暴自棄の、ほとんど死ぬ気の懇願だったのだから。
「……コナ、もう動けるか」
「はい」
闇で例のやけに格好良い顔は見えないが、イェドの吐息が艶っぽい気がして、コナは困惑した。
すると唐突に、離れる前にエンが言った冗談が思い出されて、思わず唇を緩める。
「いいか嬢ちゃん、イェドに安心して頼るがええわい。どーしてああなったのか謎なんじゃが、あの男は本当に、見かけに寄らず……」
「よらず?」
「中身は信じられんほど普通で、ど健全だからのう」
本当に彼らの善意が有難くて、胸に巣食う不安と猜疑と緊張が小さくなりかけた、その時だった。
「ほら居た。あそこに居んのは『花嫁』だろ?」
暗闇から声がして、コナの身体は冗談のように跳ねた。
悲鳴すらでてこず、暗闇に目を見開いた。二十歩ほど離れた壁際、今の今まで布で覆って隠していたらしい明かりがパッと周囲を照らす。
眩しさに瞳孔が狭まり、よく見えないその元に、男の影がふたつ見える。
「俺の言った通りだったろ、アダ。なあんだ……男だとは思ったけど、たった一人なんだ」
聞き覚えのある、声に息が止まる。
その声はコナを攫い運んでくる間中、おぞましい悪意をあっけらかんとぶつけ続けてきた男の声だった。
目隠しに何も見えない闇の一昼夜、殴られ蹴られ、いやらしい言葉で貶められ……コナの脳裏に突然その全てが鮮明に蘇って来る。その男がコナのことは入れず、横に居るイェドを数えて一人と言ったというだけのことも頭に入らなかった。
「手柄は二人のものだからな。リジム」
「手がかりを教えてやらなきゃ、まだ宿の中を探してたくせに。だいたい『花嫁』を逃がしたのが問題なんだから、ダリバの旦那が褒美なんかくれる訳ないだろ」
「だったらなおさら、俺がやる」
「ハイハイ、好きにすれば。でも俺にもそこの優男の顔は殴らせろよ、顔のいい奴はそれだけでムカつく……しかし坊さん、お前もモノ好きだねえ」
コナを守るように無言で背に庇った僧を見て、リジムが嗤う。イェドの片腕に杖が掴まれているのに気づき、もうひとりの男はじりじりと、しかし侮った表情で近づいて来ていた。
「お前ら嘘はついちゃいけないんじゃないの。それを下手な芝居までして、そんなオンナ助けてさ。上手く逃げられると思ってたかもしれないけど、残念……なんかオカシイってすぐに分かった。落とした水にお前の剃った髭が混ざってるんだもん、馬鹿だよなぁ。ダリバの旦那は気づかなかったみたいだけど、それを見りゃ『花嫁』が男を巻き込んだのは確実って訳だ。どうやってお前を咥え込んだかは知らないけどね」
「……」
「でもさ、その『花嫁』は、もう俺達でひととおり遊んじゃった使い古しだし。ハハ、慈愛だか同情だかで、外れを引いたな」
(……そんなん嘘や!)
脳裏に纏わりつく記憶に吐き気がしているのに、何故だか嘲る言葉ははっきりと耳に届く。コナはリジムの言葉をすぐさま否定しようとして、喉を詰まらせた。
何度も小突かれて体中は痣だらけだが、コナの骨はどこも折れておらず、強姦もされていない。自分は絶対にこんな下種な男達に犯されてはいないはずだ……本当に?
気を失っていた間、恐怖に朦朧としておかしくなっていたときの事を、果たして自分は自分で保証出来るのか。あるいは弱い精神が起こった出来事に耐えられず、それに蓋をして記憶を糊塗し、まともなフリをしているのではないのか。
相手の嬉しげで薄汚い、垂れ流しの悪意をまともに受けて、心臓の脈が乱れている。頭がぐらぐらと揺れる。自分の動揺が、疑いを肯定しているような気さえする。
心の中の天地が、崩れる。