11.決心
部屋の掛け金が音を立てた瞬間、コナの身体は魚のようにびくりと跳ねた。
事前にイェドの様子から外へ注意を向けていなければ、喉から勝手に悲鳴が漏れていたかもしれない。渇きに渇いた喉が再び粘つき、耳が遠くなったような気がする。だが誰かが扉を叩く音ばかりは、鼓膜を、そしてコナの心臓を刺すように鳴っている。
凝視していた戸の向こうから、やがて声が響いた。
「ちょっとお客さん、もう盥を返して貰いますよ。ちょっと!」
コナには聞き覚えのない、少年というにはやや薹が立った声だ。客商売にしては慇懃無礼で感じが悪いが、そこに疑いや裏の意図はないように思える。だが、何かの罠かもしれない。
(うちが上に居らんのに気づいて、あいつらが他の部屋ぜんぶ、探しとるんかもしれん)
竦みあがりながら、部屋を見渡す。見えるのは閉じた窓、千切れた命綱、盥、僅かな僧達の荷と幅の狭い寝台がふたつ。隠れられそうな場所は何処にもない。視線が行き交い、同じことを見て取ったエンが素早く手振りでイェドに指図した。
「……」
寝台の傍らに居たイェドが、コナに眼差しを向ける。
イェドは黙ったままそっと肩に触れ、その微かな目の動きにコナは金縛りから解かれたように身体を動かす。固まった手足を芋虫のようにして下へずれ、促されるがまま寝台の端に小さく丸まった。途中、ぎちりと台の脚が鳴って凍りついたが、
「ちょっと、お客さん聞こえてます?」
「アァ、なんじゃ? もう寝るところに煩い!」
エンが芝居っ気を出し、いかにも寝起きという怒鳴り声を上げて、音を掻き消してくれた。横たわり蒼白なまま見上げるコナに一度頷いて、イェドは掛け布で包み込む。
外の少年が、がちゃがちゃと部屋の安っぽい掛け金を軋ませている。
「寝るんなら、行水は終わってますね。他のお客さんの盥が足りないんだ、さっさと返してください」
「うるさいと言っとろうが。夜中に客を叩き起こすとはどういう了見じゃ、盥なんぞ街で買ってこい」
「ちぇっ、なんだよ……普通はこんな時間から寝ませんよ、あんたがちょっとおかしいんじゃありませんかあ?」
やり取りに、コナはもう心の臓がおかしくなりそうだった。
(もう駄目、もう嫌……この阿呆、もうどっか行っまえッ!)
扉を壊してまでは押し入ってこないという事は、外のは本当に、盥を取りに来ただけなのだろうか。そうだとしたら、さっさと諦めて行って欲しかった。息が吸えない。辛い。もう二度と数時間前までみたいな目に会いたくないと恐怖して、嗚咽を堪える。
足音もなく動いたイェドが寝台に戻り、壁とコナの間に拾い上げた命綱を隠した。
そして再び掛け布が捲られ、僅かに躊躇う気配の後、若い僧侶はコナの隣に身体を滑り込ませた。長身の身体の目方に、再び寝台の脚が悲鳴を上げる。
「……」
イェドは構わず、黙ったまま狭い寝台で扉へ背を向けた。己の身体でコナを隠すように。その腕が掴んだままの杖は他に行き所もなく、肩がコナを囲う形で壁際に置かれる。
待ち兼ねたようにエンが部屋の小さい灯りを吹き消した。
部屋はそれで真っ暗になった。
「……ちょっと、また寝たんじゃないでしょうね、お客さん」
「フーン、それの何が悪いかこの罰あたりめ。僧は陽と共に生活するもんじゃ」
(お笑い草やん)
近付いたイェドの身体の大きさを恐れ、反射的に逃げかけた身体を、コナは頭の片隅で自嘲する。今だかつてコナは男と隣で寝た事が一度もない。その経験の浅さが、自分を弱め愚かにしているような気がする。村が幾ら田舎とはいえ、男が居なかった訳ではない。だがコナは男衆に人気がなかったし、それならそれでとぼんやり過ごして来た結果がこれだ。イェドには自分から誘いをかけようとまでしたくせに、今更、身体が怯えている。一度命を助けて貰っても、頭のどこかがあの男達と他すべてを混同している。
(それにこんなん、お弟子さんも困るわな。坊さんやもん)
幅の狭い寝台の上で否応なしに身体が触れて、コナはせめてもと、壁側に小さく小さく背を縮めた。
「あんたね、うちのものを返さないってんなら、追加料金いただきますよ」
「……ああ、もうこの城壁宿は最悪じゃな!」
どんな判断を下したのか、エンが大きな溜息をついて扉の方へ近付く。
「もう、とっとと盥でもなんでも持って出ていけ」
苛立たしげに匙を投げる台詞が聞こえ、続いてコナの耳は掛け金を外す軽い音、ぎいと扉が開く音を聞いた。外には他にもっと人が居るのでは。この部屋に雪崩れ込んで来るのでは。想像して、乱れそうになる呼吸を必死に抑える。
「年寄りの眠りは浅いんじゃぞ、それを平気で叩き起こしおって」
恐れていた事態は起こらず、掛け布の外では、ただエンが愚痴をこぼしている。
「こっちだって好きでやってるんじゃ……ああ、あんたお連れが寝こけてるからって八つ当たりか」
視線を感じたか、杖を掴んだ逞しい腕がぴくりと緊張した。
その重みの下で、コナは突然鼻の奥が痛くなった。真っ暗な掛け布の中で、つるりと涙が出る。ついでに鼻水も出たが今は拭くことも出来ずに我慢する。
髪にゆっくりと胸を上下させる静かなイェドの息遣いが当たる。暖かい。
(凄い。この人達はほんまに、偉い)
眠る芝居をしながら、いつでも杖を構えられるように注意しているイェド。
気の短い台詞を吐いて、宿の使い走りを追い立てているエン。
弟子と師匠、どちらもなんとかして、会ったばかりのコナを助けようとしてくれている。ほんの少し前まで見知らぬ男らに今にも殺されかかっていた、通りすがりのちっぽけな他人を。初対面で自分の都合を押し付けようとした、厚顔無恥で無力な娘を。
どうやら本当に盥のために来た少年が、階下に消えるまでの間、コナは色々なことを考えた。
(やっぱりあいつらに見つかってしもたら、どないすればええ?)
コナを攫った男達の言葉を信じるなら、この件にはここハイラハの領主が関わっている。そして竜神の花嫁だのという話も、どう考えても良い話ではない。出来の悪い御伽話のようだが、誰にだって想像がつく……恐らく攫ってきた娘を竜神祭で生贄にするとか、そんなことなのだろう。何でわざわざ自分が山奥から攫われてきたのか、コナには何の心当たりもなかったが、男達のコナへの扱いはただ残り数日、生きていればいいというだけのものだったのだから。
そして、ここは城壁宿の中らしい。
幾ら田舎ものでも、城壁宿の名前くらいは知っている。そしてそれが、街の領主の管理下にあることも。ここの人間に助けを求めるのは無駄で、宿の人間はあの下種男達の味方と思うべきだ。目を塞がれていたので自信はないが、男達の人数は多分五人ではないかと思う。けれどここに着いてしまえば、もう五人からだけ逃れれば済む話ではない。コナが助かる可能性は低く、こうやって巻き込んだ僧侶達まで酷い目に会うかもしれなかった。
考えたくない事柄に行き当たり、思考はまた飛ぶ。
(ああ、異端審問僧って、何やろ?)
分からないが、彼らにも助けてくれる理由があると言うならそのほうがいい。代わりに出来ることがあるなら何でもする。それから。到底、見捨ててくれなんて潔いことは言えないが――もしもの時は、この坊さん達のことだけは恨むまい。コナは自分にそう言い聞かせた。




