ep53: 絨毯職人の家
ハロルは、灰色の岩肌を覗かせる険しい山脈を越えていた。谷合にひっそりと抱かれるように、その村は広がっていた。
谷筋には雪解けの水が清らかなせせらぎとなって流れ、あちこちで白い泡を立てている。斜面には春の息吹に応えるように若草が芽吹き、小さな花々が色を添えていた。まだ冷たい山風が吹き抜けるたび、草花は一斉に揺れ、そのたびに谷全体がやわらかにざわめいた。
石造りの家には、赤茶の屋根を連ね、斜面に肩を寄せるように建っている。どの家にも、機織り機が置かれ、機織の木枠を軽く叩く乾いた音が、時おり谷にこだました
ハロルは集落の一軒の家の庭先に降り立った。
白いカバンから手紙を取り出し、作業場へと足を向ける。
中では、一人の若い絨毯職人が機織り機に向かっていた。
その姿は淡く光を帯びて見える――ハロルにとって、手紙の受取人はいつもこうして特別に際立って見えるのだ。
「手紙の配達だ」
青年が振り返った。陽光を受けて淡く輝く瞳は、どこか懐かしい光を帯びていた。
彼が織っていたのは、この地で一般的な幾何学模様ではなかった。
織りかけの布には、荒れ狂う濁流に呑まれそうな人々、必死に差し伸べられた手、そしてその上空に、金色の翼を大きく広げて舞い降りる青年の姿――まるで宗教画の一場面のような光景が織り込まれていた。
青年が振り返り、ハロルを見上げると、
あっけにとられたような表情を見せたのち、膝から崩れ落ちた。
「あぁ…神さま」
震える声でそうつぶやき、ハロルの足元に跪いた。
ハロルは思わず一歩引き、困惑を隠せずに言った。
「俺はただの配達人だが?」
青年ははっとしたように顔を上げた。
擦り切れたサンダルに、カーキーのパンツ、白のシャツ、白のコットンバッグを斜めにかけた、金髪の青年がそこにいた。
青年が幼い頃に命を救ってくれた、金の羽を持つ金髪の青年と、同じ顔の人物だった。
――見間違いではない。
そう、直感した。だが次の瞬間、冷静さがそれを否定した。
そんなはずはない。目の前にいるのは、どこからどう見てもただの人間だった。
ハロルが傍らの機織り機にかけられた絨毯へと視線を移すと、青年がしずかに語り出した。
「この村を襲った大水害の情景を織っています。
あの濁流の中に、金の羽を持つあなたにそっくりな青年が現れて、私たちを救ってくださったのです。
この村に生き残る者は、皆その奇跡を目にしました」
「水害はいつ頃?」ハロルが尋ねた。
「十年以上前です。父はその時亡くなりました」
ハロルは、その絵をしばらく見つめてから静かにその工房を立ち去った。
青年が追いかけてきて。
「あの、私はサミールと申します。お名前をお聞かせくださいませんか」
「ハロルだ」ハロルはそれだけ告げて、その場を足早に去った。
サミールは、彼に渡された手紙を見つめた。
封筒には、サミールへと宛名があった。
―――
愛するサミール
いつも見守っているよ。
お前たちは、すぐに、街に下りて暮らしなさい。
父より
―――
サミールはしばし震える手で文字をなぞり、やがて天を仰いだ。
「大丈夫だよ、父さん……僕らには、ハロル様がついているから」
*
ハロルは、白い大きな鳥となって空を飛んでいた。
先ほど目にした絨毯の模様が、ある映像を呼び覚ます。
轟音の中、濁流に呑まれていく人々――必死に手を伸ばし、声にならない叫びをあげている。
胸の奥が強くかき乱され、視界が揺らぐ。
次の瞬間、平衡感覚を失ったハロルは、切り立った山の中腹へと墜ちていった。
*
皆が寝静まった深夜のことだった。
静寂を切り裂くように、谷に轟音が響きわたる。
次の瞬間、谷を埋め尽くすほどの濁流が壁となって押し寄せた。
石造りの家も、赤茶の屋根も、灯の消えた窓も、サミールの織った絨毯も、一瞬にして呑み込まれた。
あとには、荒れ狂う水と砕けた残骸だけが残った。




