ep51: 記憶の切れ端
ハロルは、ひとり自宅の窓辺のカウチに腰を下ろしていた。
背もたれに深く身を預け、古びたノートに羽ペンを走らせる。
コン、コン――木の扉を叩く小さな音が響いた。
視線を扉へ向け、やがて静かに立ち上がる。
扉を開けると、そこには黒髪の美しいヴィオレッタが佇んでいた。
「ヴィオレッタ、今日は休みだったのか?」
「ううん、そうじゃなかったんだけど……お客さんもいないし、店を閉めてきちゃったの。ナツも郵便局に遊びに行ったわ」
「そうか」
彼女がこの家を訪れるのは、家の拡張工事が終わってから初めてだ。
「まあ……」奥へと進みながら、ヴィオレッタは感嘆の声をもらす。
広々としたカウンターキッチンに目を輝かせている姿に、ハロルは小さく笑った。
料理好きの彼女のために、家の中心に大きなキッチンを据えたものの、仕事場が別にある彼女がここで腕を振るう機会は、そう多くはないだろう――ハロルは、そんなことを、ふと頭の隅で思った。
ヴィオレッタは小走りで奥の寝室を見に行き、数秒後、目を輝かせて戻ってきた。
「素敵ね!」
そう言ってハロルの腰に両腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「気に入ったのならよかった」
ハロルもゆっくりと彼女を抱きしめ返した。
その温かな空気を破るように、玄関から大きな男の声が響いた。
「ハロル、入るぞー!」
「ああ、勝手にやってくれ」
ハロルは奥のリビングキッチンから軽く返事をし、ヴィオレッタに視線を戻す。
「どなた?」
「大工のジェームズだ。紹介するよ」
玄関から入ってきたのは、背はそれほど高くないが、がっしりとした体格の男だった。日に焼けた腕には年季の入った工具袋がぶら下がっている。
ハロルがヴィオレッタを紹介すると、ジェームズは目を細めて口角を上げた。
「噂には聞いていたが、これはべっぴんさんだ!」
豪快に笑うと、そのまま道具箱を片手に増設した二階へと上がっていった。
「ねぇ、今夜チトとナツとマリエルとニールと郵便局のみなさんをディナーに呼ばない?」
「ニールも?」ハロルはあからさまに顔をしかめた。
「ふふふ」ヴィオレッタが口元を手で押さえて笑う。
「なにか、昔のこと思い出して笑ってる?」
「うん。でも……ないしょ」
ハロルは追及せずに肩をすくめた。
「ねぇ、食材とキッチン用品の買い出しに付き合ってくれない?」
「もちろん。ついでに郵便局にも寄って、みんなに声をかけよう」
ヴィオレッタは軽い足取りで二階へ上がっていき、どうやらジェームズにもディナーの誘いをしているようだった。
――これは大きなパーティーになりそうだな。
ハロルは心の中で小さくため息をつく。人が多い空間は、あまり得意ではないのだ。
*
買い出しから戻ると、ヴィオレッタは新しい鍋や食器を、嬉々としてキッチンの棚へしまっていった。片づけが終わると、腕まくりをして料理の仕込みに取りかかる。
しばらくして、ナツがやってきた。彼女は当然のようにヴィオレッタの隣に立ち、手際よく野菜を刻み始める。
そこへ、ニヤついた顔のニールが現れた。
「よぉ」
「なんだ、来たのか」
「呼んだのはそっちだろ?」
「呼んだのはヴィオレッタだ。俺じゃない」
「新居……いや、改築か。中を見せてもらうぜ」
そう言って、勝手に家の奥へ消えていった。
次にチトとマリエルが到着する。
「いらっしゃい」
「おじゃまします」マリエルは丁寧に挨拶したが、チトはすでに何かを見つけたらしく、どこかへ走っていった。
夜が深まり始めた頃、ジェロとエリオットがやってくる。
大工のジェームズは、ヴィオレッタにキッチンの使い心地を熱心に尋ねていた。
それぞれがそれぞれの時間を楽しみ、思い思いのタイミングで帰っていく。
ジェームズは帰り際、屋上に涼めるバルコニーを作ろうと提案してきた。
「好きにしてくれ」ハロルは苦笑しながら見送った。
ヴィオレッタは、こうやって自然に人を集め、友人を増やしていく――昔も、今も。
その笑顔を見つめながら、ハロルはふと、胸の奥で忘れていた何かに触れた気がした。
―昔も?
それは、記憶の切れ端だった。




