ep42: 独り暮らしの彼
ハロルは、木の上に築かれた小さな家の窓際のカウチで、古びたノートに羽ペンを走らせていた。
『病室のベッド』
『小さな旅立ち』
『香辛料の市場』
――配達で出会った情景を、一つひとつ丁寧に書き留めていく。
インクが紙を擦るかすかな音が、静かな部屋に溶けていった。
コンコン――。
丸い扉をノックする音が響く。
顔を上げたハロルは立ち上がり、ドアを開けた。
そこにはヴィオレッタが立っていた。
「ヴィオレッタ? どうしてここに?」
「ジェロに頼まれて、女の子の看病をしていたの。……入ってもいい?」
「あぁ、もちろん」
ハロルは彼女を中へ招き入れた。
「ここがあなたのおうちなのね」
ヴィオレッタは部屋の中を興味深そうに見回す。
ハロルはキッチンでお茶を用意し、湯気の立つカップを手に戻ってきた。
ヴィオレッタを窓際のカウチに座らせると、自分はカバン置きに成り下がっている椅子に腰を下ろした。
「島に来るのは初めてだろ?」
「えぇ。でもニールに道を教えてもらったから、これからは来られるわよ」
ヴィオレッタは片目をつむって、軽くウィンクした。
その瞬間、耳元のイヤリングが小さく揺れ、淡い光をはじく。
柔らかな笑みとともに、ほんの一瞬だけ香り立つような気配が、部屋の空気を変えた。
「俺がいるときに来てくれよ」
ハロルは思わず笑みをこぼす。
「ねぇ、キッチン使わせてもらってもいい?」
「いいけど、何もないよ?」
ヴィオレッタは軽やかに立ち上がり、キッチンへ向かった。
そして棚を開けた瞬間――「本当に何もないじゃない!」と大きな声が響く。
「だからそう言ってるじゃないか」
ハロルは肩をすくめ、笑いながら返した。
*
二人は並んで島の通りを歩き、必要最低限のキッチン用品と食材を買いそろえた。
帰り道、袋から顔を出したパンや瓶詰めのオリーブが、陽の光を受けてきらりと光った。
キッチンでは、ヴィオレッタが袖をまくり、慣れた手つきで包丁を動かしていた。
その背に声をかける。
「これから、うちに来る予定?」
「あなたさえ、良ければね」
「ここはさすがに狭いだろ」
「私は別に構わないけど」
「新しい家は一緒に探す?」
「お任せするわ」
そんなやりとりの間に、鍋から立ちのぼる香りが部屋を満たしていった。
出来上がった料理を、物置と化していたダイニングテーブルに並べ、二人は向かい合って腰を下ろす。
窓の外では小雨が降り続き、食卓の湯気がやわらかく揺れていた。
ふと目が合い、自然と笑みがこぼれる。
――天界でも、こんなふうに肩を並べて食事をしただろうか。
懐かしさとも切なさともつかない感情が胸をかすめ、ハロルはしばし視線を落とした。
やがて、ハロルはそっと手を伸ばし、ヴィオレッタの手を包み込むように取った。
掌に伝わるやわらかな熱を、逃すまいと指先に力がこもる。
そのぬくもりを確かめるように、彼は静かに彼女の瞳を見つめた。
ヴィオレッタもまた、ゆっくりと指を絡め返し、視線を逸らさずに応えた。
ふたりの間に、言葉では触れられない思いが、そっと満ちていった。




