ep38: 香辛料の市場
白い翼を広げたハロルは、湿った熱気の中を滑るように進んでいた。
眼下には、濃い緑に覆われた島々が翡翠色の海に散らばり、珊瑚礁の輪郭が波の白い縁取りで際立っている。浜辺には、台風の爪痕を残す倒木が横たわっていた。
頭上には、ちぎれもせず垂れ込める雲の帯。
風は不意に強まり、海の塩気と南の花の甘い香りを混ぜて彼の翼を揺らす。
上昇気流と下降気流が交錯し、翼は持ち上げられたかと思えば、次の瞬間には押し下げられた。
――ここは、空の郵便局が新たに定めた配達危険地帯。
その空を渡れるのは、ほんの一握りの配達員だけだった。
雲の裂け目から射す陽光は刃のように海面を切り裂き、金色の輝きを落としては、また暗い影に飲み込まれていった。
*
ハロルは視界の先に、一際大きな島をとらえると、そのまま高度を下げ始めた。
高度が落ちるにつれ、気流は荒々しさを増し、突風が翼を叩く。
彼は一瞬、羽をたたみ、重力に身を委ねて一気に地面すれすれまで急降下した。
迫る地表――直前で翼を大きく広げ、風を受け止めて衝撃を殺す。
ふわりと舞い降りたその瞬間、白い鳥の姿は掻き消え、そこには金髪の青年が、何事もなかったかのように立っていた。
潮の香りと熱帯の湿気が、ゆるく彼の髪を揺らしている。
*
ハロルは迷いなく歩き出し、島の中心部にあるマーケットへ向かった。
久々の晴れ間とあって、通りは人と声と色であふれ返っている。
果物の山が陽光を浴びて輝き、布地や貝細工が風に揺れ、香辛料の香りが混ざり合って鼻をくすぐった。
彼は真っすぐに、カラフルな香辛料が幾つも山積みにされている店へ足を運ぶ。
そこには、筋ばった褐色の体に無駄な脂肪ひとつない老人が、背筋を伸ばして座っていた。
「やぁ、ハロル」
老人は短く挨拶を寄こす。
「手紙の配達だ」
ハロルは封筒を差し出した。
「いつもすまんの。……手紙を届けてもらえんか?もし、その相手がもう死んどっても……届けられるんじゃろか?」
「あぁ、問題ない」
「少し待っとってくれ」そう言って奥に引っ込んでからしばらくして、「もう少し時間がかかりそうだ。明日の出直してもらえるか?」
「あぁ、わかった」
そっけなく答えると、ハロルは踵を返し、再び人波の中へと姿を消した。
*
翌日、ハロルは老人から受け取った、百枚をゆうに超える便箋を封じ込めた分厚い封筒を抱え、青空を滑空していた。
昨日とは打って変わって、風は穏やかで、陽光はやわらかく海を照らしている。
老人のいた大きな島から東へ向かい、小さな島影が近づく。
砂浜に、流れ着いた丸太に腰掛ける若い女性の姿が見えた。
健康的な浅黒い肌に白いタンクトップ、腰には鮮やかな青と白の波模様が描かれた腰布を軽く巻いている。
首をもたげた瞬間、首元で貝のネックレスが小さく揺れた。
「まぁ、ハロル。いらっしゃい。こちらにどうぞ」
彼女は柔らかく手を差し出し、隣を示す。
ハロルは素直にその隣に腰を下ろした。
「手紙の配達だ」
分厚い封筒を差し出すと、彼女の指先が触れた瞬間、淡い光の粒がふわりと舞い上がり、彼女を包んだ。
光はやがて霧のようにほどけ、潮風に溶けて消えていく。
女性はしばらく目を閉じ、唇を噛み締めるようにして息をついた。
「……五十年以上前、あの人が大罪を犯したのは、私のためだったのよ。村から追放されて、私たちは引き裂かれたの」
声はかすかに震えていたが、その奥に揺るぎない確信があった。
「それなのに……あの手紙には、後悔ばかりが綴られていた。全部、自分のせいだってね」
彼女は小さく首を振る。
「そんなわけないじゃない」
ゆっくりと瞼を上げたとき、太陽の光を受けて、涙が光っていた。
「何か届けるかい?」
「ううん」彼女は首を振って続けた。
「このくらいの小さな箱を届けてもらおうと思ってたんだけど、無くなってしまったのよ」手で小さな小箱の形を作って、彼女は泣きながら笑顔を作った。
「その箱には心当たりがある。届けておくよ」
「ハロル、今までありがとう。そろそろ行くわ」
立ち上がる彼女を、ハロルが見上げる。
「案内は必要かい?」
「いいえ、あの光の柱を登っていけばいいんでしょう?」
振り返った笑顔は、潮風の中で一層まぶしかった。
「あなたは、後悔のないようにね」
その言葉を残し、彼女はまっすぐ光の柱へと歩み出した。
*
後日、香辛料屋の老人のもとに、小さな小包が届いた。
包みを開くと、中には手織りの青と白の波模様の腰布と、白く光る貝殻の首飾りが収められていた。
そっと撫でれば、布の感触も、貝の滑らかさも、指先にやさしく馴染む。
同封された紙片には、短い言葉が綴られていた。
―――
あなたの罪は、私の罪よ。
ひとりで背負わないで。
―――
老人はしばらく動けず、潮風が店先の香辛料をかすかに揺らす音だけが、静かに流れていった。




