ep36: 小さな旅立ち
助産院の外は暴風雨だった。
窓ガラスを叩きつける雨は、まるで誰かが拳で打ちつけているかのような激しさだ。
稲光が辺りを白く染めた直後、耳をつんざく雷鳴が轟き、世界は一瞬にして闇に沈む。
停電だ。
*
そんな嵐の中、ハロルはポケットに手を突っ込み、豪雨をものともせず歩いていた。
地面を打つ雨が跳ね返り、顔に冷たい水滴がはじける。前はほとんど見えない。
それでも口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。嵐を楽しんでいるかのように──。
ただ、この天候ではさすがに飛ぶ気にはなれないらしい。
翼は休め、地を踏みしめながら、ゆっくりと歩みを進めていた。
*
助産院の一室では、非常電源に切り替わり、屋内の明かりが淡く灯っていた。
外の轟音とは別世界のような静けさの中、かすかな泣き声が響いている。
生まれたばかりの赤ん坊を胸に抱き、母親は静かに涙をこぼしていた。
その傍らで、父親も寄り添いながら、同じように目を潤ませていた。
*
ハロルが嵐の中を歩いていると、
肩から下げた白いカバンに、ふっと何かが触れたような感覚が走った。
──届いた。
それは声でも文字でもない、直接心に響く気配だった。
カバンを開けると、一通の封筒がそこにあった。
ある人へ宛てられた、大切な想いの詰まった手紙だ。
*
助産院の一室には、深い静けさが満ちていた。
医師が静かに夫婦のいる一室へ入り、赤子を抱く二人の前に腰をかがめて、
短く息を整え、柔らかな声で告げた。
「この子と……一緒に、最後の時間を過ごしてください」
切なげな表情で、そう告げた。
夫婦は小さく「ありがとう」と答えた。
母親は小さな命を胸に抱きしめたまま、震える声で赤ん坊を見つめる。
涙が頬をつたい、赤子の柔らかな頬へと落ちた。
「……あなたの名前は、ルカよ」
生まれたばかりのその子に、静かに、確かに名前を授ける。
その名は、嵐の外へも届くかのように、温かく、やわらかく響いた。
*
夫婦はずっと赤ん坊に語りかけていた。
小さな耳に届くよう、子守歌をそっと歌い、「生まれてきてくれてありがとう」と何度も繰り返す。
ただ、消えゆく命を大切に守るように──二人は、その限られた時間を抱きしめるように過ごしていた。
部屋の入口に、金髪の青年が静かに立っていた。
夫婦が不思議そうに視線を向けると、彼は歩み寄り、一通の封筒を差し出す。
「その子からのメッセージだ」
父親が封筒を受け取った。
「あの、あなたは?」母親が声をかける。
立ち去りかけた青年が振り返り、短く名を告げた。
「ハロルだ」
そう名乗ると、彼は静かに部屋を後にした。
*
父親が封筒をそっと開け、中の便箋を広げた。
そこには、誰かが代筆したのか美しい文字が並んでいた。
―――
ママとパパへ
ママとパパに あえて うれしかったよ
おそらから ながめてて
ずっと あえるといいなと おもってたから
ちょっとだけ あそびに きたんだよ
たぶん またあいにくるよ
ルカより
―――
読み終えた瞬間、二人の目から新しい涙があふれた。
母親はすでに冷たくなった赤ん坊を抱き寄せ、父親はそっとその肩を抱いた。
外では、嵐の音が少しずつ遠ざかっていくように感じられた。




