ep35: 病室のベッド
ハロルは、雷鳴の轟音と、縦横無尽に走るまばゆい稲光の中を突き進んでいた。
翼を完全にたたみ、弾丸のように積乱雲の壁を貫く。
――時間がない。残された猶予は、ほんのわずかだ。
厚い雲を抜けた瞬間、視界に広がったのは、暴風雨と雷が交錯する下界の空だった。
海面は牙をむくように荒れ狂い、塩の匂いが風に混じる。
ハロルは羽ばたきを最小限に抑え、風の流れに身を沿わせながら進む。
やがて、荒れた海の果てに巨大な島が現れた。
そこは現在、配達危険地域に指定され、常に渦巻く大気に包まれている。
島の中心部には、放射状に広がる都市。
その中心に聳える高層ビル群のひとつから、確かな“気配”が伝わってくる――
空の郵便局へ向けて、何かを必死に発信している存在の気配――
ハロルの視界には、それが霧の中で灯る灯火のように、ほの白く輝いて見えた。
その光は弱々しく、今にも風雨にかき消されそうだ。
「間に合え…」
胸の奥で小さくつぶやき、ハロルは翼を大きく二度、三度と力強く打った。
鋭く切り裂かれた風の音が耳をかすめる。
彼の体は弾丸のように加速し、白く光る気配を宿すビルへ、一直線に突き進んでいった。
*
ハロルは、病院の前に舞い降りると、瞬く間に金髪の青年へと姿を変えた。
白いシャツにカーキ色のパンツ、擦り切れた茶色のサンダル。
斜め掛けの白いコットンのショルダーバッグが、まだ空の風を含んで揺れている。
嵐の中を進んで来たはずの彼の体も髪も一切濡れていなかった、彼は自動ドアをくぐった。
冷たい空調の風が、嵐の熱を帯びた肌をなでる。
エレベーターを降りると、まるで見取り図を頭に描いているかのように、ためらいなく廊下を進む。
足音が人工の照明に照らされた床に響き、やがて「ICU」と掲げられた扉の前にたどり着いた。
本来なら見舞い客を拒む重い扉――
しかし、その扉は彼を知っているかのように、音もなく開いた。
ハロルは一瞬も立ち止まらず、その中へと足を踏み入れた。
*
病室には、数本のコードに繋がれた患者が、一人横たわっていた。
酸素マスク越しの呼吸は浅く、電子音が一定のリズムで心拍を告げている。
ハロルはその隣に立ち、低く声をかけた。
「あんたの、メッセージを受け取りに来たぞ」
反応はない。だが、電子音がわずかに速まった。
患者の胸はわずかに上下しているだけだったが、ハロルには見えていた。
全身からふわりと立ち上る、淡く白い光――まるで霧のように揺らめきながら、彼の体の上に静かに漂っている。
ハロルはカバンから小さな封筒を取り出し、その口を静かに開いた。
光が吸い込まれるように封筒へ入り、薄紙の中で柔らかく膨らんでいく。
確かに満ちたのを確認し、彼は封を閉じた。
「……確かに受け取った」
一言だけ残し、ハロルは病室を出た。
次の瞬間、長く甲高い電子音が廊下に突き刺さり、看護師たちが慌ただしく駆け込んでいく。
ハロルは廊下のベンチに腰を下ろし、ただ待った。
目の前を、白衣やナース服の人影が行き交い、早足の足音と低い指示の声が飛び交う。
やがて、その喧騒も潮が引くように遠ざかっていった。
20分ほど経ったころ、スリッパの軽い音が廊下に響く。
顔を上げると、一人の若い女性が現れた。
医師が近づき、短く、しかし逃れようのない言葉を告げる。
女性は呆然としたまま、病室からストレッチャーで運び出される亡骸を見送った。
その肩は、泣くことすら忘れたように固く沈んでいた。
ハロルは静かに立ち上がり、彼女へ歩み寄る。
手には、先ほど封をした小さな封筒。
「電報だ」
短くそう告げて手渡すと、彼は振り返らずに背を向け、廊下の奥に待つエレベーターへと消えていった。
―――
愛しい娘へ
君が私のもとに生まれてきてくれて、もう二十年になるね。
一人で君を残していくことを、どうか許してくれ。
私の遺灰は海にまいて。
何にも縛られず、君には思うままに羽ばたいてほしい。
君の未来は、きっと輝きで満ちているから。
父より
―――
吹きすさぶ暴風雨の中、金髪の青年は傘もささず、ポケットに手を突っ込んだまま、ゆっくりと歩き去っていった。
風に煽られる髪とシャツは濡れることなく、ただ嵐の景色の中に溶けていくようだった。




