ep29: 配達危機と苦渋の決断
「昨今の下界の気象変動に伴い、風の流れが大きく変わっておる。それに合わせ、我々の配達ルートも見直しが必要じゃ。――皆、それぞれの担当データを発表してくれ」
ジェロの低く響く声が、マホガニーの丸テーブルを囲む会議室に落ちた。
窓から差し込む淡い光が、磨き込まれた天板に鈍い輝きを落としている。
部屋には、5名の気象観測官と3名の配達マネージャー。彼らは地図や天候グラフを前に、重苦しい表情で席についている。
ここ数年、配達員が急激な気象変動に巻き込まれる事故が後を絶たなかった。
嵐の中で負傷する者、暴風雨で進路を断たれ引き返す者、突風にあおられて郵便袋を失う者――現場はいつも紙一重の危険と隣り合わせだ。
「従来の危険に加え、条件はさらに悪化しています」
観測官の一人が、手元のグラフを指先で軽く叩いた。
「偏西風の蛇行が大きくなり、季節外れの嵐や雪が発生する頻度が増加。海水温の上昇で渦の勢力は強まり、高緯度まで侵入するようになっています。
さらに、停滞した雲域が同じ場所に豪雨を降らせ続ける例も増加。突発的な下降気流や雹の大型化も確認されています」
壁一面に広がる世界地図の前で、別の観測官が長い棒を手に立ち、色分けされた危険地帯をなぞる。
地図には、青、赤、黄色、白の色が季節ごとの危険地帯を示し、渦や雪片、雷の印が散りばめられていた。
「ここは雨期が延び、晴天が減少。この帯は突風地帯が広がっています。北方の白域では、吹雪の勢力が増し、期間も長くなっています」
テーブルの中央には配達員の名簿が広げられ、赤や青の印で細かく注記が入っている。
過酷な条件にも耐えられる者と、そうでない者。長距離輸送が可能な者と、近距離専門の者。名前と能力の差が、無言の数字となって並んでいた。
「……どう考えても、人手が足りんな」
誰かの低い声が、紙の擦れる音に混じってこぼれる。
ニールとハロルは例外的な存在だが、彼らに負担を集中させればいずれ限界が来る。
残る配達員を酷使するのは、さらなる事故を招きかねない――そのことは、全員が痛いほど理解していた。
「……配達可能エリアと、その期間を大幅に狭める必要があるのぉ」
ジェロは、まるで自分の言葉を噛み締めるように、重く呟いた。
それは現状を打開するための案でありながら、郵便局としての矜持を対価としたものだった。
「天界の罪人をまとめてここに落として貰えばいいんじゃないか?」
場の空気を破るように、軽い調子の声が響く。
どこから聞きつけたのか、ニールが会議室の扉にもたれかかっていた。
「……そんな事が可能なんですか?」
エリオットが、驚きと半信半疑の入り混じった声を上げる。
ジェロは顎に手を当て、しばし黙した。
その眼差しはニールを見ているようで、遠く別の景色を見ているようでもあった。
会議室の空気は、一瞬だけ軽くなったかに見えたが、それはすぐに重苦しい沈黙へと戻っていく。
結局、決定的な妙案は出ないまま、その日の会議はお開きとなった。
残されたのは、危険地帯の地図と、赤や青の印で埋め尽くされた名簿だけだった。
*
あの会議以降、ジェロは一度もフロント業務に姿を見せなかった。
局長室にこもりきりで、外に出てくる気配がない。
局長室の奥には、誰も立ち入ってはならない扉がある。
その奥に、ジェロはいた。
――果てしなく続く壁。
窓はないのに、眩しい光が満ちている。
見上げても、ただ光が続くばかりだ。
現実の部屋とは思えぬその空間で、ジェロは何者かと向かい合っていた。
声は遠くからもれ聞こえるが、言葉ははっきりしない。
ただ、そのやりとりが「配達員の調達」に関わる相談であることだけが伝わってきた。
*
三日後――。
ジェロは局長室から出てきたかと思うと、局員たちに短く告げた。
「しばらく留守にする」
その言葉を残し、彼は翼を広げ、空に浮かぶ島を飛び立っていった。
エリオットが局に勤めて以来、ジェロが局を離れる姿を見たのはこれが初めてだった。
古参の局員によれば、過去にも数度だけ同じことがあったという。
だが、その理由を知る者はいない――。
*
ジェロが訪ねたのは、配達員たちが長旅の途中でよく羽を休める、宿屋併設の酒場だった。
奥には木の階段があり、二階は海を望むバルコニー席になっている。
手すりにはランタンがいくつも吊るされ、風に揺れていた。
店主は、入り口に立つジェロの姿を見つけると片眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。
旧知の間柄らしく、手短に店員へ指示を飛ばすと、賑やかな酒場を抜けて2階の特等席へと案内する。
「忙しいところすまんのぉ、レオン」
「気にすんな。今日客の入りも少ない」
ジェロは腰を下ろすなり本題に入った。
「下界に散らばる元天界人で、配達業務を任せられる人材はおらんかなぉ。現場はもう、人手が限界なんじゃ」
レオンは顎に手を当て、しばし考えた。
やがて、唇の端をわずかに吊り上げた。
「……そっちの人材をこっちに回せるんなら、集められねぇこともないぜ。俺の“つて”を使えばな」
そして、ふと思い出したように笑う。
「この間、ハロルとニールがこの辺りをうろついてたのは……そういうわけだったのか」
それは、配達員が手紙を空からばら撒いた一件の後始末の話だった。
ここは、かつてハロルがナツを連れて立ち寄った、あの宿付き酒場でもある。
海賊と見まごう風貌の店主――レオンは、空の島の前任の郵便局長だった。
長年の経験と独自の人脈を持つ彼は、今もなおジェロにとって頼れる存在だ。
「ジェロ、お前はここに泊まって、しばらく羽を休めろ。明日には人材を集めてきてやる」
二人の話がひと段落する頃、木のテーブルには湯気を立てるご馳走が次々と並べられていく。
手すりに吊るされたランタンが潮風に揺れるたび、金色の光がちらちらと波間に落ち、夜の海を幻想的に染めていた。




