第1章 宵闇の逢瀬⑦
* * *
宵闇は家に帰ると畳の上に寝転んだ。畳の冷たさが走ったことで火照った身体を冷やしてくれる。煌夜は何処かに出掛けているのか、姿が見当たらない。今は煌夜の明るさと世話焼きなところが無性に恋しい。今なら過保護に閉じ込められても従える気がする。それくらいに自分の中に湧き上がった感情が理解しがたく、そして受け入れがたかった。受け入れるくらいなら二度と人里に行かなくて良いとさえ思えるくらいに、受け入れがたい感情だった。
「宵闇、もう帰ってたのか。早かったな……ってどうしたんだ! やっぱりまだ本調子じゃなかったんじゃねぇか」
慌てて駆け寄ってくる煌夜を見て、宵闇はゆっくりと身体を起こす。早まった鼓動はいつの間にか落ち着いていた。
「いや、身体は何ともない。ただちょっと考え事をしていただけだ」
心配そうに顔を覗き込んでくる煌夜の肩を押して突き放した。やはり過保護すぎるのは嫌だと、ほんの少し前の自分の考えを即座に否定した。いくらなんでも血迷った思考に走りすぎたと宵闇は頭を押さえる。
「……驚かせるなよ」
深い溜息を吐き出してその場に座り込む煌夜に、そこまで心配する必要もないだろうと眉根を寄せる。
「とりあえず無事でよかった」
「無事?」
「さっき村の連中に聞いたんだ、人里の方でお前を襲った奴らがうろついてるのを見たって」
宵闇は震えそうになる身体を無理やり抑え込む。落ち着け、もう過ぎたことだ、と何度も自分に言い聞かせる。無駄だと分かっていても。
今になって死に直面した事実が恐怖となって襲いかかって来る。あの死にかけの状態のときには、恐怖よりも自分にも死があることへの驚きの方が大きかった。だが、今は違う。何がどう違うか、と聞かれても上手く答えられない。ただ今は死への恐怖が大きい……人間の手によって死に追いやられるくらいには鬼も脆い存在だと分かってしまった。
偶々宵闇は今も生きている、神の身体を手に入れて。だが、そんな奇跡、二度は起きまい。次もまた死を回避できるなど到底思えない。落ち着け、今此処にあの人間たちはいない、今自分は死に直面してなどいない、とただひたすら宵闇は冷静になろうと試みる。
「宵闇?」
「……何だ?」
グルグルと回り続ける思考を必死に断ち切り、目の前の煌夜に返事を返した。素っ気なく僅かに震えた声。それは宵闇が恐怖を隠し切れていない証拠。断ち切ろうとしても決して断ち切れない。
恐怖で思考が染まる──死に対する恐怖、失う恐怖。目の前が赤く染まる、血の赤に。誰の血だ。誰から流れ出たのだ。誰かが泣き叫ぶ。誰の声だ。誰がその場にいるのだ。
光が霧散する。
「……光?」
宵闇は身に覚えのない幻覚、いや記憶というべきか、ただ脳裏に映ったその光景は彼の知らぬものだが、この奇怪な現象には覚えがあった。湖で神の身体に触れた瞬間と同じだ。これは宵闇の感情が、この身体の持ち主である神の記憶を呼び覚ましたとでも言えば良いのか。
「なあ、宵闇、何でお前はオレを従者にしたんだ?」
「……は?」
唐突すぎる問いかけに理解が追いつかない。そもそも煌夜が目の前にいたことをすっかり忘れていた。今までの宵闇の思考たちは何処へと旅立つ。何の脈絡もない問いは、宵闇を思考停止状態に追いやるには十分すぎる威力があった。
「……いや、お前、いきなり何言っているんだ。大体従者にしろと言ってきたのはお前の方だろ」
呆れた声で言う宵闇は既に恐怖心から完全に解放されていた。煌夜がこうなることを意図してやったのか分からないが、今だけは彼に感謝する。
煌夜という男は従者になる前から世話焼きな性格であったが、従者になってからは過保護になりすぎで控えめに言っても鬱陶しいと思ったことは数知れず。そこまで考えて宵闇はふと疑問に思った。煌夜は何故宵闇の従者となろうとしたのかと。
「なあ、煌夜。お前は、どうして俺の従者になろうと思ったんだ?」
仕返しというわけではないが、先に従者云々の話を持ち出してきたのは煌夜の方だ。この際、疑問をぶつけてやっても構わないだろう。ほんの少し八つ当たりが混じっているのに宵闇は気づいている。不覚にも煌夜に救われてしまったことが悔しい。
「え? あー、えっと、何でだったかな……」
煌夜は言葉に詰まる。視線を彷徨わせて次の言葉を考える。
宵闇を襲った連中が人里にいる、と言った後から宵闇の様子がおかしいことに煌夜は気づいていた。だからこそ、意識を別のものに向けようと何の脈絡もない言葉を投げかけたのだが、仕返しされるところまでは想定していなかった。
「……何でだろうな。別にただの幼馴染みで良いって思ってたはずなのに、オレたちの関係に名前が欲しかったのかもな、主従っていう名前が」
「意味分からない。幼馴染みも俺たちの関係の名前だろう。何でわざわざ従者になろうとしているんだよ」
はぐらかそうとしている煌夜に苛立ちを感じた宵闇はそっぽを向いてそのまま寝転んだ。目を閉じて彼の姿を視界に入れないようにする。
その様子を見た煌夜はクスリと笑った。本当の答えを言うには流石に少し照れくさい。従者となってから既に百年以上経っているのに、今更その理由を言う気にはなれない。
「拗ねるなよ。昔のことだろう……オレでもそんな前のことなんて覚えてねぇよ」
宵闇から言葉は返って来なかった。大分機嫌を損ねてしまったなと煌夜は苦笑した。この様子では、しばらくは放っておいた方が良い。先程の忠告を宵闇は忘れていないはずだ。しかし、忘れていなくても忠告を聞く気など更々ないであろうと分かっている。煌夜に宵闇の自由を縛る権利も、縛れるほどの力もない。無事を祈ることくらいしか出来はしない。
「オレは畑見に言ってくるから、どっか出かけるならせめて書き置きくらい残して行けよ」
煌夜が出て行った後、宵闇はむくりと身体を起こす。外を見ると暗くなっている。どうやら今日は夜が来たようだ。