第1章 宵闇の逢瀬②
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ゆらゆらと意識が浮上する。ぼんやりとする頭で此処は何処だと考えて、起き上がろうとすると鋭い痛みが走った。その痛みが、宵闇にまだ生きていることを実感させる。先程の記憶はこの傷を負った原因のもので、まるで走馬灯のようだ。
痛む身体を無理やり起こして、辺りを見渡すと視界の端に湖が映った。予想だにしない光景に思わず目を擦り、恐る恐る視線を右へと移す。そこにはやはり湖があった。しかし、今まで何度もこの森に入っているのに、湖など見たことがない。
まさか意識を飛ばしている間に拐かされたのだろうか。白く靄がかかったような状態の頭では状況を整理しようにも上手く思考が働かない。
「ん?」
湖の水面が一瞬だが光を発しているように見えた。
血の流しすぎでついに目がおかしくなったかと、宵闇は顔を引き攣らせて笑う。これほど血を流してもなお意識を保っているのは……彼が人ではないからだ。
この国の人たちに言わせれば宵闇は鬼という存在らしい。断定できないのは、長い年月を生きている彼自身、己を何と称すれば良いのか分からないからだ。ただ分かるのは人間という括りには入らないということだけ。
宵闇は様々な土地を移動しており、その土地によって鬼やら吸血鬼やら異なる呼ばれ方をする。呼び名など彼にとっては些細なもので、今自身がいるこの国の名を覚えていない。漢字二文字の国名だった気がする、その程度しか分からない。知らぬところで何の苦労もしない。
「……煌夜、のやつは、わざわざ……覚えている、んだったな……」
先程宵闇に声をかけた煌夜も、彼同様鬼と呼ばれる存在だ。煌夜とはどれほどの年月を共に過ごしたのか。その年月はあまりにも長すぎて、あまりにも自然に一緒にいすぎて、分からない。煌夜は宵闇の従者故か、元来の性格故か、わざわざ必要のないことまできちんと記憶している。あまりそれが役に立ったことはないのだが。
「それに、しても……はは、まさか……俺が死ぬ日が来るとはな……」
乾いた笑い声が、音のない森に響き渡る。悲観するわけでもなく、只々己の状態を再確認しているだけ。彼らは人ではないが不死身ではない。死ぬときは死ぬ。傷の治りは早いが、傷を負いすぎれば死ぬのだ。
同族たちの死は何度か見てきた。人ではない我らにも死があるのだということを理解はしていた。だが、受け入れるにはあまりにも長く生き続けてしまっていた。死を望みはしないが、どう足掻いても生きながらえることは無理だと既に分かっている。
「……死にそうで……なかなか、死なないな……どうせ死ぬなら、さっさと死んでしまえばいいのに……」
足に力を入れて立ち上がる。血が流れ出るのに構わず湖の方へ足を進めた。そこに向かおうとしたことに意味はない。何歩も進まないうちに力尽きて、崩れるように膝をついた。ぼやける視界に水面が見える。ちょうど湖の縁に座り込んだようだ。長い黒髪がそっと地面に垂れる。重い瞼に力を入れて無理やり開くと、水面をはっきりと視界に捉えた。
「……は? 何だ、これは……人?」
湖の中に人が沈んでいた。いや違う、これは人の形をした何か、だ。
こんなところに人が沈んでいる可能性は限りなく低い。この森は鬼が所有する場所だ、人間が容易に入って来られる場所ではない。それに、彼にはこの沈んだ物体が人のように感じられなかった。それらが、彼が人の形をした何かと表現した理由だ。
宵闇は動くことを拒否する身体を気力で動かして、湖の縁に手をつく。中を覗き込むとより鮮明にその人の形をしたモノが目に映った。最初は女性かと思ったが、よく見れば男性のようだ。水の中に広がった黒に近い青色の髪、少し日に焼けたような肌。表情は穏やかに眠っているような感じだ。服は腰のあたりで紐……確か何処かの地でベルトと呼ばれていたもので留められており、見た感じ動きやすそうな格好をしている。
宵闇はこの人の形をしたモノの正体が気になった。どのみちもうすぐ死ぬ身だが、心残りがあるまま死ぬのも気に食わない。まだかろうじて動かせる身体を、痛みに顔をしかめながらもゆっくりと動かし、湖の中に入っていった。身体に幾つもある深い傷口に水が沁みて痛みがさらに増す。
彼の周辺にある水だけが赤く染まっていく。それほどに彼の身体から血が流れ出ているのだ。彼が人であったなら今頃は既に死んでいるに違いない。人の形をしたモノに向かっているはずだが、中々それに触れることができなかった。上から見たときは分からなかったが、思った以上にこの湖は深いようだ。
出血しすぎて意識が朦朧とする中、宵闇は必死に手を伸ばす。指先がほんの僅かに人の形をしたモノに手を触れると、何かがドッと流れ込んでいくのを感じた。
「何が……起きているんだ……」
水の中にもかかわらず普通に言葉を話せることに違和感を抱くほどの余裕は彼にはなかった。出血が激しい。水中故に痛みは増している。いくら宵闇にいえども、気を抜けば意識を持っていかれる。
〝どうして〟
誰かの声が聞こえる。震えた声だ。何かに怯えている。
〝すまない、──〟
誰かに向かって謝罪している。悲痛な声が何度も何度も謝り続ける。強い、強い後悔の念が押し寄せてくる。どうして、すまない、その言葉が繰り返し再生され続ける。
〝う、ああ、あああああああああ!〟
強い、強い哀しみが襲いかかる。悲痛な叫びが耳にこびりついて離れない。
やめてくれ、誰なんだ、何がそんなに悲しいんだ。宵闇は何処からか流れてくる言葉に怒りを覚えた。早く此処から去らなければ、と思っているのに身体が動かない。もう限界だった。身体を動かす力がもう残っていない。後悔の念と哀しみに、意識が呑まれてゆく。