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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

宇宙実験動物の犬・ライカの物語


わたしは閉じ込められていた。

とても狭い。

ちょっと手足をのばすだけで、壁や天井にぶつかってしまいそう。


特別製スーツのせいで不快だ。

いろんな計測機器がくっついており、着衣から延びるコードは、鈍銀色の奇妙な塊に接続している。

服はギュッと体を絞めつけていた。

そのせいで自分の心臓が鼓動するたびに、血管が激しく脈打つ。


まったく動けなかった。

最初から、別の意味で自由なんてなかったのだ。

頑丈なベルトが身体を固定した状態は何時間も続いていた。

できることはジッと耐えるだけ。

姿勢を変えることすら、もう諦めている。


不意に、感情のない音声が外から響いてきた。


「エンジン点火まで、あと一分」


言葉を聞いた瞬間、ぞわりと悪寒が背中をはしった。

意味がわからない。

―――なに?いったい何なの?

全身の血の気がひいてゆく。

喉はひりつき渇いていた。

腕がしびれて感覚が遠のいていく。

吐く息は荒く、ふつうに空気を吸い込むことすら困難だ。


「エンジン点火十秒前……九……、八……」、


緊張のあまり、頭がクラクラしてきた。

視界がゆらゆらと揺れて、気分が悪くなる。

もう吐きそうで我慢の限界だ。

逃れようと懸命にもがくけれど、拘束ベルトが邪魔をした。


―――ああ、出られない。どうして?


外の拡声器はカウントダウンを淡々と進めてゆく。


「三……、二……、一……、点火」


その瞬間、轟音が響く。

いままで経験したことのない“それ”は、あまりにも暴力的であった。

耳の奥でキーンと異様な音が鳴り続ける。

他になにも聞こえなくなった途端、わたしは絶望の激流に落ちていく。


同時に、強烈な衝撃が襲う。

内臓が圧し潰されそうだ。

肺に異常な力が加わっているので、ろくに呼吸ができない。

身体ではなく、自分を閉じ込める空間自体が大きく揺れて、言葉も思考もすべて吹き飛んでゆく。


それでも、ひとつの疑問だけが、痛みをともなって心に残る。


―――ああ、わたしは、いつ、どこで間違えたのだろう……




■■■■■


思い返せば、あれは晩秋だった

あと数週間もすれば冬将軍の到来する頃。

吹く風はだんだんと冷たくなり、樹木の葉を枯れ落とさせていた。

空はいつも曇りがちだ。

今日もどんよりとした雲が空をおおっている。


この街に色はない。

灰色を中心にした濃淡があるくらいで、色鮮やかさに欠けるのだ。

家屋の壁や屋根は、無彩色だけで構成されていた。

街中に暮らしていると、身も心もグレーに染まってしまいそう。


そんな気鬱な灰色の片隅で、わたしは暮らしている。

定まった家はない。

建物間の狭い隙間、裏通りの段ボールの陰、公園の茂みの奥——どこか安全な場所をみつけては潜り込む。

ひっそりと息をころして、危険をやりすごす毎日だ。


ずっと路上で生活してきた。

あたたかな家で過ごした経験はまったくない。

物心がついたときには、路上生活がわたしの日常になっていたのだ。


母親と一緒に暮らしていた頃もある。

ただし、ほんのわずかな期間だけ。

彼女の胸のぬくもりを、かすかだが覚えている。

あたたかくて、やさしい、といったひどく断片的な記憶のみ。

残念だけれど、まともな思い出はひとつもない。


いつ間にやら、母とはぐれていた。

捨てられたのか、事故にでもあったのか、どうなったのかは不明だ。

確かなのは、彼女は戻ってこなかったこと。

父親については顔すら覚えていない。

わたしたちは、はじめから家族になれたことなんて、たぶん、一度もなかった。


ひとりになってから、ひたすら耐える日々だった。

いつだって、お腹は空いていた。

水をがぶがぶと飲んで、胃の中のすきまを誤魔化すこともあった。

ゴミ箱を漁り、かろうじて口にできるものを探すのが、毎日の仕事だった。


今でも、わたしはひ弱な存在だ。

体躯は小柄だし、力も弱い。

早く走ることだって無理。

いつも空腹で、お腹いっぱいに食べた経験なんてないのだから、発育不良なのも当然であろう。

けれど、たったひとつ武器があった。

それは悪意に敏感であること。


つまり、すばやく危険を察知できるのだ。

自分を傷つけようとする害意に対して、鋭い嗅覚みたいなものが働いた。

相手の声の嫌な調子。

足音の不穏なズレ。

絡みつくような不快な視線。

そうした気配を感じると、いち早く身をひるがえして逃げ出す。

その感度の良さが、わたしをここまで生き延びさせてきた。


大人たちは無関心か、あるいは意地悪かだ。

わたしなどを無視するのは、まだ耐えられる。

でも、石を投げつけるのは勘弁してほしい。

棒でぶたれるのも。

身体の痛みよりも、世の中の理不尽さを感じて涙がでてくる。


だから逃げた。

危険に対して鋭い感覚に頼るしかない。

それだけが、わたしの唯一の生きる(すべ)なのだ。

傷つかないために、死なないために。

そして悪人に見つからないように。

虐められるまえに、はやく姿を消そうと願った。

わたしは、自分を溶かして灰色の街に同化する。




小さな雪片がちらつき始めていた。

その日も、ひどく空腹だった。

もう一週間ちかく,まともな食事にありつけていない。

栄養が足りてないためか、どうしても体の反応が鈍くなりがちだ。

ましてや、わたしは小柄なので、低い気温はこたえる。

冷たい風は骨の髄まで熱を奪い、なけなしの体力を消耗させてゆく。

おぼつかない足取りで、なにか食べ物はないかと裏通りをさまよっていた。


大人の男が二人いるのをみつけた。

食べ物とスキットル(携帯容器)を持ちながら雑談をしている。

かすかに酒の匂いが漂っているので、容器にはウイスキーがはいっているのだろう。


背の高いほうが、こちらに視線をむけた。

手には麦パンのかけら。

さりげなく腕をのばして、言葉をかけてくる。


「腹、へっているんだろ?ほら、やるよ」


思いがけない声に、わたしはピクッと震えてしまう。

悪意は感じなかった。

残りのひとり、でっぷり太った男性はジッとしている。

その顔には笑みが浮かんでいるし、態度も穏やか。

だから、不用意に近づいてしまった。


「ちいさいの、捕まえたぞ」

「こいつは使えるかな?」


いきなり身体をつかまれた。

次の瞬間、首に鉄の輪が嵌められる。

とっさにこの場を離れようと駆けだしたが、数歩動いただけで止まった。

首輪に鎖がついていたのだ。

必死に抵抗するけれども、鉄製のチェーンはガチャガチャと鳴るだけ。

耳障りでとても嫌な音だ。

もう、逃げられない。

そう伝えてくるようだった。


頑丈な檻に放り込まれる。

手足をつっぱねて抗うも、無理やり引っ張られ、首筋に小さな傷がいくつもできた。

檻内には、見知った顔がいくつか。

仲間ではなくて別の縄張りの連中で、誰もが目を合わせようとはしない。

寒さと、恐怖と、絶望のせいで皆ただ震えるばかり。


トラックの荷台へと、わたしたちは載せられた。

エンジンがくぐもった咆哮を響かせ、排気管から黒いガスを噴き出す。

舗装されていない砂利道をがたがたと進んでいった。

車体が揺れると檻が軋み、曲がり角にさしかかれば身体が片方に寄ってしまう。

そのたびに、わたしの中の何かが崩れていった。


不規則な振動。

先のみえない不安。

いろんな悪条件が重なって、猛烈な吐き気が襲ってくる。

胃は空っぽなので、込みあげてくるのは胃液だけ。

酸っぱく、苦く、異様に熱い。


―――なぜこんなことに?


気分が悪くて、いつの間にか目を閉じていた

たぶん、なにかを間違えてしまったのだ。

でも、それがどんなものなのか考えたけれど、もう今はどうでもよい。

疲れていた。

ただ、それだけだった。




男の怒鳴り声が聞こえる。

わたしを捕らえた背の高い大人だ。


「到着したぞ。

さっさと、起きやがれ」


目を開けると、トラックはすでに停車していた。

車内はしんと静まり返っていて、エンジンの唸りも、気持ち悪い揺れもない。

いつ止まったのか、まったく覚えていなかった。

なにか夢を見ていた気もする。

しかし、内容を思い浮かべるよりもはやく、霧のなかに消えてゆく。


見渡せば、そこには広大な敷地。

コンクリート製の四角い建造物がいくつも並んでいる。

地面はむきだしの土砂と、ところどころに枯れた草が残っているくらい。

あたりを眺めても、生物の気配は皆無だ。


施設の印象は、無機質な灰色で冷ややか。

温かみに欠けるし、長くいたい場所でもない。

ここを離れたいが、生まれ故郷の街に戻りたいともおもわない。

きっと、わたしにふさわしい居場所など、世界中のどこにもありはしないのだ。


鉄製の檻から引きずり出される。

わたしたちは、乱暴に追い立てられて、寒々しい建物の中へと押しやられた。

屋内は薄暗くて、身も凍えるような沈黙が漂うばかり。


鎖がガチャガチャと耳障りだ。

金属が擦れる音がするたびに、不安が身体の奥でざわめいた。

拘束具は重たくて鬱陶しい。

空腹が酷すぎて、足元がゆらゆらと歪んで見える。


まわりの子たちは怯えていた。

体を寄せ合いつつ、ブルブルと震えるばかり。

動揺するのは当然のことだけれど、彼らの様子は、じわじわと、わたしの心根にも影響する。

せっかく、なにも考えなかったのに……悪い想像が浮かんでしまった。


ひとりの男性がやってくる。

ヘラヘラと笑う姿は軽薄な感じだ。


「よう、腹、減っているんだろ。

まあ、メシを食べろや」


薄っぺらな男の言葉は嘘ではなかった。

しばらく待っていると、木製の器が運ばれてくる。


ふわりと甘い香りが漂ってくる。

その匂いは、たちあがる湯気とともに、食欲を刺激した。

盛られているのはミルク粥だ。

白くとろりとしていて、ひと目で味が予想できてしまう。


誰も手をつけようとはしない。

みんなの視線は、お粥に向いているのに、動く気配がしなかった。

警戒と不安が、全員を縛りつけているのだ。

数十秒の沈黙がつづく。

互いに眼を合わす様は、無言で会話するかのよう。

お前が行け、俺はイヤだからな、みたいな雰囲気だ。


ひとりの子がおどおどと近寄る。

あたりを見渡しつつ、注意深くゆっくりと足をすすめた。

特に、軽薄男が怪しい素振りをみせたら、すぐにでも逃げられるように。

そろそろと木器に口をつけた。

ひとくちだけ食べて、再びまわりの様子を確かめる。

用心しているのだろう。


ふたくちめ。

なにも変化はおきない、イジワルもされない。

食べるペースが少しずつ早くなってゆく。

やがては器に顔を突っ込まんばかりの勢いだった。


その時点で、ほかの者たちも同じだ。

みんな、警戒心が吹き飛んでしまい、食事に夢中になっている。

室内に響くのは、ガツガツと食べる音だけだった。


わたしとて例外ではない。

ふと気がつけば、皆と似た動きをしていた。

口のまわりがミルクで汚れるのも構わずに、お粥を胃の中へと流してゆく。


甘くて、やさしい味だ。

お粥のあたたかさが、やんわりと体中に広がっていく。

こうも、しあわせな気分になったのは、初めての経験であった。

腹を満たすだけでなく、ご機嫌になれるなんて、まるで魔法の食物みたい。

満足感が大きくなり、飢え渇きが後退した。

最初のころの恐怖心も、いつのまにかしぼんでいる。


制服姿の女たちが、無表情で近づいてきた


「さあ、きれいにするわよ!」


彼女たちに連れられて、わたしたちは洗浄室へとむかう。

鉄管から、お湯がバシャバシャとぶつかってくる。

石鹸でゴシゴシと洗われた。

泡が目に入ってとても痛い。

固いブラシは、皮膚にざらつく感じがして、つい身をよじってしまう。


「動かないで!」


厳しい声で叱られた。

同時に、頭からシャワーを浴びせかけられる。

口や鼻にお湯が侵入してきて、咳き込むのだけれど、担当の女性は情け容赦ない。

その手荒い動作は、世話をするというよりも、効率優先の実務作業といったふう。

さっさと終わらせたいという意図が、まるわかりな態度。


わたしは、ひどく汚れていた。

いくら洗っても、流れ落ちるお湯は黒いままだ。

洗っては濯ぎ、また洗って……。

同じ作業が何度も、何度も、繰り返された。

先ほどのミルク粥で感じた、しあわせな気持ちは、汚れた水とともに、排水溝へと吸い込まれてゆく。


夜。

わたしたちは、再び頑丈な鉄檻に戻された。

格子が閉まるときの音は、施設内の壁に反響する。

けっしておおきな響きではなかったはずなのに、いつまでも耳の奥で鳴っていた。


うまく表現できない状態に、わたしはいた。

お腹は満たされているし、体もきれいなのだから、もっと気分良くなっていいはず。

しかし、心は暗く沈んだまま。

すなおに、喜べないのだ。

なんだか肉体と精神が別々になったみたい。

自分のことなのに、訳が分からなくなって困惑するばかり。


でも、ひとつだけ確かなことがある。

今のわたしには自由がないという事実。

頑丈な檻から逃げることはできないし、この施設から出るのも無理。

もう、残されていたのは、諦めだけだ。

ああ、これからどうなるのだろう?




翌日。

激しく荒々しい金属音で、跳び起きた。

わたしたちを閉じ込めていた檻が、警棒で叩かれていたのだ。

目の前には、筋骨たくましい大男。

鉄がぶつかり合う暴力的な音が、コンクリートの壁にはね返ってくる。

耳を塞いでも、頭の中までガンガンと痛いほど。

胃のあたりがむかむかと気持ち悪い。


男は腕を組み、動かないまま低い口調で言った。


「今日から訓練をはじめる。

指示に従うやつには、飯を出してやろう。

ただ、メシ食いはいらねえ。

捨てるからな。

……まじめにやれよ。

いいな?」


その態度は強圧的だ。

わたしたちの事情など完全に無視している。

そもそも、なぜ、ここに連れてこられたのか説明もなければ、謝罪もしない。


あるのは一方的な宣言。

反論どころか、質問すら許されない。

実際、我々全員は声をあげられなかった。


大男の姿は、まるで絶対の支配者だ。

こちらの同意さえ求めていない。

彼にとって、命令は実行されて当然のことなのだ


でも、わたしは気づいていた。

眼前の男に、悪意は“ない”。

少なくとも、すぐに誰かを殴るだとか、怪我を負わせようとする気配は感じなかった。

たしかに言葉は乱暴であろう。

けれど、ただの脅しにすぎない———わたしの感覚が告げていた。


……もう、従おう。

そう考えたのは、もしかしたら、傷つかずに済むから。

意地悪されるのも、痛い目にあうのも勘弁してほしい。

理不尽な暴力にさらされないなら、それもいいと、かすかな諦めがあった。


訓練が始まるが、その内容は奇妙だ。

最初に命じられたのは、『狭い場所にいること』。


施設の訓練担当官は述べる。


「まずは閉鎖空間に慣れてもらう」


あいかわらず説明はない。

なぜ、そんなことをするのか教えられないまま、実行を強要される。

わたしにできるのは、ひとつだけ。

すなおに命令を受けて、言われるままに服従すること。

抵抗する気はすっかり消えていた。


はじめは金属製の大きな箱。

ちゃんと空気穴があって、窒息しないように工夫はされている。

穴から光も入ってくるし、真っ暗ではない。


放り込まれた瞬間、つい身体がビクッとなった。

なにも知らないままに、狭小空間にいると、心臓がドクドクと激しく鼓動する。


しばらく動かずに様子をうかがった。

痛くはない。

怒鳴られることもなかった。

ただ、圧迫感があって、ちょっと息苦しい程度だ。

時間が経過するにつれて落ち着いてくる。

鉄壁がひんやりと冷えていて、意外にも、心地よいと思えるくらい。


何度も、金属箱に入れられた。

同じことを何日間も繰り返せば、さすがに順応してくる。

初めのころに感じていた恐怖も薄れて、いまではジッと我慢すればやり過ごせるのだと、“学習”できてしまった。


一ヶ月後、いくぶん狭い箱になる。

次は、それよりも小さなサイズだった。

さらに次は、立てば天井に頭をぶつけてしまうほど。

三ヶ月、半年……

そうして、わたしたちは少しずつ縮んでいく空間に、徐々に“慣れて”ゆく。


わたしは命令に従う。

反抗はしないし、不満な態度もとらない。

言われたことを素直に実行した。


理由は——ご褒美だった。


訓練が終わるたびに提供されるミルク粥。

しかも、たっぷりと肉が混ぜられている。

ときには甘い麦パンが添えられることも。

粉砂糖がまぶされているときもあって、つい心が浮き立った。


なによりも、うれしいのは、毎日、食事があること。

もう飢えない。

襲われる心配もなしに、ちゃんと眠れる場所だってある。

ここは安全なのだ。

我慢して訓練さえすれば、ひもじいことも寒さに凍えることもない。

自由はないけれど、生まれ故郷の灰色な街で生活しているころに比べれば、ずっとマシだ。


そんなわたしを、訓練担当官は褒めてくれる。

「よくやったな」という言葉と、ニコリと笑う姿に、疲れも吹き飛ぶ気分だ。

彼は大きな手で、頭をなでてくれる。

手が触れると、胸の奥がじんとした。

なによりも、その感触は驚くほどあたたかくて、どんなことだって頑張れる。


訓練はほかに幾つもあった。

たとえば、鉄製カゴに入ってぐるぐると回るもの。

担当官によれば、『急加速に耐える』ものらしい。

装置は巨大な遠心分離機で、モーターがゴウゴウと唸る音は、心ざわつかかせた。

機械には鉄の腕があって、先端部にゲージがくっついている。


わたしはこれが苦手だ。

回転が早くなるにつれて、疑似的重力が猛烈な圧力を加えてくる。

頭部から血がさがって、意識が遠のきそうになる。

息は苦しくて、内臓がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるみたい。

訓練が終わるころには、吐き気と疲労で目の前がにじんでしまう。


そんななか、引っかかることがあった。

訓練担当官たちの何気ない会話だ。


「使いものにならん」

「アイツは不合格にしよう」

「はあ、処分するか」


なにを言っているのか理解できなかった。

けれど、日が経つにつれ、施設に連れてこられた者たちの数は少しずつ減ってゆく。

何人かは、いつの間にか姿を消していた。


訓練が始まって、いくつか季節がすぎる。

冷たかった風が、温かくなり、やがて日差しが強くて空気が暑くなった。

それが過ぎれば、再び気温がさがって、ついには小さな雪片が舞い散る。

まわりにいた子たちの半分は、もういない。


だが、わたしはまだここにいる。

狭い空間にも、重力にも、黙って耐えてこれた。

なぜだろう?

自分でもよくわからないけれど、“あの手のあたたかさ”を忘れなければ、今日一日を無事に終われる気がする。


訓練の合間、ときおり白衣の壮年男性を見かける。

髪にはいくらか白いものが混じっており、額や頬にはシワが刻まれていた。

背筋がすこし曲がっており姿勢はあまり良くない。

勝手な想像だけれど、仕事が忙しくて、いつも睡眠不足なイメージが浮かんだ。


彼は、訓練担当官たちから『博士』と呼ばれている。

周囲からは丁寧に扱われているし、いつも誰かがそばに付き従っていた。

その様子から察するに、白衣の人物は“特別な存在”なのだろう。


博士と訓練担当官たちは頻繁に会話をする。

雰囲気は和やかで、ときには大きな笑い声すら聞こえてきた。

傍からみても仲が良い。

訓練の成果や、計画の進行具合についてのやり取りだったのかもしれない。


けれど、あるときから空気が変わった。


「……の計画が、前倒しだ」

「上からの命令には従うしかない」

「期日に間に合わん。犠牲も覚悟すべきだろう」


わたしには、関係のない話だった。

なにが起きているのか、知る必要はない。

我慢して訓練を受ければ、ちゃんと食べ物がもらえれば、それだけで満足できるのだから。

余計なことを考えても、疲れるだけだ。


そんなある日、博士が歩み寄ってきた。

これまでとは違う。

その足取りは、まっすぐに、わたしを目指している。


「やあ、こんにちは」


白衣の男はやわらかな笑みを浮かべる。

わざわざ片膝をつき、小柄なわたしに合わせて、目線の高さを低くした。

そのうえで、ゆっくりと、穏やかな口調で語りかけてくる。


「君は選ばれたんだ。とても名誉なことだよ」

「科学が進歩する。人々は君の功績を称えるだろう」

「……ただ、君には不本意かもしれない。どうか、許しておくれね」


たくさんのことを聞かせてくれた。

しかし、使われている言葉も内容も、わたしにはさっぱり分からない。

それでも博士の目を見て、気づいたことがある。

慈愛に満ちた視線で、こちらを見てくれていた。


この人は、やさしいのだろう。

生まれ故郷の灰色の街で、わたしを叩き、石を投げた住人のような意地の悪さはない。


その証拠に、脅しや威嚇の気配は乏しい。

わたしの“センサー”は、彼に対してピクリとも反応しなかった。

生き延びるための唯一の武器である、悪意に敏感な感覚には、ずっと助けられてきたのだ。


だから、今回も……だいじょうぶな気がする。

このひとは、わたしを傷つけないだろう。




ある晩、博士の家にいくことになった。

「きみを招待したくてね」

彼に連れられて郊外の一軒家におもむく。

想像していたよりも、小ぶりな建物だった。

施設の職員たちよりもずっと上役の偉い人物なのだし、もっと大きな屋敷に住んでいても問題なかろうに。


家屋の外観は、控えめで落ち着いた風情だ。

正面玄関の電灯はやわらかな光であたりを照らしている。

派手に目立とうとか、装飾過多なところはなくて、とても感じが良い。

まるで、博士の人柄を、そのまま形にしたみたい。


移動の途中、彼が何度か口にしたこと。

「すまないね。残された時間は少ない」

「せめてもの慰めに。幸せなときを」

「きれいな思い出をね……」


なぜ、そんなことを言ったのだろう?

まったく見当もつかない。

だから、わたしは玄関先で、問いかけるように博士の顔をじっと見つめた。

しかし、相手は答えてくれない。

あいまいに、そして困ったように笑うだけだ。

彼の表情の裏に、なにかを隠しているみたいだけれど、それを読み解くことはできなかった。


博士はドアをあけながら、


「さあ、我が家にようこそ」


家のなかも、好感がもてる雰囲気だった。

たいへん住みやすそう。

質素だけれど、手入れが行き届いていて、全体的に品よくまとまっている。

色調をそろえたテーブルや椅子などの家具類。

ベージュ色の壁紙。

リビングの暖炉では、薪が燃えていて、部屋全体があたたかい。


「いらっしゃい」


奥さんがにこやかに出迎えてくれた。

博士には、おかえりと言いながら頬にキスをする。

彼も、ただいまと返して彼女を軽く抱擁した。

たいへん夫婦仲が良くて、見ているこちらまでホッコリするくらい。


「待っていたのよ」


子どもたちは元気に挨拶をしてくる。

明るくて屈託なく喜ぶさまは、すごくしあわせそうだ。

両親から愛情をたっぷり受けているからこそ、こんな表情になれるのだろう。


わたしたちは、すぐに仲良しになった。

廊下を走り、階段を上下してキャッキャと笑い転げる。

家中を陽気な声でいっぱいにしながら、たのしいひと時をすごした。


「ごはんができたわよ」


奥さんがキッチンから呼ぶ。

食卓に並んでいたのは、湯気のたつシチューだ。

たくさんの鶏肉がはいっている。

ひと口食べた瞬間、思わず息がこぼれてしまった。

なんて美味しいのか。

こんなにも贅沢な夕食は、生まれて初めてだ。


その夜、子どもたちと同じベッドにはいる。

誰かと一緒に寝るのも、はじめての経験だ。

彼らの身体はあたたかくて、こちらまでポカポカしてきた。


うつ伏せになって、今日のことを振り返る。

美味しかったシチュー。

子供たちとの楽しい時間。

やさしい家族。

ずっと、しあわせな日々が続けばいいなと、心から願いながら眠りについた。


しばらくして、子供部屋の扉が、そっとわずかに開く。

細い光の筋に、博士と奥さんの影が揺れていた。

わたしたちが並んで寝る様子を、静かに見つめている。


夫婦の顔は切なく、そして痛ましげ。

けれど、そのときのわたしは――ふたりの表情に気づくことはなかった。


翌朝。


わたしは、博士と共にトラックに乗車した。

とくに説明はなかったけれど、素直についてゆく。

いつものことだ。

疑う理由なんてないし、命令に従っていれば、ご褒美をもらえる。

訓練を受けているうちに、ちゃんと学んだ。


——ああ、また鶏肉のシチューがほしい。


トラックは大型で最新鋭だった。

ピカピカひかる車体は頑丈だし、新しいエンジンは馬力がある。

かつて、わたしを施設へと運んできたオンボロ自動車ではない。


でも、ガタガタと揺れるのは、あのときと同じだ。

舗装されていない道を進み、タイヤが穴に落ちるたびに、車両が上下に激しくはねる。

乗っている車は違うのに、なぜか、灰色の街で拉致されたときのことを思い出した。


「もうすぐ目的地に到着するよ。

ほら、見てごらん」


彼が指さした先。

青く澄んだ空と赤茶けた地平線のあいだに、それはあった。


まっ白な円柱が、天を()ように立っていた。

ものすごく大きい。

近づくにつれ、その巨大さが現実離れしていて、こんなものが現実にあるのかと呆れるほどだ。


見上げていると、だんだんと首が痛くなってくる。

同時に、身体がブルリと震えたのは、無機質な外見がとても冷たい感じがしたから。

とてつもなく不気味にみえてきた。


「君は、これに搭乗するのだよ」


博士は、淡々とした口調で告げた。

ごく普通に話しているだけなのに、なにかが違って聞こえる。

なんだか、感情を注意深く隠しているみたいだ。

昨日までの彼は優しく笑っていたのに、今日は表情がないのが、なんとも不思議におもえる。

でも、あいかわらず詳しいことは説明してくれなかった。

結局、できることといえば黙っているだけ。


数週間後。


わたしは狭いカプセルのなかにいた。

特別製の気密服を装着させられている。

これには各種計測器が付いており、幾本ものコードが身体を這うように伸びていて、壁際の機械につながっていた。


頭部には、プラスチック製の丸いヘルメット。

息苦しいけれど、さんざん訓練でやったことだし慣れている。

動けなくて不自由なのは知っているから、ぜんぜん怖くない。


きっと、だいじょうぶ。

今までと同じように我慢していれば、いずれ終わるとおもう……。

ああ、ご褒美はなんだろう? 

あたたかい手で、頭をなでてくれたら、うれしいな。

だから、ジッと待つことにする。


なんだか変だ。

今回はいつもと様子が違う——と思った。

近くに誰もいない。

以前のやり方なら、かならず訓練担当官が見守っていた。

励ましてくれるだとか、計画表をチェックしているのに。

今日は人の姿がなくて、ちょっと心細い。


かわりに外部から拡声器の声が響く。


「各種センサー良好」

「総員退避せよ」

「エンジン点火まで一分」


その音は、金属製の壁越しに聞こえてきた。

容器内にまで、はっきりと届くのだから、相当な大音量だ。

口調に感情がこもっていなくて、かなり冷淡な感じがする。


カプセルが微かに揺れはじめる。

ビリビリと震えが容器全体に広がり、止まる気配はなかった。

むしろ、振動が大きくなってゆき、なにが起きているのか理解できない恐怖がわたしを襲う。


「エンジン点火十秒前、九、八……」


みず、水がほしい。

緊張のせいで、異様に喉が渇いてきた。

視界が、徐々に白んでゆく。

吐息が熱く、そして荒くなったので、ヘルメットの内側がくもってしまったのだ。


「……三、……二、……一、……点火!」


鼓膜を突き破るような轟音。

もう音というよりも、強烈な衝撃波そのものだった。

ものすごい加速が発生して、体全体が圧し潰されそうになる。

肺が圧迫されて、うまく息を吸うことができなかった。


ああ、苦しい、だれか助けて……。


いつの間にか苦痛の時間は終わっていた。

ほんの数分なのか、あるいは何時間も過ぎているのか、よく分からない。


感覚が変になったのには、いくつか理由がある。

まず、体重が感じられないこと。

フワフワとして、なんというか踏ん張りがきかず不安定だ。

身体が浮かなかったのは、拘束ベルトがあったから。

もし、固定されてなければ、天井に頭をぶつけていただろう。


さらに異常なのは、音がまったくしないこと。

“静か”とかのレベルではない。

音がなさすぎて、かえって耳の奥がじんじんと痛くなるほど。

まるで、世界から切り離されて、自分だけがどこかに追放されたみたい。


地に足がつかない状態。

無音の空間。

こうも異様な事態のなかで、ようやく気づいた。

——これが、孤独というものなのだと。




熱い、とても熱い。


カプセル内の温度が上がってきた。

それが、わたしを焦らせている。

最初はちょっと暑いかなと感じる程度だった。

でも、徐々に気温が上昇し、金属製の床面までもが高温になってくる。

しまいには、火傷するのではと心配になるほど。

息をするのが辛くなってきた。

実際、呼吸をするたびに喉が焼けて、ヒリヒリと痛い。


もういやだ。

こんなところにいたくない、おねがい、ここから出して。


わたしは懸命に逃げようともがく。

しかし、身体を固定されて身動きひとつできない。

拘束具を噛み切ろうと試みたが、頭部のヘルメットが邪魔をした。


意識がもうろうしてくる。

聞こえてくるのは、自分の荒い息遣いだけ。

視界が真っ赤に染まって、ぜんぜん見えなかった。


ああ、駄目だ。

そう思った瞬間……。


だれかが、わたしの頭をなでた。

それは、あたたかい手。

やさしく、静かで、何も言わずに触れてくれる。


幻なのか、本当になのかは、わからない。

そんなことはどうでもよかった。

その手のぬくもりが、わたしに最後の安らぎを与えてくれたのだから。




彼女の名前はライカ、実験犬だ。

地球周回軌道に到達した初めての生命体として、その名は記録されている。

宇宙開発黎明期における犠牲者のひとりでもあった。


もとはモスクワ市内で捕獲された野良犬。

ソビエト連邦の科学者たちが野犬を使ったのは、飢餓と寒さに慣れているので、宇宙の過酷な環境にも耐えうると考えたから。

複数の候補のなかから、最終的に選ばれたのが——彼女である。


一九五七年十一月三日。

ライカを乗せたスプートニク2号は、バイコヌール宇宙基地から発射された。

これは“帰還できない宇宙飛行”だった。

当時の科学技術では、周回軌道に達するのが精いっぱい。

人工衛星を大気圏に再突入させる際、搭乗者を生還させる方法は、研究中であったのだ。

分かりやすく表現するなら、生還不可能な片道切符を、彼女は渡されたのである。


訓練の初期、研究施設の職員たちは、彼女を「クドリャフカ(巻き毛ちゃん)」と呼んで可愛がっている。

「ライカ」の名前は、ソ連当局による公式名称。

ロケット打ち上げ後のタイミングで、当局がこの名称を公表した。

記録によれば、ライカは「おとなしくて愛嬌がある」犬だったらしい。

関係者たちは、彼女の未来を知りながらも、無事を祈って口づけをしたという証言もある。


スプートニク2号は、長い時間をかけて軌道を漂った。

一九五八年四月十四日、大気圏に再突入するが、その際に生じる摩擦熱によって機体は崩壊している。


彼女の死亡時期は諸説あるが、詳細は不明である。

当時の当局者は、ロケット発射の十日後、毒薬入りの餌で安楽死させたと発表した。

だが後年の報告によると、「キャビンの欠陥による高熱で、四日後に死亡」との記述がある。

また、「打ち上げ数時間後に過熱とストレスによって死んだ」との論文もあって、正確なことは誰にも分かっていない。


ライカの遺産は、現在にまで脈々と受け継がれている。

宇宙開発史において、彼女の存在は欠かせない。

その犠牲があったからこそ、人類は宇宙飛行を実現できたのだ。

いっぽうで、動物実験における倫理観にも多大な影響を与えている。

実際、彼女の死は世界中で激しい議論を引き起こし、生存不可能な実験については、相当に慎重な扱いをすべきとの国際的な取り決めがなされた。


ライカを称える芸術作品などが多数制作されている。

たとえば、ロケットの上に立つ記念像。

これはモスクワの航空宇宙医学研究所に建立されたもの。

銅像は、愛らしさよりも、キリリとした凛々しさを感じさせる。

彼女の偉業を理解している者ならば、自然と手を合わせ、頭をさげるであろう。

あらためて言うけれど、ライカの功績は、いまも色あせない。

残念ながら、彼女は自分の業績を知る機会はないのだけれども。


■■■■■


冬の夜空は、息をのむほど澄みきっていた。

見上げるたびに、星々が瞬いている。

高原には人工的な明かりが届かず、都会では見ることのできない絶景が、この場所で楽しめる。


夜の静寂のなか、親子がふたり。

父と、幼い男の子。

彼らは家庭用の天体望遠鏡を車に積み込んで、ここまで遠征してきた。


少年期の子供は好奇心でいっぱいだ。

特に、星を眺めるとき、彼の瞳はふだんの何倍も輝く。

とにかく宇宙が大好き。


「月が丸くなったり欠けたりするのはなぜ?」

「どうして太陽は燃えているの?」

「宇宙人っているとおもう?」


父親は、できるかぎり丁寧に答えてあげた。

愛する我が子を、ごまかすようなことはしたくなかったから。

だから、知っているかぎりのことを教える。

星座の由来。

恒星と惑星の違い。

太陽系や銀河系について。


そして、とある犬の伝説。

人類で初めて、地球のまわりをまわった生命のこと。


「そのワンちゃん……どうなったの?」


少年は、まっすぐに聞いてきた。

ついさっきまで彼は望遠鏡を覗いていたけれど、いまはジッと父親のほうを見つめている。

その声は低めで、ちょっと震えている。

なんて、やさしい子だろうか。


父親が返答するまで、少し時間がかかった。

どう話そうかと悩んだから。

あまりに悲劇的な事実を伝えると、我が子の小さな心に深い影を落とすかもしれない。

できるかぎり、少年のハートを傷つけないようにしよう。


「ワンちゃんは、お星さまになったんだよ。

きっと、いまも宇宙をグルグルと飛んでいるんじゃないかな」


「ふーん」


少年は、しばらく黙り込む。

彼はなにかを探すように夜空をグルリと見渡した。

しばらくして、はじけるような笑みを浮かべて言った。


「ぼく、宇宙船の運転手さんになる!」


あまりにも、びっくりさせる宣言である。

どうして、そんな結論になってしまうのか謎だが、それが子どもというもの。

突拍子もないことを言っても、許されるのは子どもの特権だ。

たぶん「宇宙飛行士アストロノート」や「パイロット」という単語を、彼は知らなかった。

でも、宇宙へ行きたい気持ちが、数少ない語彙の中で、いちばん近い言葉を探し当てたのだろう。


父はおもわず笑ってしまう。

我が子の強い口調と両手を握りしめる姿が、とても純真だったから。


「そうか。

じゃあ、お空のどこかでワンちゃんと出会えるかもね」


「うん!」


少年は嬉しそうにうなずき、再び望遠鏡を覗きこんだ。

彼が見るのは星ではなくて……、輝かしい未来なのかもしれない。


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