戦争を知らない子ども
世界は残酷なんだと思っていました。
生きるということは、ひとつひとつ心を殺してゆくことなんだと。
そうして奪い取ったものが自分を守るのだと———。
「マダム。今週の治療予定ですが、火曜日が腎臓と脾臓の患部への抗癌薬注入、木曜日に前回抗癌薬によって欠損した肺を再生するための・・・」
執事のイリヤが予定を読み上げる。
「あなたは本当にわたしによくしてくれるわね。」
イリヤは少しだけ微笑みを見せた。その穏やかなアンドロイドらしい微笑みを。
「私はマダムの意思の代行者ですから。」
アンドロイド執事のイリヤはそう言って、わたしの車椅子を押す。
「もう一度、見に行ってもいいかしら?」
「もちろん。」
わたしは先の戦争で胸から下を被曝しました。
まさかあの場所まで核兵器の標的になるとは思ってもいませんでした。
それでも、前半生で築き上げたわたしの資産と、用心のために作っておいたシェルターが、わたしの脳と命を守りました。
その後はごく一部の富裕層だけが受けられる高額医療とイリヤのおかげで、厳しい戦後を生き抜くことができたのです。
資産が、わたしを守りました。
そう。
そう思っていたのです。
あの子を見るまでは。
「そろそろ決断する時期ね。」
イリヤは少しだけ顔を曇らせました。アンドロイドでもこんな表情をするのね。
「・・・・はい、マダム。」
その子はいつもと同じように病院内の子どもたちの遊び相手をしていました。
屈託のない笑顔で、戦後に生まれてなお戦争の傷跡を背負わざるを得なかった子どもたちの心を癒すように。
なんという惜しみない優しさでしょう。
「あの子は自分が何者なのかを知っているのですよね?」
「はい。」
「イリヤ。車椅子から手を離してください。」
「え? しかしここは少しスロープになっていますが。」
「ええ。だからです。」
私の車椅子はゆっくりとスロープを走り始めました。
案の定、その子は走り寄ってわたしの車椅子を止めました。
「大丈夫ですか? おばあさん。」
その真っ直ぐな瞳に、わたしは思わず泣きそうになってしまいました。
「あなたはクローンだそうですね?」
「マ・・・マダム!」
走り寄ってきたイリヤがわたしを止めようとしますが、わたしは止まりません。
「はい・・・。」と少女は驚いたようにわたしを見る。
「それが何を意味するか、知っているの?」
「はい・・・。」
少女は少し寂しそうな目をしたが、すぐに瞼を上げてその瞳にきらきらした光を取り戻した。
「この体はある方のためにいずれ提供されるものだと。最初それを聞いた時は怖くて泣きました。」
そう。それが普通ですね。
「でも・・・、生命はすべて有限です。クローンであるわたしも。あの子たちも。」
少女はさっきまで遊んでいた入院中の子どもたちの方を、ちらと見ました。
「だったら、わたしはその時間を、わたしがいちばん大切だと思うことに使うことにしたんです。」
そう言って少女は微笑みました。
その微笑みはどこかイリヤの微笑みにも似ているようでした。
「決断しました。」
少女が去ってから、わたしはイリヤに言いました。
イリヤはやや戸惑いを見せながらも、正式な意思表示のための入力フォームを表示します。
わたしはエゴイストです。
10歳まで育ったクローンの脳を摘出して、わたしの脳と入れ替える。
わたしは放射能に傷つけられていない若い身体を手に入れられるのです。
そういう医療行為のために、あの子は作られました。
クローンナンバー20781P。
わたしはイリヤが表示したフォームに、正式な法的意思表示の音声入力を始めました。
「わたしジェニファー・ノエルは、わたしの死後、わたしのIDとすべての資産をあの子クローンナンバー20781Pに譲ります。これがわたしの最終意思です。——ジェニファー・ノエル。」
「よ・・・よろしいのですか? マダム。」
イリヤが驚いた表情で問い返す。
「ええ。確定してください。」
わたしの心境はこの10年で変化を起こしていました。
ええ。そうですとも。
わたしはエゴイストです。
これは、わたしの最後にして最大の欲望なのです。
わたしは、わたしのもう一つの可能性が、丸ごと欲しくなってしまったのです。
戦争を知らない子どもであるわたしの、その無限の可能性が——。
ええ。そうですとも。
わたしはこの欲望を具現化することで、人生で初めてといっていい充足を味わっていました。
「イリヤ。あなたにはわからないかもしれないけど・・・、これは、わたしの最もエゴイスティックな欲望なんですよ。」




