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現世の欠片が降る日

 暗い天幕のような雲の下、

 マリアはまだ目を覚ましていなかった。


 彼女を連れ神界を降りたセーラたち。かつて巨大な研究棟があった地下室は、今やただの空白でしかない。

 簡易テントの中で、小さく呼吸する彼女の胸は、時折ひどく速く脈打つ。


 吸血鬼化の影響が残っているのか、額は冷たく、指先は透き通るほど白い。


「……マリア、まだ起きないのか?」


 カイがしゃがみ込み、心配そうに覗き込む。


 返事はない。

 ただ、マリアの睫毛が微かに震え、その下、閉じた瞳の奥で何かが動いている気がした。


「ヒュプノスの眠りじゃないわね」


 セーラは静かに首を横に振る。


「吸血因子が、揺れてる。まるで……どこか別の世界に、引かれてるみたいに」


 マリアの吸血鬼化は治っていない。

 だが完全に吸血鬼になったわけでもない。


 箱庭と現世、どちらにも属さない存在、その不安定さが、中央の穴の波動に最も敏感に反応している。


 マリアの唇が、眠ったまま微かに動く。


「……さむ、い……永〇園……お茶漬け…か何か…を……」


 その声は、彼女が見ている夢がどこの世界のものなのかを示していた。


 セーラとカイは言葉を失う。


 次の瞬間。


 天幕の外から、世界全体が震えるような音がした。

 同時に、空の亀裂が不気味に脈動する……。




 北の果て、空の亀裂スリットは沈黙し、その中心でぽっかりと開いた"第五の穴"だけが、まるで呼吸をしているように脈打っていた。


 セーラは、胸の奥がかすかにざわつくのを感じていた。

 天使でも魔でもない、どちらとも言えない何かが、穴から漏れる情報の波動に共鳴している。


「……なんだ、あいつら……」


 カイの声はひどくかすれていた。


 見ると、東西南北の歪みから溢れた異形たちが、巨大な列となって中央の穴へ向かっている。逃げているわけでも、追い立てられているわけでもない。


 目的を持った動きであった。


 獣の形を保っているもの、歪んだ人影のままのもの、巨大な影だけのもの……。


 すべてが呼ばれるように穴へと歩く。


「まずいね。あれ、ただの群れじゃない」


 パトラがマントを握りしめながら言う。口調はいつもと同じだが、指先は震えている。


 普段なら互いに捕食し合うはずの異形たちが、この瞬間だけは同じ巣へ帰る動物のように整列していた。


 その静けさが恐ろしかった。

 その時、空が裂ける音がした。


 (ピシッ)


 乾いたひび割れの音。

 天井に亀裂が入ったような、だがここは空であった。


 セーラは嫌な予感に、そっと視線を上げた。


 そこに浮かんでいたのは。

 現世の「教室」だった。


 机と椅子が半分だけ。

 黒板の欠片。

 割れた窓枠。

 天井の蛍光灯。


 すべてが、箱庭の空に逆さまにぶらさがるように現れ、そのままゆっくり、ゆっくりと落ちてくる。


「……学校……?」


 カイの声が震えた。


 教室はまるで何かに吸い寄せられるように、異形たちの頭上を通り過ぎ、中央の穴へ吸い込まれた。音もなく、跡形もなく。




「まさか、現世と繋がった?」

 現世でアプリの調整をしているオルドの問いに、ジュリアンの答えは首を横に振ることであった。

「違う。繋がったのではなく……漏れているんだ、これは」


 巨大な観測装置に映るノイズが乱舞し、オルドは額に汗をにじませながらキーボードを叩く。


「中央の穴は、現世のバックアップレイヤーに近い。けど転送は片方向だ。箱庭から現世へは行けない」

「つまり、落ちてくるばかりってことか?」

「最悪、箱庭そのものが現世データに上書きされる」



 異形の群れの中心が、一斉にざわめいた。中央の穴に近い巨大な影が身を震わせ、まるで門が開くのを待つように地を叩く。


 セーラの背筋に冷たい電流が走る。


「穴の向こう側から……何かが……」


 いつもの天然めいた声ではない。それは天使よりも、魔に近い響きであった。カイがセーラを見る。

 セーラの瞳がかすかに紅く光っていた。


「セーラ、どうした、もしかしてお前……」


 天使でも魔でも説明できない感覚。世界の根源に触れるような胸の痛み。中央の穴が音もなく脈打つ。



 そして、空全体が反転した。

 青空が裏返るように、真っ白な光が世界を覆う。

 落ちてくるのは、もう教室だけじゃない。

 商店街、交差点、家の玄関、病院の廊下、電車の車両、ファストフード店の看板……。


 『現世の一部』が、次々と、次々と、箱庭の空から降り注いだ。


 異形たちは、狂ったように穴へ突進を開始する。


 世界が壊れ始めていた。


 その中心で、セーラの紅眼がゆっくりと開く。

 天魔覚醒の気配が、初めて空気に滲んだ。


お読みいただきありがとうございました。

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