女侯爵の告白 2
女侯爵の告白 2
ジョゼフィーヌ女史の剣幕に恐れをなしたお父様が後ずさりをし、それを見た夫人(義母カトリーヌ)がおずおずと声をかけてきました。
10年前、館に連れてこられてからこの方、彼女が食事の間で声を上げたことなど指で数えるほどもございません。夫人はいつも父上の目を恐れビクビクと目立たず隠れるようにして過ごされておられました。皆様もお分りのように最初から彼女には父上に対する愛情などございませんでした。彼女もまた父上にたまたま引っかかった犠牲者であり、恐怖と諦めの念を抱いてただ生きているだけという味気ない生活を送っていたのにすぎないのでございます。
「あの。お嬢様(夫人はいつもわたくしをこう呼んでおりました)。ジョゼフィーヌ様は本当にあの救国の騎士様なのですね?」
「そうですわ。あの救国の女騎士様本人ですよ。公にはできない事情があってごめんなさいね」
ジョゼフィーヌ女史は有名な3つの軍功を挙げ王国史上2回しか叙勲されたことがないゲオルギー勲章の現佩用者でございました。同時に国王陛下に対しても意見ができる王室相談役でもあり、広大な領地を持つ伯爵家の現当主でもあるお方でございました。
その高名な本人がなぜメイド服を着こんでいつも傍で控えているのか、わたくしにとっても不思議だったのですが、とにかく母上の親友だったジョゼフィーヌ女史は娘を助けてほしいとの死の床にあった母上の懇願を受け入れてわたくしをいつも守っていただいておりました。命を守っていただいただけでなく、彼女がいなければ今頃わたくしは貴族令嬢としての矜持も教養も知らずに(父上は娘たちの教育について全く無関心であり、わたくしばかりでなくコリンヌもお家庭教師ばかりか目付け役の女性さえ付けられることはございませんでした)あの屋敷でただおろおろと震えて暮らしていたことでございましょう。そういう意味でわたくしにとっては生き地獄から救っていただいた大恩人に当たるお方なのでございました。
有名人でありましたから彼女が救国の女騎士様であることを父上も知っておりましたが、事情があり、ボアルネ公爵家の要請で夫人とコリンヌにはわざと伏せておりました。
「いいえ。お嬢様が謝られることではございません。わたしはただびっくりし、わが身を恥じているだけでございます。わたしはその昔、双頭の毒竜が王都を襲ったときジョセフィーヌ様に命を助けられた者でございまして、本来なら母子ともにこの世に存在していなかったのです。それなのに……、大恩あるジョセフィーヌ様にもお嬢様にも母子共々無数の無礼を働いてしまいました。先ほどお嬢様は『平民には平民なりの矜持がある』と話されておられましたが、わたしにはそのようなものもございません。ただ一人の娘さえ躾けることもできず、恥じ入るばかりでございます。
……お求めの、侯爵夫人の装身具については大切に保管しております。卑しいわたしたちが肌につけることなど畏れ多くて一度も身に着けたことはございません。ただ今お持ちいたします」
コリンヌの『ダメよ。わたしのものなのに!』との叫びを尻目に義母カトリーヌは退室しすぐに装身具の入ったマホガニーの箱を持って帰ってきました。
わたくしは差し出された箱の中身を確認し、その中からダイヤモンドのペンダントを一つ取り出して義母カトリーヌに差し出しました。
「差し上げます。母上のものについてはお渡しすることはできませんが、これはわたくしが幼い時に母上にもらったものですので」
「お嬢様。もったいのうございます。お気持ちだけで十分です。これ以上は恥ずかしくて死んでしまいます」
「受け取りなさいな。これからあなた方は大変なのですから。
……貴女一人ならば、公爵家に連れて行っても構わないのだけれども」
そう言ってわたくしがコリンヌの方に目をやると、義母は目を伏せた。
「すべてわたしが卑怯で臆病だったのが悪いのです。娘がダメになっていくのは分かっておりましたが、どんな注意をすればいいのか、下手に注意して(侯爵様から)お叱りを受けたらどうしようかとの迷いと保身ばかりで……。本当に申し訳ございません」
「夫人のお立場は理解しているつもりです。謝られる必要はありませんわ。高位貴族の家は厄介です。いきなり連れてこられて高位貴族の振る舞いを理解しろと言われても無理なものです。特に令嬢は夫人ではなく家庭教師やお目付け役の女性などをつけて慎重に育てられるのが本当なので。
なのに……。
お父様はご自分が損をすることを徹底的に嫌う人です。ご自分の娘の教育であっても家庭教師を雇う手間とお金はすべて無駄で損をするものだとお考えだったようで実現しなかったというだけです。謝るべきなのは夫人であるはずがありません」
「!」
「コリンヌが好き勝手に暮らしていたのもそれによってお父様が損をすることがなかったからですわ。好きにさせておけば勉強嫌いのコリンヌが自分から家庭教師をつけてほしいなど言い出すはずもありませんし。コリンヌの喜ぶドレスや小間物はわたくし宛に出ている公爵家からのお金をくすねれば足り、お父様が自腹を痛める必要はまったくなかったわけですし。
一事が万事それですよ。たとえコリンヌがわたくしの部屋に勝手に入り込んで物を壊そうがドレスを盗んで身に着けようがこれもお父様は損なさらないわけですからコリンヌを叱ったたり言い聞かせる必要などお感じにならなかったみたいですわね。
こういうことがコリンヌにとってはお父様により愛されている証拠に思えたらしいのですが、わたくしから見ればそんなのは単なる放任であり無視にしかすぎません。コリンヌが鬼の首でも取ったようにより愛されていると主張しても、わたしはあきれて笑うほかありませんわね。忌々しいことに。
……またもや激情に駆られて話が長くなってしまいましたね。とにかくわたくしには自身でしなければならないことがございましてこの家から出ていきます。逃げ出しますわ。と言っても、貴女方お二人を見捨てたりは致しませんよ。暮らしが成り立つだけの援助はさせていただきます。お父様に手を貸すつもりは一切ありませんが」
「……お嬢様」
義母は涙を見せましたが、これは彼女の安堵の涙とわたくしは今でも思っております。おそらくこの時、義母は父上の破滅と自分たちの解放を確信したのでしょうね。父上は弱い性格の義母を家に閉じ込めておけば決して歯向かわない都合のいい駒になると確信し、無理やり連れてきて10年間閉じ込めておりました。そこで、自力で逃げ出せない彼女はわたくしの言葉に強く希望を見出したというわけなのでございます。
◆
この頃の貴族令嬢の一日のルーティーンは今とそれほど変わってはおりません。だいたい午前9時ごろ起床してお湯を持ってきてもらい女中たちに身支度を整えさせてから遅い朝食をとります(使用人たちは午前5時には起きて準備をしております)。それからお目付け役の女性とともに午前の散歩に出かけます。これは婚約前の令嬢ならば婚活を目的としたものです。街中で夜会などで知り合った候補の殿方と自然と出会い親しくなる。そういう筋書きですね。でも、令嬢の方から殿方に声をかけるのは不作法とされてますから彼女たちは殿方の方からお声をかけてもらうよう様々なテクニックを行使しなければなりません。こういうことに血道を上げなければならないのが貴族の女の馬鹿々々しいところでございますね。でも、貴族の女にとっては結婚がすべてなので仕方がありませんわね。フフ。実に涙ぐましくも滑稽で悲しいお話。
聞いていらっしゃる殿方の皆様、ほんの少しでも心がチクリといたしましたか?。女性は押なべて理解してくれるフリをしてくれる殿方が本当に大好きですわ。おもてになりたいのであればフリだけはしなくてわね。フリだけは。フフフ。いえなに。久しぶりに父上のことを思い出してしまってつい意地悪なことを申してしまいました。ごめんなさいね。でも、この話はつながっているのですよ。これからお話しすることと。
この頃のわたくしは午前中、ほかの令嬢同様、お出かけをしておりました。
ただし、それは婚活目的ではなく護身のため剣術を習いに市中の私塾へ向かうというものでございました。私塾といっても皆様が想像されるような貴族の子弟ばかりが集うお上品な道場ではございません。ギゾーというもと騎士の方が引退後開かれた無名の小道場でございまして、教えているのも殺し合いのための騎士の剣。当然、通っているのも家の手伝いをしなくてよい商家のドラ息子や冒険者志望の得体のしれない子供、それとごく少数の変わり者の下級貴族の子弟(女の子が一人いらっしゃいました)のみ。
わたくしはその道場の片隅をお借りして午前中いっぱい、ジョゼフィーヌ女史自ら稽古をつけてもらっておりました。
わたくしは当初、道場に通うのが嫌で嫌で仕方がありませんでした。何が嫌かというと、稽古前に道場着に着替えなければいけないという点でございました。当然、ドレスのままで剣技など学べないと理解はしておりましたが、その頃のわたくしはまだ令嬢と呼ばれていた存在でございまして人前で肌をさらすなど恥ずかしくてとても嫌だったのでございます。ドレスの着替えなど毎日使用人たちにやってもらっていることでございましたが、そこはそれ。当時のわたくしは貴族令嬢の立ち振る舞いがすべてであるかのように思い込んでおりましたし、そもそも貴族令嬢らしく使用人たちのことを人間ではなく道具程度の認識しかなかったわけでございます。
とにかく最初は他人に肌を見せるのが嫌で道場近くの商家の二階を借り上げ、連れてきたメイド一人に手伝わせて着替えをしておりました。
ある日のこと、道場着に着替えて商家を出たところでとても嫌な思いをいたしました。
「パイ乙!ピーピー」「スゲーでかパイ!逆にキモいわ。アハハ!」
そばを歩いていた街の不良児たちがポケットに手を入れたままわたくしに向かってニヤニヤ囃し立てました。
わたくしは恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にしてジョゼフィーヌ女史に訴えましたが、彼女は「気に食わねば叩きのめせばよかろ。あやつらの5人や10人ぐらい簡単に叩きのめせるくらいの技量、妾はそなたを鍛えたはずじゃ」と相手にしてくれません。それどころか困っているわたくしに「剣を使うてはならんぞえ。拳でせい。思いっきりやるのじゃ。即死でない限り妾が何とでもしてやろうぞ」と急かしました。
聞いてくださっている皆様はジョセフィーヌ女史の言葉使いが急に変わったことをお気づきでしょう。そう。この時はジョセフィーヌ女史には第一の人格が現れておりました。理解しがたいことでしょうが、行動が異なるごとにジョセフィーヌ女史には違った人格が現れるのでございます。第一の人格は主に体を動かすときに顕在いたします。たとえば剣を振るときなどの荒事はもちろん、ダンスや乗馬をするときにも必ず現れます。わたくしは父上に2度殺されかけましたが、救ってくださるのはいつもこのジョセフィーヌ女史の第一の人格でございました。いわばわたくしの守護天使でございます。第一の人格が顕在したときはわたくしは敬意をこめて「お師匠様」とお呼びしておりました。
「……もういいです。お師匠様。助けを求めようとしてしまい、失礼いたしました。早く道場へ参りましょう」
「ならんぞえ。必ずするのじゃ。手加減ができぬなら相手を殺しても構わぬ」
「……」
「なぜ屋敷でなくギゾーの道場まで来て妾が稽古をつけているのかを思い出すがよかろ。妾はそなたの母者に必ずそなたを守ると約束したが、そなたのすべてを支えるとは言っておらぬ。よいか。妾はそなたの使用人ではない。犬の忠義を尽くす気はそもそもないのじゃ。妾はこの世を去った友に義理を尽くしておるにすぎぬ。そして、そなたが他人から害されることなく自身の生き方でこの世を渡っていけるようにするまでが妾の義理じゃ。市中の破落戸ごとき自身で捌けなくてなにが自立ぞ。必ず自身でけじめをつけるのじゃ」
「はあ!?なんだ、こいつら。剣を下げているからって調子に乗り過ぎじゃね?」「えっ!殺すって言った。こわー!殺すって言った。頭おかしいわ。やべーぞ」
「フフフ。世の中、いつでも自分の信じるルールが通用すると信じるのも考えものじゃぞ。妾のように社会の外の住民も存在するのじゃからな。フフ」
お師匠様には独自のルールがあり、自分に殺意を抱く者はだれであれ決して許しはしません(即時に殺す。絶対に殺す。完全に殺す。いわゆる即絶完)が、相手がどんな悪人であれ殺意さえ抱かなければ殺すようなことは絶対にいたしません。なので不良少年二人が殺されるようなことは起きないのですが、お師匠様は気分次第で半殺し以上の酷いことを平気でしばしば行っておりました。そこで、わたくしは嫌々ながらお師匠様のこれからの暴虐ぶりを止めるべく行動に出ることにいたしました。