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「申し訳ありません、あの子はこういった場は初めてでして……皆様に可愛がって頂いて嬉しいみたいで」
「いいえ、オーナーからも申し付かっているのですから遠慮する事はありませんよ。
寧ろ貴方とマーヤちゃんにとってのお仕事でもあるのですから」
服飾店『プティ・カナン』の裏手、関係者しか入る事を許されない専用倉庫では女性達の明るい声が響いていた。
というか、黄色い歓声そのものである。
歓声を上げているのは『プティ・カナン』にて従事している専属の針子達と店員であり、彼女達の視線を一心に攫っているのはシュリニの従妹、マーヤだった。
マーヤは愛くるしい笑顔を浮かべながら身に纏う薄衣を閃かせてくるりと回る。
サラサラの黒髪が動きに合わせて舞い、光を浴びた萌葱の瞳が黄色や赤色の遊色に輝いた。
髪を彩る金細工が愛らしい幼子にほんのりとした艶やかさを加えている。
シュリニはその光景に微笑みながら話していた人物へ視線を向けた。
店を任されている店長のジムが微笑ましいと顔いっぱいに浮かべながら同じ光景を見つめている。
「次の新作については秋冬という事でしたので、もう少し先の予定かと思っておりました。
子供は成長が早いですから」
「えぇ。ですが折角納品を早めて来て頂けたのですし、彼女達の息抜きに付き合って貰えると此方としても助かりますよ。
彼女達にとってはこれからが踏ん張り所ですからね」
彼女達というのは姦しい声を響かせる針子と店員達のことだ。
春の新作発表はもう半月後に迫っている。
お店を運営するにあたり一番の戦力として日々針仕事を熟す針子達も、現在は仕事の佳境に入っていた。
スケジュール通りに進んでいるならば、あと10日は職場漬けだろう。
ここミネージュ国からいくつか跨いだ東の国より画期的な魔道具が普及して数年。
既製服というジャンルが確立して以来、仕事効率は格段に上がっていたが、それでも流行を追い求める王都での衣服の需要は底知れない。
不景気や災害がちらほら聞こえていた一世代前から比べて、ここ数年は比較的穏やかな治世が続いている。
これを好機と発展へ力を注いでいる国内外では物流が活発になっていた。
物が流れれば人が流れる。あちこちで見られる新たな発見や繋がりに流行が生み出されるのは自然の摂理だった。
既製品としてパターン化された針仕事も連日連夜続けていれば心身共に疲弊してしまう。
今日はそんな目まぐるしい日々を過ごす彼女達にとって、短い息抜きの時間となっていた。
因みにこれは息抜きと書いて仕事と読まないかしら、と思っているのはシュリニだけである。
側から見れば可愛い盛りの少女が着飾った姿を見て癒されている風に見えるが、実際は少し違う。
オーナーから予め告知されていた秋冬の新作に向け、モデルである少女の採寸と布地の厳選を行っているのだ。
確かにアマーリアからはモデルについてシュリニちゃん達と言われていたので、マーヤやアレックスもいずれ此方へ連れて来る必要はあったのだろうが、採寸までするとは思いもよらなかった。
『プティ・カナン』では現在、子供服は販売していない。
なので、この辺りでは珍しい髪や肌の色味を参考に、織物とどう組み合わせるのかを決めるだけだと思っていた。
伝統を重ねて来たキリム独特の風合いは、祖父母の特徴を継ぐシュリニ達の方が違和感なく馴染む。
デザインが異国の風合いを多く取り入れたものとなっているので参考データにマネキン役をするだけだと思っていたのに。
この分だと仕事の合間の息抜きとしてマーヤの服を仕立ててしまいそうな勢いだった。
「あの……マーヤも喜んでいますし、皆さんの気分転換になれたなら幸いですが、春の新作は大丈夫なのでしょうか?
どう考えてもこれから子供サイズの型抜きと縫製を行いそうな勢いですが………」
「いえ、これも彼女達の息抜きです。
大丈夫ですのでどうかこのまま見守ってやって下さい」
どこか含みのある言い方をしつつも楽しげに見えるジムのその言葉に、シュリニは不安を抱きつつも気持ちを切り替えた。
店を任されているジムがそういうのだから、シュリニがこれ以上あれこれいうのも失礼だろう。
それにマーヤの喜ぶ顔を見て連れて来て良かったと思っているので、それ以上水を刺すことはなかった。
「そういえば、本日はご家族で色合いを揃えられたのですね。
シュリニさんのお召し物も大変良くお似合いですよ」
「まぁ…ジムさんからそのようなお言葉を頂けるなんて恥ずかしいです。
祖母の形見を手直ししたものなので流行に沿わず、お見苦しいかとは思いますが」
「いえ、そんな事はありません。
珍しい柄入れがされているとは感じましたが、お祖母様のものでしたか。
シュリニさんの雰囲気と良く合ってらっしゃいます」
卒なく送られる賛辞に慣れず、照れてしまったシュリニは思わず視線を下げる。
今日はマーヤと色味を揃えようと祖母が昔着ていたワンピースを選んだのだ。
ゆったりとしたシルエットのそれは夏物で、デコルテから腕が剥き出しになってしまうので、無地のセーターを中に着てコルセットベルトで留めている。
いつものロングコートも今日は封印して厚手のカーディガンを羽織って全体的に柔らかな印象に纏まったと思う。
鮮やかな緑青色のワンピースにはこの辺りで見ない沢山のモチーフが縦に配置されたストライプ柄が織り込まれている。
昔、行商人から買い付けた布だそうで、祖父母の故郷の伝統衣装らしい。
髪も学友から貰った香油を着けてハーフアップにしている。
軽く化粧も施したので普段お洒落を意識しないシュリニとしてはかなり頑張ったつもりだ。
「来て頂いたのが今日で良かったですよ。
私以外の男性は休みの勤務でしたからね。
言い寄るような不埒な輩がいたら直ぐに警ら隊へ助けを求めるんですよ」
「大袈裟ですよ。私達に声を掛けるとしたらこの眼を珍しがってのことでしょうし。
ただ、今日はマーヤを連れていたので何かあったら怖いと感じていたんです。
ご心配ありがとうございます」
娘を心配する父親のような台詞にシュリニがくすくすと笑うとジムはいえ、と曖昧な表情を浮かべていた。
◇◇◇◇◇
『プティ・カナン』を後にしたシュリニとマーヤは日暮れの道を二人並んで歩いていた。
シュリニの手に持つ箱には菓子屋で受け取ったキラキラとしたお菓子が詰まっている。
まるで宝石が詰められているかのようなそれを大事に抱えながらシュリニは少し心弾ませていた。
綺麗に敷き詰められた石畳みの道は夕焼け色に染まり、シュリニとマーヤの姿を淡く照らす。
連れ立って歩く二人の瞳は薄明を受けて不思議な光を宿していた。
「今日はお夕飯に何を作りましょうか?
マーヤは食べたいものはある?」
「ミートボールが食べたい!」
「ミートボールね。それじゃあ、買い物をして帰りましょうか」
マーヤの言うミートボールとはミネージュ国で良く食べられるチーズソースを掛けたものではなく、キョフテと呼ばれる西南の国由来のものだ。
祖母が作るキョフテは羊肉や牛肉を挽いたものにスパイスを効かせて肉団子にし、ジャガイモやトマトと共に煮込んで作る。
祖父が生前好んで食べていた事もあり、シュリニの家でミートボールと言えば此方のことを指した。
家に帰る前に馴染みの小道通りに寄ることにする。
朝早くに開かれる市場の方が安く買えるが、朝はシュリニも忙しいし、彼方はどちらかというと業者や商人が大量に買い付ける為に開かれている場だ。
下町の人々も小道通りにある精肉店で買うのが常で、シュリニ達一家も昔からそこへ通っていた。
もう少しすれば中通りも終わり地元の人しか通らない区域へ入る。
何事もなく家へ帰れそうだと安堵していたシュリニは向かいからやって来た人影に気付くのが遅れ、肩をぶつけてしまった。
「きゃ………も、申し訳ありません。
お怪我はありませんか?」
「お、おぉ。此方こそすみません。貴方は大丈夫……」
パッと顔を合わせたその男性は戸惑いながらも返した言葉を不自然に止めた。
シュリニの顔を見て驚いた顔をしている。
呆けたように口が中途半端に開いてしまっているし、なんだか視線が忙しない。
その事にシュリニは何処か変な所に当たってしまったのかと慌てて言葉を紡いだ。
「本当に申し訳ありません。往来で不注意でした。あの、本当にお怪我はありませんか……?」
「……っえ、あ。いえ、大丈夫ですよ。ぶつかってしまったのは此方も同じです。ですがお詫びにお食事でもどうでしょうか?」
「え?いえ、返って申し訳ないです。それにこの後予定がありまして…」
「では、その予定が終わってからでも。
宜しければこの後付き添いますよ。知り合いが開いている店があるんです。そこで一緒に美味しいものでも食べながら……」
「失礼。そこのご婦人と貴方は知り合いか?」
言葉と勢いに気圧されて何も言えないでいたシュリニは、突然現れた第三者の声に驚いて振り向いた。
ぶつかった際、咄嗟に背後に庇っていたマーヤの小さな手が不安そうにぎゅう、と握られている。
混乱しながらも背後にいた人物が警ら隊の隊服に身を包んでいるのを見て、頭の隅が冷静になっていく。
手に菓子箱を持っていたので良かったが、目の前の男性はそれを奪い取って今にも手を掴んで来そうな勢いだった。声を掛けられていなければ、そのまま手を掴まれていたかもしれない。
どう説明しようかと言葉に悩んでいる内に警ら隊の男は再び口を開いた。
「先程、偶々様子が見えたのだが、此方のご婦人とぶつかってしまったようだな。
怪我などはないように見られるが、もし具合が悪いのなら近くの診療所まで同行しよう」
「あ、いいえ。体調は何もありませんよ。
ただ此方の女性に失礼をしてしまったのでお詫びを、と話していた所なんです」
「そうか。だが、ぶつかったことも含め良く注意して欲しい。
子供連れのご婦人をディナーに誘うのは男としていささか節操がないと思わないか?」
子連れ?と訝しげな表情を浮かべた男性は次に、顔だけ覗かせたマーヤの存在に気付き驚いた声を上げた。
慌ててすみませんでした!と頭を下げて立ち去る姿に、シュリニは状況が飲み込めず呆然としてしまう。
男性に返事を返せなかった事と、マーヤが怯えてやいないかとぐるぐると思考が絡まっていたシュリニの耳に警ら隊の男の声が届いた。
「失礼した。お節介かとも思ったのだが、お困りの様子だったので」
顔を向ければその場に残ってくれていた警ら隊の男と視線が合う。
刈り込んだ短い茶髪と生真面目な顔付きをした男性に警ら隊の機能的な隊服が良く似合っている。
姿勢良く背筋が伸びているのでシュリニとは頭一つ分背が離れている。
「そんな、お声掛け下さりありがとうございました。突然の事に驚いてしまって困っていたんです。お陰様で助かりました」
この子に何もなくて良かったですし。とマーヤの方を向くと不安そうな顔をしたマーヤがシュリニを見つめていた。
安心させるように笑って頭を撫でてやれば漸くマーヤの顔に笑みが浮かぶ。
その様子に問題なし、と判断したのだろう。
警ら隊の男は「それでは失礼」と短く告げて颯爽と立ち去って行った。
深々と頭を下げてそれを見送ったシュリニは今度こそ目的を果たすべくマーヤの手を握り直した。
◇◇◇◇◇
「えぇ!?それどう考えてもナンパだよ!
姉さんおっとりしてる所があるんだから気を付けてよね」
「ナンパなんてされる訳ないわよ。私の顔を見て驚いていたからこの眼を珍しがっての事でしょう。
でも流石にお詫びで食事は大袈裟だと思ったから、警ら隊の方が来て下さって助かったわ」
ほらそういう所!と言う弟の言葉に曖昧に頷きながらキョフテを口に運ぶ。
食卓を囲みながらブーブー文句を垂れるアレックスとは対照的に、隣に座るマーヤはご機嫌いっぱいだ。
今日はお洒落をしてお出掛けした上に夕食は好物のメニューだし、更にはお楽しみのミルフィーユも待っている。
この嬉しい出来事の連続に、知らない男性とのちょっとしたトラブルはマーヤの中では帳消しとなったらしい。
夕食でその日あった事を話すのが恒例となっているシュリニ達だったが、今日の出来事を聞かされた弟は不満が止まらないようだ。
豆のスープを口いっぱいに頬張ったアレックスは良く噛んで嚥下した後に、良く分かっていなさそうな姉へ言い含めるように同じ言葉を繰り返す。
「姉さんのんびりしてるんだから本当、気を付けてよね」
と先程より些か率直な注意が飛んで来て肩をすくめて見せる。
従妹にお洒落をさせてお出掛けした事や人気のミルフィーユが食べられる事よりも、姉が知らない男とぶつかり警ら隊の世話になったという事の方がアレックスにとっては重要らしい。
シュリニとしてはマーヤが満足してくれて、アレックスに好物の甘味を用意出来た事の方が重要なので、自身の周りで起こったあれこれについてはあまり関心が向かない。
自身にスポットを当てて振り返ってみても興味自体湧いて来ないので、本当になんて返したら良いのか分からないのだ。
精々が柄にもなくお洒落をして知り合いの人たちに変に見られていなかったが気になるくらいか。
もう化粧も服装も普段通りに戻しているし、料理の前に髪型も直してしまったが、弟があの格好を見たらなんて言うのやら。とお小言がこれだけで終わる事にシュリニはこっそり安堵していた。
──春の新作に間に合わせる為に織物作りを頑張っていたシュリニだったが、その後も手は休める事なく木枠を手に織り続けている。
最近は服飾店のスケジュールに重きを置いていた事もあって、家具店へ卸す敷物類の数は通常より少なくして貰っていた。
今はその分の遅れを取り返そうと、いそいそと織る毎日を送っている。
この日も潤色の驟雨に彩られた外と壁一枚隔てた仕事部屋で、朝日のように鮮やかな配色を施した織物を前に手を動かしていた。
秋冬の新作練習も兼ねて祖母の残した図案を基に糸を紡いでいるその表情は、春の木陰のように明るい。
複雑な模様が特徴のキリムは使う糸や手順こそ多くなるが、その分手の中で形になっていく作品を見ていると達成感がある。
外では冷たい雨がさらさらと降り、仕事部屋の窓に雨粒の当たるこつこつという音が響いている。
一定のリズムを刻む静かな音色に集中力も高まり、黙々と編み続けていたシュリニは控えめに告げられたノックの音に顔を上げた。
「ねーしゃ、ただいま。お手紙とどいてたよ」
「あら、お帰りなさいマーヤ。今日は早かったわね。アメンボは見つかった?」
「うん!みんなで水たまりにいるアメンボを見てたらカエルさんも来たの」
友達との出来事を嬉しそうに話しながら駆け寄って来たマーヤから手紙を受け取ると、二通届いているのが分かった。ありがとう、とマーヤの頭を撫でてやってから差出人を確認する。
一通は中等学校時代の学友からのもので、もう一通は祖父の元部下であるバーケノンからだった。
騎士団本部に勤めていた祖父はその働き振りを評価され、引退後も指導官として職場へ通っていた。
下町から王城までの長い距離を毎日歩いて通い詰めていた祖父は頑健そのもので、兵士時代からよく面倒を見ていた後輩達からは尊敬されていた。
特に現在、騎士団第三部隊の隊長を務めるバーケノンとは、祖父の生前から交流があった。
とても世話になったから、というのが彼の口癖だ。
寡黙な祖父の現役時代の武勇伝をよく語って聞かせてくれたのもこのバーケノンだった。
バーケノン自身は侯爵家の血縁らしいのだが、それを感じさせない大らかな人柄で、祖父が亡くなりシュリニ達が平民の仲間入りをした後も何かと気に掛けてくれている人情深い方だ。
定期的に近況を確認する便りが届くので、今回もそれだろうとペーパーナイフを走らせたシュリニは、次に便箋に並ぶ文字を見てどうしたものかと首を傾げた。