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──目の前に見慣れた天井が広がっている。
自室のベッドに居るらしいと気付いたシュリニはゆっくり頭を動かして辺りを見渡した。
長時間同じ姿勢で居たのか身体のあちこちが強張って痛い。
なんとか真横へ向けた額から何かが滑り落ちた。
視線を向ければ冷やす為の濡れタオルで、頭を襲う痛みとじくじくとした感覚に熱が出ているのだとぼんやり思った。
サイドテーブルには水の入った小さめの桶が置かれている。
手を伸ばして温くなってしまったタオルをそこへ落とすと知らず溜め息が口から漏れた。
どうやら久々に体調を崩したらしい。
昔からストレスや疲れから熱を出す事がよくあったが、最近は家族の為にと気を張っていたからか倒れるような事はなかったのに。
いや、本当は分かっていた。
日々身体に溜まる疲れと、じわじわと蝕む不調に見て見ぬフリをして仕事に家事に育児にと慌しかった。
ここで気を緩めて不調だと告げれば生活は破綻する。
その思いがあったからシュリニは何も言わずにここま頑張って来た。
それなのに………結局倒れてしまうなんて、自分はなんて愚かなのだろう。
自分の体調の管理すら出来ないなんて。
アレックスとマーヤは大丈夫だろうか?
仕事部屋で倒れた筈だから、恐らく自身を抱えられるような人を呼んでくれたのだろうけれど。
二人の悲しむ顔が頭に浮かび、シュリニの胸がチリチリと痛んだ。
その時、扉を控えめにノックする音が響いた。
停滞していた思考が返事を口から出させる前に扉が開かれる。
現れたのは夜明け話した時と同じ、酷く心配そうな顔をしたアレックスだった。
「あぁ、姉さん起きてたんだ。勝手に入ってごめん」
「いいえ、大丈夫よ。私倒れちゃったのね………迷惑を掛けてしまってごめんなさい。あの後大変じゃなかった?」
「まぁね。僕じゃ姉さんを抱えられなくて先生にベッドまで連れて行って貰ったんだ。
倒れた時に支えようとしたんだけど、僕と反対側に倒れちゃったから殆ど間に合わなくて………膝と左肩がアザになってる。
先生からは過労による貧血だろうって。
熱も出てるから下がるまでは絶対に安静にって言われたよ。
コレ、熱を下げる薬とポーション」
そう言いサイドテーブルにお盆を乗せる。
先生とはこの下町に診療所を構えるお医者様だ。古く続いている診療所にはこの辺りの住民の大体がお世話になっている。
アレックスはシュリニが身体を起こすのを手伝うと薬とコップに入った水を渡してくれた。
それを飲み終わった後、おずおずとガラス瓶を差し出される。
ドロっとした粘性の強い緑色の液体は薬草を煎じたものに治癒の加護を掛けたもの。
安定した効能を得られる為各地で普及しているが、正直味については不評しかない代物だ。
覚悟を決めて一思いに飲み下したシュリニは鼻を通る生薬独特の匂いと舌に広がる苦味にきゅう、と目を閉じた。
その様子にお盆に添えられた飴玉をアレックスが苦笑しながら渡してくれる。
「ポーション飲んだの久し振りじゃない?
お味はどう?」
「う〜………お祖父様が亡くなってバタバタしてる時に飲んでたから約2年振り?
何年経ってもこの味は慣れないわ」
「コレをあと3日分貰ってるから頑張ろうね」
しれっと追い討ちを掛けてくる弟に信じられないと顔を向けたが、そもそもの原因は自身の体調管理不足だった為に中途半端に開いた口は結局何も言わずに閉じた。
姉に似ないで健康そのものに育ってくれたアレックスは一日へとへとになる位動き回ろうと、しっかり眠れば翌日にはケロッと起きて来る。
精々訴えるのは動き過ぎた故の筋肉痛位のもので、弟まで病弱でなくて良かったとシュリニは常々安堵していた。
昔は自分があれだけの量を動き続けたらあっという間に倒れてしまうのだろうな。なんて無邪気に外を駆ける弟の姿をベッド越しに見つめながらよく考えたものだ。
今はマーヤが友達と遊びに行く姿を見て同じ想いを時々抱いている。
マーヤと言えば、とふと壁に掛かった時計を見てシュリニは飴玉を口に放り込んでいるアレックスへ言葉を掛けた。
「そういえば今日は学校をお休みさせてしまったわね……マーヤの様子はどう?二人共ご飯はもう済ませたの?」
「うん。先生が帰ってからになったけど朝ご飯をマーヤと一緒に食べてその後は隣のおばさまに事情を話して預けて来たよ。
マーヤを夕方連れて来てくれる約束で、その時にお見舞いの花を届けてくれるって」
「そう……何もかもやって貰って申し訳ないわ。
明後日織物の納品予定だったのだけれど、連絡しないといけないわね」
「それも隣のおじさまが言付けてくれる約束してる。配達ついでに家具店と服飾店に寄ってくれるって」
心配させないように敢えて気軽な口調で伝えてくれているアレックスの言葉に相槌を打ちながらもシュリニは落ち込んでいた。
至れり尽くせりの今の状況にとてつもなく申し訳なくなる。
家族の為にと頑張っていたのに、これではどちらが養っているか分からない。
「姉さんは色々と頑張りすぎなんだよ。
俺だって疲れた時は鍛冶屋の仕事を少なくして貰ってるのに。
俺達の為にっていうのは理解してるけど………そんなにいつも全力で働いてたら姉さん休む暇もないじゃないか。
折角だから息抜き出来ると思ってゆっくり休んでてよ」
呆れた顔をしながらくどくどと説教する弟に罪悪感と共に苦いものが込み上げて来る。
流行り病で両親が亡くなったのは4年前。
アレックスが8歳を迎えた頃だ。優しく立派な男の子に育ってくれたのは嬉しいが、充分甘えさせてやれなかった事にシュリニは後ろめたさを感じていた。
自分が両親から貰えた愛情は14年分だが、弟は8年なのだ。6年の差は子供にとってとてつもなく大きい。
赤ん坊の頃に両親との別れを経験しているマーヤにはその分、祖父母と両親、姉弟から惜しみない愛情を注いだが、相次いで親族が亡くなっていき今や家族は3人だけだ。
せめて二人には不自由なく伸び伸びと過ごして欲しいシュリニはアレックスの頭へ手を伸ばして真っ直ぐなその髪を優しく梳いた。
「私の事は気にしないで大丈夫だから貴方は貴方の人生を歩んでね。
好きな事も夢も、我慢する必要はないのよ」
「ダメ。姉さん目を離したら無理して倒れてるでしょ。か弱い姉を残して離れる方が心配過ぎて無理。
それにマーヤが成人する時、誰に付き添いさせるつもり?
その辺の男がマーヤに近付いて来たら俺容赦しないからね」
この国では成人した者は教会でお祝いして貰う風習がある。
毎年春に行われるお祭りで教会の神父様から祝辞を受け、金細工のヘッドバンドを着けるのだ。
思慮深さと知識を身に付け一人前と認められる大切な儀式であり、シュリニも一番近くの教会に今年参列する予定となっている。
その時、成人する者には異性のパートナーが見届け人として付き添うのでシュリニは誰に声を掛けようか悩んでいた。
基本的に成人済みの親族が付き添うのだが、シュリニの家には該当する者が居ない。
その次に多いのが恋仲にある年上の者や、意中の人に声を掛けるパターン。
成人すれば婚姻が認められるのでそれを意識して声を掛ける者も多い。
シュリニに関して言えば、取引のある家具店と服飾店に勤める独身男性からそれぞれ申し出があった上に、近所の男性数名からも声を掛けられているのだ。
見届け人としてパートナーになった者達がそのまま恋仲に発展する事がままあるので、シュリニは簡単に返事を返せずにいた。
「マーヤの成人の時は安心ね。アレックスが付き添うなら悪い男性に近寄られる事もないわ」
「姉さんの方こそパートナー決めないとでしょ。あ〜ぁ、見届け人が成人済みって決まってなきゃ俺が付き添うのに……」
不貞腐れた様子でベッドに頭を倒すアレックスにふふ、と笑う。
可愛い弟の頭を優しく撫でてやると、恥ずかしそうにもごもごと何事か呟いていたが手を避けられる事はなかった。
弟の優しさを十二分に感じながら、シュリニはこの穏やかな時間をやっと素直に享受する気持ちになれたのだった。
◇◇◇◇◇
あれから体調が落ち着き、久し振りに玄関を潜る。シュリニは実に1週間振りとなる仕事先への道のりにそわそわとした気持ちになってしまった。
家具店と服飾店からは、倒れたその日の内に見舞いの返事と仕事調整の連絡が届いている。
どちらの店からも「注文通りの数をこなす必要はないから翌週に納品日を改めて今は療養に専念して欲しい」という旨の返事を頂いた。
申し訳なさと不甲斐ない自身への落ち込みが胸を満たす。
特に『プティ・カナン』はシーズン毎に販売する商品を一部入れ替えている。
次のシーズンまでに納期に間に合わせないと新作の発表に間に合わなくなってしまう。
シュリニも態々会議に出席させて貰い、細部まで突き詰めて決まったオーダーメイド品もある。
オーナーである伯爵夫人自ら会議を回して決まったものだ。半端な物は納品出来ない。
週初めに倒れてから4日の療養期間と2日の内職を過ごした翌日、シュリニは大切に織物を仕舞った鞄と共にお詫びのお菓子を手に通りを歩いていく。
この2日の内に巻き返すつもりで織物を進めていたシュリニだったが、マーヤが心配してかずっと側から離れなくなってしまったのだ。
前に倒れたのがマーヤが4歳の頃なのであまり覚えていなかったのだろう。
身内で頼るべき存在の従姉が過労で倒れたというのは6歳の子供にとってはショックが大きかったのだと思う。
家事や仕事に手を出そうとする度に顔いっぱいに不安を浮かべて服の裾を持って着いてくるのだ。
ベッドの住人になったシュリニの様子を恐る恐る見つめていたのはつい先週の事だ。
頼りない姿を晒してしまった罪悪感からシュリニもマーヤの気持ちを汲んでずっと側にいる事にした。
こんなに小さな子にまで心配を掛けながら今までのように動く事は出来ず、結局作り終えた織物も注文数にギリギリ届かなかった。
注文数をこなす必要はない、と返事を頂いているが、これを機に契約を見直し、なんて事になったらどうしようかと悩みながらシュリニは通い慣れた道を歩き終えてしまう。
目の前に広がるのは服飾店『プティ・カナン』
檸檬色を基調とした壁にブラウンの屋根と柱が可愛らしい印象を与えている建物だ。
シュリニがいつも通うのは裏口だから色味も相まって可愛いという印象を受けるが、通りに面した玄関口は草花や金細工の看板がセンス良く飾り付けられ上品な外観に整えられている。
シュリニはゆっくり深呼吸するとドアノックを叩いた。
「………この度はご迷惑をお掛け致しまして申し訳ございません。全ては私の不徳の致す所です。
それなのにお見舞いの品までご用意頂きまして誠にありがとうございました」
応接室のソファから立ったままシュリニは深々と頭を下げる。
文字通り頭の上がらないその様子に向かいのソファに座る人物は困ったようにふふ、と笑った。
「シュリニちゃん、そんなに気負わなくて良いわ。
あれから体調はいかがかしら?」
オーナーである夫人──アマーリア・フォン・ベルレアン伯爵夫人が優しく問い掛けて来る。
初めて契約を結んで以降、仕事以外でも何かと気に掛けて下さる慈愛深い夫人は顔色の悪いシュリニの心情を察してニコリと微笑んだ。
「はい……あれから体調はすっかり良くなりました。
お客様の信頼を落とすばかりか、皆様にも大変なご迷惑をお掛けしてしまい、申し訳ないばかりです」
「納品に関してなら心配要らないわ。
新作発表までのスケジュールは予め長期を想定して立てているし、オーダーメイドのものも今日持って来てくれた織物で早速取り掛かれるから」
その言葉と共にローテーブルへ広げられたスケジュール表には確かに余裕を持った日程が記されている。
途中から会議で聞いていた日付と変わっているのは、シュリニの体調を鑑みて修正したものだろう。
けれど、最終的な日程には変更がない。選考が決まらず2品作る事になっていた試作品が一つに絞られているからだ。
これなら新作発表にも充分間に合う計算になる。
シュリニは漸く安堵の溜め息を吐いた。
「日程の調整をして下さったのですね。
お陰様で期日にはなんとか間に合いそうです。
何から何まで本当にありがとうございました。
…このようなものではお詫びにもなりませんが、せめてもの謝意を表したくお持ち致しました。お口に合うと良いのですが……」
「あら、此方が気を遣わせてしまったわね。
ジムから聞いたのだけれど、シュリニちゃんのお菓子はとても美味しいと評判なのよ。
いただける機会が出来た事を喜んでしまう私を許してね」
そう言い、目の前に置かれた繊細な陶器の皿から上品に菓子を口に運ぶアマーリア。
伯爵夫人という立場なので店に入った際に菓子は事前に渡して毒味も済ませている。
ジムというのは普段、この店を任されている店長の事で壮年の穏やかな男性だ。
納品日に談笑がてら子供達に時折菓子を作ると話した所、お孫さんにも食べさせてあげたいと話していたのでこんなもので良ければ。と差し上げたのだ。
後日お孫さんと共に召し上がったそうで、大変お気に召して貰えた。
それ以来、お菓子を作り過ぎた時は偶に持ち寄っているからアマーリアの耳にも入ったのだろう。
アマーリアも初めて口にしたお菓子に頬を緩めている。
「初めて頂いたものだけど、美味しいわ。
これはパイ生地のようだけれど、王都で人気のお菓子とはまた違うようね?
中に入っているのはナッツかしら?」
「はい。祖父母の祖国で伝統的なバクラバというお菓子です。
と言っても、私も祖母が作ってくれたもの以外口にした事がないので本場の味は良く知らないのですが。
本来はもう少し薄いパイ生地でたっぷりのナッツを挟んで焼き上げ、最後にバターシロップを掛けるそうです。
祖母の残したレシピだと非常に甘いので、此方はベリーを加えたりシロップを少なめにしてミネージュのお菓子寄りにしてあります」
もうアマーリアは謝辞を受け取り今後の確認は済んだからとお茶とお菓子を楽しむ姿勢だ。
シュリニもその意を汲んでお菓子の話題を提供する。
そういう切り替えがスッと出来る所も、不測の事態にも慌てず最後には計画通りに事を進めてしまう優秀さもシュリニは尊敬していた。
先週届けられたお見舞いの品もセンスと気遣いが素晴らしかった。
この職場で針子達の働きぶりをよく見ているのだろう。
シュリニが過労で倒れたと聞いて贈られて来たのはアイマスクと香油だった。
アマーリア直筆だろう滑らかな質感の手紙には目と身体を解しなさい。と書かれていた。
リラックス効果のあるハーブの香油と細かな魔石の織り込まれたアイマスクは熱が下がらない間、随分助けられた。
肩凝りに効くマッサージの方法も手紙には添えてあったのでアレックスとマーヤに手伝って貰って試している。
常に怠く身体が強張っていたのが毎日続ける内に軽くなったのだからアマーリアの視点は的確だ。
お陰様で熱が下がってからは大分、身体が軽く感じている。
「まぁ、本場ではこれよりもっと甘いのね。
確かに甘さが強すぎると驚かれてしまうわね。
今はあっさりとした酸味のあるものが好まれるから。
けどナッツの食感が楽しくて私此方も好きよ」
「そう言って頂けてなによりです。
カフェで食べられるミルフィーユも一度是非、子供達に食べさせてあげたいのですが、どこも人気ですし……手を出すには少々勇気がいるお値段なんですよね」
自然な笑みを浮かべながらシュリニも菓子を口に運ぶ。
今、王都の女性に人気なのは果物を挟んだミルフィーユだ。
パリッと焼き上げたパイ生地に酸味の強い苺や檸檬を挟み、その上に甘さのスッキリしたクリームをふんわり乗せたミルフィーユは、今やどこのカフェやスイーツ店でも売られる程、定番の人気商品となっている。
今は春の初めで王都ではこれから段々と気温が上がって来る。
まだ少し肌寒い今でもあっさりとしたお菓子は好まれたのだ。暖かくなる程、冷たく酸味のあるものは需要が増えるだろう。
「そうなのよ。これからもあのお菓子は人気でしょうし、確実にお茶会の定番に並ぶ事になるわ。
王女殿下が話題にしたとあってご令嬢達の間でも大変人気なのだから」
広告塔が王女殿下だとは噂程度に聞いていたが、まさか本当だったとは。
ここミネージュ国の王室には現在、末姫様しか王女が居ない。
兄王子殿下方が一等可愛がる心優しい王女なのだと巷で度々話題に上るお方だ。
そんな方が大々的に宣伝したのだから付加価値が付いて値段が高くなるのも頷けるものだ。
王女殿下の口に入る物が手頃な値段で買えるとなってもそれはそれで問題視される。
「お茶会で頂くものは街に並ぶものより更に素晴らしい出来栄えなのでしょうね。
そんな中でこのようなものをお出ししてしまって申し訳ないです」
「何を言ってるの。私は此方も好きと言ったでしょう?
これまでジムだけ独占していたのが惜しいくらいだわ」
「まぁ。アマーリア様に褒めて頂けるなんて作った甲斐がありました。
本日のものは紅茶に合うように甘さを調整したのですが、他にもお好きな味がおありでしたらまた作って来ても宜しいでしょうか?」
「あら、そこまでして頂いたら逆に申し訳ないわ。
それでしたら今回の新作を作り終えた後に私のお屋敷へ一度来て貰えるかしら?
シェフにレシピを教えて欲しいのよ。
お仕事の合間に甘いものを口にしたくなるのよね」
「まぁ……宜しいのですか?」
「えぇ、私だって甘いものには目がないのよ」
そう言ってくすくすと笑うアマーリアの視線の先には気不味そうな顔をしたジムが居た。
応接室のお茶をジム自ら淹れているのだが、これはシュリニのお菓子がまた食べられないかと期待しての事だろう。
お茶目な一面のある二人の様子にシュリニもコロコロと笑った。
落ち込んだ人を掬い上げるのが上手な方達だ。
この『プティ・カナン』に仕事を任せて貰えて自身は本当に果報者だ。
尊敬する人達の想いに応えたいとシュリニは一層気を引き締めた。