29. 貴方は月なのですか
エリックは目がいいが耳もいい。
都から遠く離れた森の中の村で育ったのもあるが、とりわけ大勢いる弟や妹たちの中でも聴覚が優れていた。
だからぐずっていたり、少しでも苦しそうにしているなど異変を聞きつけるとすぐに目が覚めてしまう。
そう、今宵もエリックは夜遅くに目が覚めてしまったのだった。
「……」
今日も毎日増えてくる魔獣を退治していきながら目的地──女神の聖剣のある神殿を目指して勇者一行は進んでいたのだが、思いの外魔獣の数が多く村に立ち寄らなくなるほど気づけば夜になっていて、今日も野宿かと皆が顔を曇らせていたら……エリックが見つけたのだ、ずっと使われていないけれど暖の取れそうな小屋を。
簡単な厨房もあって嬉々として五人は温かな食事を作り、食卓を囲めた。途中旅の道すがら調達してきた珍しい香辛料をどっさりかけていたエリックの皿の上の料理をステファンが一口つまみ食いをして、悶絶していたので試しに他三人も舐めてみると──身体に様々な症状が出て慌ててラーラが治癒魔法具で皆を治したという経緯もあった。
(そんなに辛かったかなぁ。なかなかおいしかったと思うんだけど)
エリックは皆が起きないようゆっくりと身体を起こす。
アイリスはいつ誰かからの襲撃が来ても対処できるように入り口付近で寝ていて、ステファンは意外にもきちんと毛布に包まって寝ている。対してシシリーはというと自由奔放に手足が毛布からはみ出ていて、やっぱり結構可愛いじゃじゃ馬っぽいところが出てるなと思った。
(皆の前ではしゃんとしてるけどね。彼女は光魔法が使えるから村から出ることになって王都の王立学園に来てから色々あったんだろう)
などと考えながらシシリーに毛布を掛け直してやって。
(さて。この眠り姫をどうにかしないと)
眠り姫といえど、彼女──ラーラは、脂汗をかきながら苦しんでいた。
皆には迷惑をかけぬよう、無意識に魔法を使ってその苦しげな声を消してはいたがわずかな荒い吐息なんかはエリックには聞こえてしまう。
(彼女も彼女だ。一人で抱え込みすぎだ)
ちらとアイリスの方を見てからエリックは至極小さな声でラーラに呼びかける。
「勇者さん、勇者さん。起きて」
「……ぅ、うぁ……」
もしかするとその浅い夢の中でエリックの声が怨嗟の声のように聞こえているのかもしれない。
これは早く起こさなければ。エリックは強めにラーラをゆすってみる。
「起きて、勇者さん」
「……ぁ、……ぇりっく、さ……?」
「そ。僕だよ。うなされていたから起こしたけど大丈夫?」
身体を起こしてエリックの方へ向き、段々と覚醒していく意識の中で彼のおかげで苦しみから逃れられたのだと知る。
「……すみません。起こしちゃったみたいで」
「いいんだよ。誰でも悪夢は見るものさ。でも君のはちょっと違うみたいだ」
「へ……? どういうことです?」
ラーラは訝しげにしつつも念入りに消音魔法を使って自分たちの声を消す。皆を起こさぬようにするためだ。
人差し指を立ててエリックは説明する。
「君、気づいてないかもだけど毎晩うなされてるよ。いつもすぐ悪夢はおさまるみたいだけど今夜のはちょっとものすごく辛そうだったから起こしてみたんだ」
「そうだったんですか。迷惑かけちゃいました」
「いんや、それにちょっと気になることもあってさ」
エリックはラーラの隣に座り直して、暗い小屋の中でぼんやりと浮かび上がるラーラの顔を見ながら言った。
「ずっと夢の中で『くりすさま』って言ってるよ。消音魔法で消してても口の動きでわかっちゃうんだ」
ラーラは目を見開く。
その名は皆に決して言わぬようにしていたのに。
「気のせいです」
「勇者さんの方はどうやら嘘吐きの才能はめっきりないみたいだ。君、何か都合の悪いことがあると髪を触る癖がある」
「……やっぱりエリックさんはすごいですね」
エリックはそっとラーラに自分の毛布をかけてやる。微かにラーラの身体が震えていたからだ。
ありがとうございます、と小さく言ってラーラは口を開く。
「でも、ごめんなさい。彼のことは……話せません」
「ふぅん、やっぱり男の人かぁ。さてはこっぴどく振られた昔の恋人だな?」
「違います! クリス様はそんな方では……」
あ、とラーラが口を抑えるのでエリックはくすりと笑った。
「辛かったこと、悲しかったこと、少しでも吐き出してみればよく眠れるようになるかもだよ。僕でよければ聞くからさ」
「……」
ラーラは悩むように顔を俯かせていると、小屋の窓から二つの月が雲から現れて明るくなるのに気づき顔を上げる。
そういえば、あの夜もこんな月の夜だった。
エリックさんならば大丈夫。彼は秘密を守ってくれるって過去のループでも知っている。そう思いながらラーラは二つの色の違う月を見つめながらこんな話をしだした。
「クリス様との日々は短いものでした。でも、とても良くしてくださって……私の人生の中で忘れられない日々だったんです」
ラーラの横顔が二つの月の色、金色と明るい緑色に照らされていて、エリックはじっと見つめる。
「前の私は、こんなふうに毎日剣を振るような元気がなかったんです。いつも下ばかり見ていて、もう何も考えたくないって、周りに迷惑をかけるような暗い人間だったんです」
でも、とラーラは続けた。
「クリス様はずっと、私を支えてくれました。いっぱい褒めてくれて、君はたくさんがんばったからもうがんばらなくていいんだよって、ここに居てもいいんだよって言ってくれたんです」
ふとラーラが思い出したことがあって、エリックに聞いてくれますか、と尋ねる。
「聞くよ。君のこと、クリスって人のこと、知りたい」
「……わかりました。あれは今日みたいに月が二つとも空に浮かんでいた夜のことでした」
ラーラは瞳を閉じて、記憶の中に浸りあの優しく包み込んでくれる声を聞いた。
『……ラ。ラーラ、大丈夫か?』
「う……ぁ……? 竜王様……?」
『ああ、俺だ。すまない起こしてしまって。君のうめき声が聞こえてしまったものだから』
ラーラは寝台から身を起こして周りを見るが、クリスの姿は見当たらない。
(あ、そうか。この感じは念話ですね)
だからクリスがラーラの部屋にいないのだ。
『おまじないをしても悪夢を見てるってことは足りなかったってことか……そういえば今日の魔力同調は短かかったよな』
すまない、とラーラの頭の中でクリスの謝罪の声が響く。
「大丈夫ですよ。寝なければいいんですから」
『スタンじゃないが怒るぞ、怒っちゃうんだぞ。まあ俺がラーラに怒るわけないんだが。ちょっと待っててくれ』
などと言われ、ラーラは首を傾げる。
(私には怒られる価値などありませんし……それにしても待ってろって、ついこの間アイリス様に叱られたばかりですのにまたお部屋にいらっしゃるのでしょうか)
ラーラがぼうっと寝室の扉の方を見てクリスが現れるのを待っていると──突然、真反対の方向からコンコンコン、と何かを叩く音が聞こえた。
(へ? 窓の方から……って、えぇっ!?)
ラーラが気になってカーテンを開くと、窓の上の方で逆さまになったクリスの顔があったのだ。
「ち、ちょ、竜王様……!? 何をされて!」
「やあラーラ! 淑女の寝室にはお邪魔してはいけないとアイリスにきつく言われてしまったからな、ここから失礼するぞ」
「失礼するぞ、ではなく! 早く降りてきてください、危ないですよ」
「大丈夫だ、俺には竜の翼があるから」
よっと、とクリスが翼を広げて窓向こうのテラスに着地する。
ラーラはクリスのために窓を開くと冷たい夜風が吹き込んできて少し身体を震わせた。
「早く中へ。寒いでしょう」
「ありがとうラーラ、君はやっぱり優しいな。でも俺は大丈夫だから君の方こそ暖まるべきだ」
そう言ってクリスは己の黒いマントをラーラにかけてあげて彼女の手をとった。
「なにを……?」
「夜の星空ショーでもいかがかな、眠れないお姫さま?」
クリスがにぱ、と笑ってラーラの手を引き胸元に抱いて、何か言う間も与えずにその翼をはためかせて夜のコーネリア城を飛ぶ。
「り、竜王様! どちらへ……!」
「絶景ポイントってところだ。よっと、着いたぞ」
クリスとラーラはコーネリア城のてっぺん、王都を一望できる屋根の上に降り立った。
ゼレンセン王国の王都は眠りに包まれていたが、ちらほらと灯りが灯っていた。
(わあ……綺麗。それに空中飛行をしても寒くなかったのはこのマントにかけられた魔法のおかげでしょうか)
ラーラがクリスの黒いマントをぎゅ、としていると、その様子がツボに入ったのかクリスが悶えていた。
「ぐっ……耐えろ俺、いやでもラーラは可愛くて可憐で生きてるだけでエライから……しかし己を律しなければ……」
「いい香りが……します……」
「ぐはっ……だめだ! ラーラが俺のマントを……!」
いや明日の執務の量を考えるんだ、と冷静になるクリスをよそに、彼のマントを大事なもののように抱きしめているラーラはふと空を見上げた。
「あ、月……」
二つの月がまん丸になってクリスとラーラを照らしていた。
クリスがようやく落ち着いたのか、ごほんと咳払いをしてラーラをそっと屋根の上に座らせ、自分も隣に座った。
「今宵は満月だったからな。月には気を沈めてくれる魔力を宿していると言われてるだろう、ラーラに一番よく見えるところで見てほしくて」
「それで私を連れ出してくださったと。ありがとうございます、竜王様」
ああ、と言ってクリスはラーラと共に月夜を見つめる。
「子竜だったころから一人だったから、こうして気を落ち着かせるためにこの屋根の上までのぼってよく月を見ていたんだ。そうしたら明日は魔力暴走は起こらないかも、皆に迷惑をかけないかもってな」
「竜王様も……お一人で、あの月を見ていたんですね」
いっしょに見たかった夢が叶ったよ、とクリスがラーラに向けて微笑んだ。
(夢……ですか)
今の自分には夢なんてものはない。やりたいことなんて、やりたいと思うことすら烏滸がましいだろう。
でもこの国に来てからはなぜか──心が軽くなってきたような感覚があって。それが許されるものなのかと、ラーラは思っていて。
ふと、クリスがそのとき。
そっとラーラの肩を抱いて、自分の方へと体重をかけさせた。
「この方が暖かいだろう。マントには魔法がかかってるが体温と体内魔力に触れる方がいいだろうから……嫌だったら、言ってくれ」
「……いえ、嫌では、ありません」
むしろ、なんでかわからないけれど。
(ずっとこうしていたい、なんて)
不思議となぜか自分の体温が急に上がってきたような気がして、ラーラは何か話題を出そうと思って月の色を考えた。
「そ、その。右の月の色って竜王様の瞳の色みたいですよね」
「確かに金色だ。じゃあ俺の千里眼はもしかしてあの月なのかもしれないな」
ああやってラーラのがんばりを見守る、そんな月だ。
クリスがそう言うと、そんな感じがしてきて。
ラーラはずっとしばらくの間見惚れていた。とても、綺麗だった。けれどクリスの瞳の方がずっと綺麗だと思った。
(暖かいのは、体温だけでなく……さりげなく魔力同調もしてくださってるから。何から何までこの方の優しさにはお世話になっている……)
ラーラの肩を抱く手は包み込むようで、痛くない。ただその手の力は彼女を安心させるようなものだった。
クリスに気づかれぬようちらりと彼の瞳を見てから、やっぱりそうだと感じて二つの月へ視線を戻す。
「……右の月がクリス様だとしたら、左の月は誰なのでしょうか」
「そうだな。目の色か……目の色じゃなくて違うところの色かもしれないぞ」
「違うところ……?」
「さあ、そこまでは」
とクリスは言うが、どこか確信めいた言い方で。
「きっと、左の月もラーラを見守ってる」
だから大丈夫だ、ラーラ。
クリスは優しく笑みを浮かべて、魔法で何か飲み物の入ったコップを取り出した。
「これ、飲んでみてくれ。ココアというらしい。甘くておいしいぞ」
「ありがとうございます……わあ、おいしい」
ほっとする甘い味。きっとこれもクリスが並行世界の飲み物を創ってみたものなのだろう。
「俺の視ている並行世界の星の名はな、『チキュウ』というらしい。その中でもよく視えるのが『ニホン』という国みたいでな、面白いものがたくさんあるんだ」
ラーラにも視せてやりたいんだがな、と言うクリス。
「……私は、こうして竜王様が創って見せてくださるのが、とても嬉しくて……心がわくわくするようなそんな気がします」
「それは俺にとっても喜ばしいな。よし、もっと創らないとだ!」
クリスとラーラはこの夜、はじめて二人で向かい合って笑い合った。
二人だけの秘密の夜。
月たちが二人を見つめていて、星々もまた輝いていて──。
「──ちょうど、こんな夜でした。月が二つ見えていて、静かな夜で」
ラーラは小屋の中で、小さな小窓から差し込む二色の温かな月の色を見ている。
(もう、あのループには戻れない。私は死んでしまったから。どうしてもっとクリス様との時間を大事にしなかったのでしょう。いや、きっとその時間が自分にとって身に余ると遠ざけていたから……)
失ってから気づく尊さは重すぎて。
長い睫毛を少しだけ伏せて、切なげに月をずっと見ているラーラにエリックは言った。
「君はそのクリスって人のことを、とても大切におもっているんだね」
「はい。大切で──絶対に助けたい人なんです」
クリスのこと、竜王であることや竜であることは伏せてエリックに話したので、翼の下りなんかは二人でよじ登ったと言ってある。だからエリックはこれから向かう先にいる敵、邪竜王と今の話が繋がることなんてわかりやしない。
ラーラは自分の髪をいじる。
「……でも、こうしてエリックさんにお話できてよかったです。私、クリス様の出てくる悪夢を見ていたから」
「その人が一番、勇者さんが救いたい人なのかい?」
ラーラはエリックの顔を見て頷いた。
「はい。私がこの星で一番、笑顔になってほしい人です」
そうか、とエリックは口元に笑みを浮かべる。
「一緒にがんばろうね、ラーラちゃん」
「がんばりましょう、エリックさ……今、私のこと」
へ、と驚くラーラにエリックは野に咲く花のように破顔した。
「がんばってる女の子を応援したいって思ったら、自然と呼びたくなっちゃった。一人、妹が新しくできた気分さ」
「そう、ですか。ふふ、光栄です」
とても、嬉しかった。
(過去のループで呼んでくれていたように、エリックさんが『ラーラちゃん』と呼んでくれた)
ずっと勇者さん、と呼ばれていて一抹の寂しさを感じていた。
あ、とラーラは左の月を見て思う。
「あの月、そういえばエリックさんの髪色みたいですね。明るい緑色で、若草色といいますか」
「……」
エリックは一瞬無言になって、溢すように言った。
「見守ってるの、その彼だけじゃないってこと、知ってほしいなんてね」
あの、この場にいる皆と組んだ初日の夜のようにエリックはラーラの頭を撫でる。
「おやすみのおまじない。僕は寝るよ」
彼とは違う体温が離れていく。
「……はい、おやすみ、なさい……です」
ラーラも床に横になって、窓から差し込む二色の月を見つめて。
ゆっくりと、瞳を閉じて──安心できる眠りに身を委ねた。
なにやら甘い香りがしてきて、ラーラは目が覚めた。
「お、脳筋勇者のお目覚めだぞ。見ろよこの寝起き顔、シシリーより寝坊助って感じだぞ」
「ステファン様、女性の寝起きの顔をまじまじと見るものではありませんよ。失礼です」
アイリスがステファンの耳をぐいっと引っ張る。
どうやらいつの間にか朝になっていたようだ。それも自分が一番遅く起きたようで。
「わ、すみません。朝ご飯の支度、間に合わなかったですね」
「大丈夫ですよ、勇者様。たまには甘えてください。それにちゃんとエリックさんが変なもの入れないように見張ってましたから」
と、シシリーが報告してくれた。
「失礼だなぁ、みんな。僕の舌はいつだって正常だよ」
それは違う、と皆で声を揃えて否定した。
くすくす、とアイリスやシシリーが笑って、ステファンが溜息を吐く。
「はい、ラーラちゃん。ここら辺の朝はちょっと冷えるから温かいもの作ってみたんだ」
「ありがとうございます、エリックさ……」
受け取ったコップの中にあったのは、ココアだった。
ラーラの背中に冷や汗が流れる。
(私、昨日の晩にクリス様がココアを渡してくれたことは話してましたっけ。話してないはず)
竜王クリスが創り出す並行世界の食べ物や飲み物、魔法具についてはしゃべらずにいようと思っていたのだ。だからエリックは知らないはずなのに。
「それにしても脳筋勇者にクリスっていう男がいたなんてな。どこの国のやつだ? なあ、気になるよなエリック?」
「なんで僕に振るのさ」
そうですよ、とシシリーも会話に参加する。
「クリスさんって方のこと、もっと教えてください、勇者様!」
「へ、ど、どうして知ってるんですか二人とも」
ステファンとシシリーは顔を見合わせてこう言った。
「勇者様の消音魔法、途中から消えてたみたいで私たちに丸聞こえだったんですよ」
「なっ……!」
ぶわり、とラーラの顔が赤くなる。
(き、聞かれてたの……! 皆さんに! 恥ずかしすぎる!)
お、とステファンが意地の悪い表情をした。
「言っちまえよ、吐いちまえよ、エリックよりもいい男なのか?」
「ええ、とても良い方でしたよ。悪戯っ子のような一面もありましたが」
「なんでアイリスが答えるんだよ」
おいお前も気になってんのかアイリス、とステファンがアイリスに詰め寄っている。
(これは本格的に、魔力コントロールの修行をしなくちゃですね。女神の聖剣を手にする前にやらないと振り回されかねない)
そう思って、手の内のコップに入ったココアを一口飲む。
(──へ?)
咄嗟にエリックを見る。
エリックはにこりといつもの笑みを浮かべていて。
(どうして、クリス様が創ってくれたココアと同じ味がするの)
エリックのことを見つめても、彼はずっと笑ったままで。
裏なんて感じられない。温かみを感じる笑み。
若草色は見守っている。月のように、野に咲く花のように。
此度のお話はラーラとエリック、そしてクリスのお話でした。
二つの月はいつも寄り添っています。
明日の更新は夜8〜9時ごろの予定です。よしなに!




