<古龍と稲荷>
北の地の山奥。その地下深い真っ暗な洞窟で、深い深い眠りについていたはずの古龍の耳に、精霊たちの楽し気な声が届くようになった。
本来なら、精霊たちが多少騒いだとしても、古龍の眠りを妨げるようなものではなかっただろう。
 
『……うるさい』
 
古龍が身じろぎした。
眠りについてから動きもしなかったのに、この時が初めての身じろぎだった。
その身じろぎを、魔物たちは敏感に察知した。
 
――古龍が目覚める。
 
北の地の山の冷気が一気に駆け下り、周囲は吹雪に見舞われ、それはどんどん南下していく。また、近くにいた小さな魔物は、その身じろぎで溢れた魔力で一瞬で消え去り、それより大きな魔物はその場から逃げ出した。北の地にいた魔物たちが徐々に南下していく。
人の町へと襲い掛かるのも、時間の問題だった。
 
「おやまぁ……」
 
いつものキャンプ場の管理人の格好ではなく、スーツ姿の稲荷は上空から見下ろしていた。魔物たちの流れは、五月の住む山に至るまでは、まだまだ時間がかかるだろう。
途中にある国々によって、削られていくかもしれないが、これ以上魔物が増えたら、いつかは彼女の元までやってくるかもしれない。
 
――あのブラックヴァイパーのように。
 
ブラックヴァイパーの多くは、元来、古龍の眠る山奥の中でも、一番南側に生息している魔物だった。それがあの山までやってきたのは、あの個体が敏感だったせいなのか、たまたまだったのかは、わからない。
このままではマズイ、ということだけは、稲荷にもわかっていた。
イグノスですら眠らせることを選んだ相手を、自分が消滅させられるかわからない。しかし、元は聖女の親友であった存在であれば、説得できるのではないか、と思った。
 
目を閉じている古龍の前に現れた稲荷。
 
「おはようございます~」
『……』
「もう、起きてますよねぇ?」
『……』
「もしもーし」
『……うるさい』
「起きてるじゃないですかぁ」
 
稲荷が古龍の目の前にまで近寄ると、古龍もさすがに片眼を開ける。
 
「どうも。稲荷と申します」
『……』
「……起きてるんだったら、魔力、抑えてもらえませんかねぇ」
『……』
「できるんでしょう?」
『……』
「もう、いつまでも拗ねるの、やめましょうよー」
『拗ねてなど、おらん』
「えー。だって、かなり強引に眠らせたって、イグノス様、言ってましたけど」
『……』
「もう~。拗ねてないんだったら、余計に止めて下さーい」
『……』
「できるのにそのままにしてるのなんて、もう、嫌がらせしかないじゃないですかー」
 
その言葉に古龍は、忌々しそうに大きく鼻息を吐き出す。
ただの人や魔物であれば、その鼻息だけで消し飛んだかもしれない。しかし、稲荷は異世界の神だ。まったく影響もない。
 
「……あなたが目覚めた意味を考えてください」
『……』
「イグノス様が、言ったのでしょう?『また必ず、彼女は戻ってくる』と」
『!?』
 
その言葉に、カッと目を開く。
 
『戻ってきたのかっ!?』
「あー、もう、落ち着いてくださいよぉ」
『落ち着いてなどいられるかっ』
 
大きな身体が、起き上がる。
 
『どこだ……どこにいる……』
 
真っ暗な洞窟の上を睨みつけるが、古龍には感じ取れない。苛立ちで魔力が駄々洩れになるのを、稲荷が外へ漏れないようにと、慌てて抑え込む。
 
「はぁー、あなたには無理ですよ」
『なんだとっ!?』
「あのですね、戻られたのは戻られましたが、元は私の世界の人間として生まれ変わられたのです」
『……お前は、この世界の者ではないのか』
「ようやく、気付きましたか」
 
はぁ、と大きく肩を落とす稲荷。
 
「私の世界の人間には、魔力がありません。だから、あなたが必死に彼女の魔力を探したとしても見つけられません」
『……魔力がなければ、この世界で生きにくかろうに』
「あ、そこは、私とイグノス様で上手い事やってます」
 
その言葉に、古龍はぎろりと目を向ける。
 
『彼女は幸せなのか』
「……さぁ。こちらではそれなりに楽しんでいるようですよ」
『……そうか』
 
古龍は再び身体を屈め、再び目を閉じ、しばらく無言の時間が続いた。
 
『……稲荷と言ったか』
「はい、なんです?」
『彼女に……これを』
 
古龍の目の前に、白く丸いダチョウの卵のようなものが浮かび上がった。それがゆっくりと稲荷の手元へと動いていく。稲荷には、ソレが何なのか、すぐにわかり、一瞬だけ、嫌な顔をした。
 
「まったく……そんなに彼女に会いたいのですか」
『……よいだろう。どれだけ我が彼女のことを待っていたと思う』
「……まぁ、渡しに行くのはやぶさかではないですが……(私、早いところ、嫁と子供たちに会いに行きたいんですけどねぇ)」
『何か言ったか』
「あー、はいはい。じゃあ、近いうちに彼女に渡しておきましょう」
『必ず渡せよ』
「はいはい」
 
稲荷は呆れつつも、古龍の駄々洩れだった魔力が急激に減っていくのを感じ、ホッとした。
 
『彼女の名は』
「望月五月さんと言いますよ」
『モチヅキサツキ……』
 
古龍はかみしめるように、そう呟くと、ふぅっと深いため息をつく。
 
 
 
かつて聖女を殺した王家はもう存在しない。
あの時、古龍は聖女を守り切れなかった。
それは聖女が、裏切られたとはいえ、死の直前まで王太子を愛していたからだ。どんな冤罪をかけられようとも、いつか、助けてくれると最後まで信じていたからだ。
聖女が、冤罪をかけたのが王太子本人だと知ったのは、死の直前。
その時の悲痛な叫びが、古龍に届いた日のことを、彼は今でも鮮明に覚えている。
 
『今世こそは……』
 
古龍は湧き上がる想いを、胸に押し込め、再び目を閉じるのであった。
 





