第641話 稲荷さん、エイデンと交渉する
馬車の窓から見えてきたのは、山の斜面の荒地にポツンと建つ、平屋の切妻屋根の建物。その前に、誰かが立っていると思ったら、
「やぁ、やぁ、やぁ。お待ちしてましたよ」
なぜか稲荷さんが、にこやかに私たちを出迎えた。格好はいつものキャンプ場のオーナーのラフな格好。
「え、どうやって、ここに」
「望月さん、私のこと、何だと思ってるんです?」
「あ、あー、そうですね」
軽トラで来るにしてもうちの前通ってないよね、とか、よくこの温泉の場所がわかったよね、とか単純に思ったんだけど、よく考えなくても、確かに、稲荷さんは神様の一人(?)だった。
しかし、普通のおじさんの稲荷さんと接することがほとんどだから、予想外なことが起これば、私だって驚く。
「……イナリが何用だ」
馬車を置いてすぐに人化したエイデンが現われた。
エイデンと稲荷さん。そんなに仲が悪いというわけではないと思うけど、エイデンのほうが若干不機嫌そうだ。
「おやおや、そう怒りなさんな」
ニィーっと、悪そうな笑みを浮かべる稲荷さん。
「望月さんから、温泉の話を聞いたもので。私だったら、もっと望月さん好みの温泉場が作れると思うんですよねぇ?」
「フンッ、ここは大地にも聞いたし、五月の要望も聞いている。今以上のモノになるわけないではないか。五月、『アシユ』を作ってみたんだ。あれでどうだ」
エイデンがワクワクした顔で、『足湯』のある場所を指さす。
平屋の切妻屋根の建物の入り口付近に、白っぽい石で作られた細長い花壇みたいなのができている。高さは膝くらい。縁は腰をかけられるくらいの厚さがあるだろうか。私とオババ、ネシアの3人なら並んで座れるかもしれない。
中をのぞいてみると、ギリギリまでお湯がはってある。
「おお、あの簡単な説明で、ここまでやってくれるなんて。凄いね、エイデン」
そう褒めてあげると、フフンッと自慢気に笑みを浮かべて、稲荷さんのほうに目を向ける。
「足湯もいいですねぇ。でも、一番は温泉の湯舟のほうでしょう? 空から見ましたが、あれじゃぁ、温かいプールみたいなものじゃないですか」
空から見るってことは、稲荷さんはどこからか飛んできたということか。(遠い目)
稲荷さんの『プール』という言葉に、ああ、そう言われてみれば、とちょっと思ってしまった。でも、単純に湯に浸かるだけなら十分ではあるのだ。
エイデンやヘンリックさんたちには『プール』が何かわからないらしく、ホワイトウルフたちの水浴び場に似たモノだと説明すれば、それが何が悪い、という顔になる。
悪くはない、悪くはないのだ。
「私でしたら、望月さん好みの『純和風』な温泉をお作りすることができます!」
胸をはってい言っている稲荷さんだけど、それ、稲荷さんの好みじゃない? とは言わない。『純和風』、正直、惹かれるモノがある。
「『ジュンワフウ』とはなんだ」
「フフフ、私に手を入れさせてくれれば、すぐにでもご用意しましょう」
「え、でも、せっかくエイデンやヘンリックさんたちが作ってくれたのに」
「いえいえ、こちらはこのまま。この敷地をすこーし、広げさせていただいて、新しい湯舟を作らせていただければ」
チラリと細い目をエイデンに向ける稲荷さん。
エイデンは渋い顔をしているけれど、『純和風』が気になるらしい。私の顔を見て、むぅ、と口を尖らせたかと思ったら、大きなため息をついた後、仕方ないという風にコクリと頷いた。
――私、期待した顔してたのかしら。
ちょっとだけ、苦笑いの私であった。





