蘖(ひこばえ) -Make up-
「おはよう、雪菜」
今年も残すところあとわずかとなったある日、開店前のロッカールームで声をかけられる。
「深月さん。おはようございまぁす」
鏡の前に座っていた雪菜は、リップを化粧ポーチにしまい込みながら、入ってきた先輩キャストを迎えた。
「今日も来てたの」
予想外、とでも言いたげな声色に首を傾げる。
「ふつーに出勤ですよ。年末年始は特に予定もないし、時給高いうちにできるだけ稼ぎたいんで」
「そう。じゃあお互い様ね」
ふふ、と店一番の美人ににこやかに返されて、ついこちらも笑みをつられてしまった。
「あら、ポーチ変えたの?」
隣りに座ってすぐに指摘される。さすがだなと思いながら手に取って掲げてみせた。
「クリスマス営業の時の戦利品ですよ。前に限定コフレが欲しいって言ったのを覚えてたみたいで」
「ああ、それで今日はメイクの雰囲気がいつもと違うのね」
「折角貰ったんだし、使わないともったいないじゃないですか」
似合ってるわと言いながら、深月もポーチからリップを取り出す。
「じゃあ今夜は来るのね、田崎くん」
そうして思いがけず口にされた名前に、雪菜は大層驚いた。
「は、えっ?」
「だってそれ、彼からのプレゼントなんでしょう?」
「アタシそんなこと言いましたっけ?!」
「あら、図星だった?」
すべてお見通しということか。にこにこと笑顔を絶やさず見つめてくる彼女に、雪菜は一生頭が上がらないことを改めて痛感した。
「折角おろしたんだから、気づいてくれるといいわね」
ダメ押しの一言を投げかけられ、いたまれなくなって「お先します!」と立ち上がり鏡の前を離れる。ロッカーにポーチを急いでしまうと、鍵をかけ、深月を振り返ることもなく部屋を出た。
ずんずんと勢いに任せて廊下を進みながら、熱を持った頬を押さえる。
冷静に、何食わぬ顔で、意を引き、あそぶ。
その本分を持ち出すことが、最近はなんとなく……。
「そんなわけないわよ」
ぺちぺちと軽く叩いて雑念を追い払い、顔を上げて。
「アタシは、プロなんだからね」
そうしてまた『雪菜』の仮面を静かにかぶせた。
***
動揺した様子の雪菜を送った深月は、ひとつ息をついてから鏡に向き直ると、手にしたリップの蓋を外してゆっくりと繰り出した。
目に映ったその色。諦めはしても決して忘れ得ぬ面影、最後に席を共にし、そうして『さよなら』を口にしたその時に身に着けていた色を、今もひとり唇に乗せている。
これまで幾度となくそれを繰り返し、そうして『深月』は形作られてきた。化粧に髪型、服装に振る舞い。追う先輩の姿にその真理を悟ったし、同じ道をたどる仲間を何人となく見てきた。
だから、今度も。
「染まっていくのね、あの子も」
静かに呟いて唇に引き、かすかな苦みを目元に映した。