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彼は世界を救わない  作者: ウメ種
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第一話 幸と不幸【前編】


 風間一哉は凡人だった。

 凡人ではないと思いたかったが、しかしどうやっても凡人でしかなかった。

 特別な能力も、特別な資格も無い。

 あったのは、少しだけ他人より優れた身体能力だけ。

 それだって、他の『英雄』達からしたら微々たるもの。

 身体を鍛え、経験を積めば追いつかれてしまう――たったそれくらいの差。

 風間一哉は凡人でしかなかった。

 だから、そうと気付いた時、その生き方が悪足掻きだと分かった時、彼の旅は終わった。


 地球から、異世界への召喚。

 始まりはただの事故だったから、地球に、元の生活に戻りたいという気持ちは薄かった。

 異世界での生活は、特別扱いは心地良くて、自分たちは特別なんだと思っていた。

そうしているうちに地球に帰りたいという気持ちが薄れ、召喚された五人の旅は始まった。

 世界を救う?

 昨日まで普通の人間だった五人で?

 最初は無理だと思った。

 どうして赤の他人、住む世界すら違う人のためにと、思った。

 けれど、男三人、女二人が異世界で生活するには国の庇護が必要で、支援してもらうためには戦うしかなかった。

 会話は出来ても文字は読めず、資金も無い。

 生きていくために世界を救う。

 困っている人を助けるためではなく、自分達がこの世界で生きていくために。

 生活を支援する代わりに世界を救ってくれてという言葉は、呪いだ。

 そうしなければならないと、思い知らされた。

 だから戦った。

 魔物と。

 人間とは違う。全く別の存在と。

 映画やアニメに出てくるような怪物と。

 ――それでも。

 ああ、それでも。

 ……死ぬかもしれないと何度も思ったけど。

 あの日々は楽しかったと、思い出す。

 今も生きるために世界を救おうとしている四人はどうしているだろう。

 時々夢に見る。

 夢に見て、けれど目が覚めたら忘れている。

 内心では心配しても、記憶に残らない。

 思い出せばまた旅に出たいと思ってしまう。

 苦しくても、辛くても、自分がどれほど特別ではなくても――必要としてくれる人が居て、仲間が居て、その為に戦うというのは楽しかった。

 だから。

 風間一哉は凡人でしかなかった。

 今はその事に、少しだけ救われている。



――実力不相応の希望を背負わずに済むからだ。



 売春宿『青い猫の夢』の一階、夜は受付けになるカウンター席で、火の点いていないパイプ煙草を咥えたまま新聞を両手で開く。

 そこには懐かしい仲間たちの活躍が書かれていて、残り四人、全員が元気で過ごしている事が分かった。

 少し気が楽になる。

 アイツらも、まだちゃんと生きているんだな、と。


「いやはや、元気な事だね」


 新聞を綴じると、ナイフとフォークを器用に使って朝食として出された昨晩の残りである鶏の照り焼きを切り分ける。

サイドメニューとして出された野菜の千切りと一緒に口の中へ。

 一晩経った肉は少し硬かったが、温めなおしてくれているので二日酔いの胃に優しい。

 どうやら少し湯通ししてあるようだった。油臭さが薄まっていて、すんなりと喉を通っていく。

 心優しい一手間だ。

 少しだけ薄味なのが気になったが、それだって二日酔いのおっさんを気遣ってくれての事だと思えば文句のつけようがない。

 表面はタレと一緒にからっと焼かれ、中は油の飛んだ柔らかい身。

本来なら油が飛んでパサパサしているはずの鶏肉も、表面のタレと混ぜて食べれば硬い皮の触感を引き立たせる役目となっている。

 昨晩の残り物だが、高級料理屋でも通用するのではと思えるくらい美味しい照り焼きだ。

 うん。これは食が進む。




 ナ

 一

 あ

 心

 た

 表

 昨

 う

 二口、三口。最初はムカムカしていた胃も、今は喜んでその鶏肉を取り込んでいく。


「うん、美味い。また腕を上げたな」

「なに、一丁前に料理人みたいなことを言ってるんだか」


 そう呟いた俺を注意したのは、この宿の女将だ。

 紫がかった暗い髪を纏めてシニヨンにし、元々美しい顔は化粧で彩られている。唇には濃い紅が引かれ、白い肌との対比が目を惹く。

 目元の泣き黒子(ほくろ)がなんとも色っぽい――というのは、この宿を常連にしている連中の言葉だ。

 まあ、確かに色っぽい。

 年は三十を過ぎているはずだが、そうと感じさせない若々しさがある。

 ただ俺としては、もう少し気弱というか、陰のある女性の方が好みかなあ、と。

 そう思っていると、鋭いというよりも冷たい視線で見られてしまった。弱気な俺としては身を縮めるしかない。

 これ以上の小言が飛んでこないよう、いつものように身を縮めて用意してもらった朝食に取り掛かる。


「それで、この後はどうするんだい?」

「俺なんかの相手をしていないで、お客さん達にお酌でもしてきたら?」

「残念ながら、昼間から酒は出していないんだよ。ウチは」

「そうでした」


 時間は昼間。ちょうど昼時。

 俺が贔屓にしている売春宿はその顔を潜め、昼間の店は料理屋として客を受け入れている。

 女将さんが言うには、売春宿してだけでは食べていけないから、という事。

 売春という行為が国に認められているこの世界だが、いくつかの制限がある。

 一つは、金の無い客に借金をさせてまで利用させない事。

 一つは、成人扱いとならない十六歳以下の子供には利用させない事。これは客と娼婦、どちらも差す。

 一つは、売春宿を経営するのは陽が落ちてから。日中は利用禁止。

 などなど。

 特に三つめは、売春宿をメインにして稼ごうとする連中には困った制約だった。

 夜にしか稼げない宿だけでは多くの娼婦を養う事など不可能――ああ、いや。かなりの上客を複数人囲む事が出来れば不可能でもないだろうが、これは街の中央地区にある高級娼館クラスの後ろ盾と職員を揃えなければならず、“ハズレ地区”にあるこの店では実質的に無理がある。

 そういう売春宿は、夜は売春宿、日中は別の店として稼ぐようにしていた。

 そしてこの店は、この時間帯は料理屋として機能し、むしろ夜の時間帯よりも客の入りが良い。

 何故かって?

 理由は簡単だ。

 夜は美しい衣装(ドレス)に身を包んで男を誘う(娼婦)が、今は可愛らしくも色気のあるエプロンドレスに身を包んで笑顔を振りまいているのだ。

 俺が住んでいた世界――地球の言葉で言うなら、所謂『メイド喫茶』である。

 特にこの店は雇っている女の子たちは可愛らしい女の子が多く、平均年齢が低く、活気がある。

 男っていうのは現金な物で、それが商売用の笑顔だと分かっていても、若い女の子が自分に笑顔を向けてくれると思うと財布の紐が緩くなってしまうのだ。

 悲しいかな、こればっかりはどれだけ斜に構えた男でも、心に隙を作ってしまう。

 俺のように。


「あの元気を分けて欲しいね……俺もあと十歳くらい若かったらなあ」

「阿呆。いい歳して定職についていない男が、なにを言ってるんだか」

「……耳に痛いね」


 残っていた料理を平らげ、水を飲みながら小声で呟く。

 朝昼夕と(まかな)い物を分けてもらい、やる事と言えば薪割りや調理場や風呂場の掃除程度。

 たしかに、定職というよりもこの店で雑用をして食事を分けてもらっている間男――という風に見えなくもない。

 ただ、生きていくだけならそれで十分だったし、時々小遣いも貰っているから酒を飲みに出ることも出来る。

 日々が充実して娯楽も味わえる。

 最高の環境だと俺は思うのだが――まあ、普通の人からするとちゃんと定職に就け、と言いたくもなるのか。


「まあ、あれだ。あれ」

「どれ?」

「俺はほら、この店の雑用を一手に引き受け、こうやって昼間は用心棒のように目を光らせているからな」

「誰が用心棒だい。穀潰しが」

「……ひどい」


 そこまで言わなくても、と肩を落としていると空になっていた木のコップに水が注ぎ足される。

 視線を向けると、まだ顔に少しだけ痣が残っている女の子だ。

 目が合うと笑顔を向けてくれる。

 明るい場所で見ると、その表情にはまだ幼さが残る、若い女の子だとよく分かる。年の頃は十代半ば――もう少し上かもしれない。

 童顔にしては身長は高め。腰近くまで伸びる長い髪は白色。肌の白さもあって、まるで妖精のようだ……というのは気障すぎる考えか。

顔の痕を隠す為なのか前髪が垂れて表情の半分を隠してしまっているが、それがまた不思議な印象を与えて記憶に強く残る。

 空のように青い瞳も相まって、どこか人形のように儚い印象を与えていた。

 今は料理屋の制服である紺のエプロンドレス姿で、まるでお金持ちのお屋敷に勤めるメイドさんのよう。

 他の女の子たちもこの少女に負けておらず、皆が皆、自分の美貌を際立たせる化粧を施し、エプロンドレスで着飾って、客にアピールしている。

 店内の客の殆どは男だ。

 それは、夜に開かれる売春宿の前哨戦。

 ここで男達の気を惹いて、指名を貰って稼ぎとする。指名を貰った稼ぎの一部が自分達の懐に入るのだから、彼女達にとってはこの日中でさえも稼ぎ時だ。


「俺なんかの相手をしていていいのかい?」

「この顔だと、まだお客様をお受けすることは出来ないですから」


 女将さんを見ると、同意するように肩を竦める。

 売春宿は女の子の一晩を金で買う場所だ。金を払ってくれる客に傷ありの女の子を出すというのは、たとえお互いが認めていても、やはり店としては認められないのだろう。

 だから。


「なら、今晩も俺に付き合ってもらっていいかな?」

「物好きね」

「女の子に優しいと言ってほしいね」


 女将の横槍にそう返すと、金髪の女の子は満面の笑みを浮かべた。

 これが客に向ける笑顔なのだとしたら、この子は将来とんでもない“男たらし”だろう。

 三十を過ぎたおっさんである俺でもドキリとする笑みに笑顔を返し、女将さんを見る。


「どーぞ。こっちとしては、一人分の代金が懐に入ってくるんだ。願ったり叶ったりだね」

「もう少し感謝の言葉は出ないもんかね。可愛げのない女だこと」

「貧乏人に可愛げを振りまいてもねえ」

「そりゃそうだ」


 一文にもならない事に時間を割かないというのは、商売人の鉄則だろう。

 女将さんの言葉に苦笑して残っていた水を飲もうとしたところで、少し離れた場所から大きな声が上がった。

 悲鳴だ。


「テメェ、こら! 今なんつった!!」

「ああ!?」


 見ると、顔を赤くした男二人が立ち上がり、互いに罵り合っている。

 顔が赤いのは酒を飲んだからだろうか?


「この店じゃ、昼間からは酒を出さないんじゃなかったのか?」

「あー、もう。誰だい、お客様に酒を飲ませたのは!?」


 女将さんが声を張り上げる。

 男二人が座っていたテーブルの上に置かれているのは、度数の高いウイスキーのボトル。

 カウンターの奥を見るが、並んでいるのは少し値の張るワインが主で、ウイスキーの類はない。

 持ち込みだ。

 この店では酒の持ち込みは禁止――しかも日中ともなれば、飲酒自体が街の規則で禁止されている。

 飲酒が許されるのは時間帯で割高になる酒場か、強い後ろ盾のある高級娼館。

 そこで飲めないから、隠れて飲もうとしたのか。

 それとも。


「きゃあ!?」


 そう考えていると、また悲鳴が上がった。

 見ると、男の一人が刃物を出している。

 顔は更に赤くなり、刃物を持っていない男の挑発はエスカレートしていく。刃物が見えていないのか、それとも刺す度胸は無いと腹を括っているのか。


「ちょっと、お客様?」


 絶対に俺相手では使わないような丁寧な言葉。ゆっくりとした口調で落ち着かせようと、女将さんが刺激しないように一定の距離まで近付こうとする。

 それを、手首を掴んで止めた。


「行かなくていいよ。ありゃあ、酒に酔ってない」


 水をあおり、空になったコップを金髪の女の子に向ける。

 ……混乱しているのか、注ぎ足してもらえなかった。残念。


「ふぅん」


 テーブルに肘をついて観察。

 でも、だったらどうして酒に酔ったフリをしているのだろうか。

 殺人を起こしてしまうほど現状を見失っているわけではないのは目を見れば分かる。

 離れた位置だが、それでも刃物を持っている男の視線はしっかりと前を見ているのが分かる。刃を向ける相手をちゃんと見据えているというのも。

 その目が震えている。

 あれは、怯えているのだ。人に刃を向けたことに。

 顔が赤い酒精ではなく、緊張からだ。手の震えも同様。

 赤いのは顔だけで、酒に酔っていたら――個人差にもよるだろうが、首まで真っ赤になるはず。

 けれど、男の首は白。

 あれは、緊張からの酸欠で赤くなった様子。

 それに挑発程度で自分を見失うほど酒に酔っているなら、刃を抜いた時点で切り掛かっているはずだ。

 男達が座っていたテーブル位置は対面。

 どうしてウイスキーのボトルが乗ったテーブルを押し倒して襲い掛かっていないのか。刃物を抜いたのに、抜いた本人が怯えているのか。

 その理由が分からない。

 だから女将さんを押し留め、刃物にびっくりしている女の子たちは男を遠巻きに眺める程度。

 こっちが動かないから、彼女達も動けないようだった。


「ちょっと、自称用心棒さん?」

「……俺?」

「さっき、自分でそう言っていたじゃないか」


 ああ、そうだった。

 考える事に夢中で、忘れていた。


「あれ、止めてきてよ」

「そうしたいのは山々なんだが」

「なにさ?」

「うーん。いきなりの事にびっくりして、腰が抜けてるっぽい」

「役に立たないねえ、この極潰しはっ」


 自称用心棒とすら言ってもらえなかった。まあ、当然か。

 ただ、このままだと女将さんが止めに入ってしまいそうだったのだ、掴んだ手首の力は緩めない。

 解せないなあ、と。


「そこまでだ!」


 どうしたもんかと思案していると、凛とした声が室内に響いた。

 この場にいた全員の顔がそちらに向く。

 声がしたのは店の入り口。そこには、スイングドアに肘を乗せた体勢で、一人の男が立っていた。

 見物人の一人かと思ったが、違うようだ。

 逆光で顔は良く見えない――。


「まったく。昼間から酒を飲んで暴れるだなんて、店の人に迷惑じゃないかっ」

「なっ、何だとこの野郎!」


 今度は躊躇いなく、刃物を持った男が声の主に飛び掛かった。

 やはり足取りはしっかりしている。酔ってはいない。

 そして、振った刃物の勢いも鋭い――が、乱入してきた男の動きはそれ以上。

 刃物の軌跡を目で追って紙一重で避け、一瞬で組み付く。

 右腕の関節を極めて刃物を落とし、そのまま後ろ手に拘束。膝の裏を蹴って床に(ひざまず)かせる。

 その間、数秒。鮮やかな手口だ。

 周囲から歓声が上がる。

 こりゃ凄い。

 あっという間だ。

 この場に居た全員の心を鷲摑みにしやがった。

 女の子たちは黄色い悲鳴を上げて、男達は拍手喝采。

 乱入してきた男はその歓声に応えるように一礼――している間に、刃物を取り落とした男が店から逃走。

 入り口に集まっていた見物人たちに向かって拾った刃物を振り回し、道を作って逃げだした。


「あらら」

「ツメが甘いなあ」

「なにも働いていない貴方が言うようなことかしら?」

「やだ。声が怖い」


 顔を見るのも怖かったので、掴んでいた手を離す。すると直後に、女将さんから軽くだが、叩かれた。

 まあ、当然か。俺、何もしていないし。


「いや、皆さんにお怪我が無くてよかった」

「ありがとうございます。お陰で助かりました」

「いえいえ。僕は当然の事をしたまでです」

「ぼく、ねえ」


 その一人称に難癖をつけようとしたところで、さっきよりも気持ち強めに頭を叩かれた。

 これには動揺して固まっていた白髪の少女も苦笑い。

 動かなかった俺には誰も目をくれず、店内の女の子たちの視線も乱入してきた男に注がれていた。

 確かに、顔も悪くない。

 肩まで伸ばした茶色のロン毛に、高い身長。身なりも良いし、そこそこの坊ちゃんなのだろう。

 先ほどの動きを見れば腕もそれなりに立つようだし、足も長い。

 こりゃあ、女の子たちの見る目が変わるのも頷ける。うん。


「何かお礼を――お昼はもうお済みで?」

「いいえ。ちょうど食べる場所を探していた所で……」

「でしたら是非ここで。お礼と言ってはあれですが、お代は結構ですから」

「そうですか? なんだか、申し訳ありません」


 あれよあれよという間にカウンター席に座っていた俺は追いやられ、そこに優男が座る。

 相手をするのは店で一番人気の娼婦、アスタリア。

 赤みがかった髪を一纏めにして肩から垂らす、柔和な笑みを浮かべる女性だ。

 年の頃は二十を少し過ぎたところ。女としての盛り。少女の清純さと女の色香が同居する、男なら誰でも一夜を共にしたいと思うであろう美女。

 ちなみに、胸も大きい。来ているメイド服は少し改良され、その最大の武器をより強調するようになっている。

 アレに挟まれたら気持ち良いだろうなあ、と思ってここの売春宿に通う客は数知れず、である。

 そんなアスタリア目当てで今日も来ていたお得意様のキナムスさん四十九歳には、別の女の子が対応していた。

 滅茶苦茶不満そうだ。

 分かる。分かるけど……もうすぐ五十歳なのだから、色街に来るのは控えた方が良いと思う。

 そのうち腹上死しないか心配だ。

 それはさておき。


「その、自分は今日この街に来たばかりなのですが」

「そうなのですか?」

「腕には少々自信がありまして、宜しければここで雇っていただけないでしょうか? 用心棒でも皿洗いでも、何でもしますから」

「まあ、それは助かるけれど……」


 昼食を食べ終えた男がそう切り出すと、女将さんも断りづらそうに俺を見る。

 今日来たばかり?

 だから顔に見覚えが無いのか。納得がいく。


「俺は居ない方が良いみたいだし、少し出てくるよ」

「ええ。また後でね」

「じゃねー、カズヤさん」

「……止めても貰えない俺って……トホホ」


 愛用のパイプ煙草だけを手に取ると、女将とアスタリアに見送られながら肩を落として店を出る。そんな俺を目で追ってくれたのは数人だけ。

 あとはみんな忙しそうに接客したり、料理を運んだり、昼間だっていうのに優男を接待したり。

 あの男、ここがどんな店か分かって自分を売り込んでいるのだろうか?

 本気で店で働きたいという風にも見えなかったけど――と思いながら大通りを歩く。

 空が高い。雲が速い。

 夜は雨だろうか……いい天気だが、そんな感じがした。

パイプ煙草を手の中で転がしながら歩く。

 夜とは全然違う、それなりに人通りの多い時間帯。

 馬車はひっきりなしに通り、手紙や荷物を運んだら次の店へ急いで移動。それに巻き込まれないよう注意しながら進み、しばらく歩き回って時間を潰してから路地裏へ。

 日差しの強い時間帯だが、まだ少し肌寒い季節。

 外套(コート)を持ってきたらよかったなと思ったが、今更店に戻るのもなんだかバツが悪い。我慢する事にして、細い路地を何度か曲がって目的の場所へ。

 大通りの中央位置。

 この町一番の高級娼館――から一見離れた建物の、裏側。

 綺麗で活気のある大通りとは真逆。酔っぱらいの吐しゃ物と生ゴミで汚れた、この街の裏の顔。

 そこに、裏の顔そのものだとも噂される人物が住んでいる。

 ちなみに、寝床は複数あるので運が悪いと街を端から端まで歩き回らないといけないので会うのは結構面倒なのだが、今回は一発で当たりを引けた。


「今日町に来たっていう新入りの情報は?」

「会っていきなりソレかね」


 声がしたのは暗がりの奥。路地裏の行き止まりの、片隅。

 おおよそ人間など居ないと思う場所からの声だったが、驚きはない。気配はちゃんとそこにあるし、息遣いも聞こえる。

 ただ、それが隠れている状況ではなく、この『情報屋』からすると日常の状態というのが問題なのだが――まあ、その程度の事はあまり気にしない。

 暗闇の奥から伸びてきたように錯覚しそうになりながら、差し出された白い手にポケットから取り出した金貨を五枚乗せる。

 ちなみに、金貨一枚で焼きたてのパンが約十個。朝食兼昼食として食べた料理の値段なら四食くらい食べられる。

 娼婦の一晩なら、安くて金貨二枚。高級娼婦になると金貨百枚が数時間で飛ぶ。

 その金貨を五枚。

 すると『情報屋』はキヒヒ、と低い声で笑った。

 男とも女とも判別し辛い、枯れた声。

 年経た老人なのか、それともこんな場所で生活しているから喉を潰したのか。

 ただ、金貨を受け取った腕は白く、細い。

 ……痩せた男なのか、女の細腕なのか。それも分からない。

 頭上を見上げる。

 路地裏は入り組んでいて、この『情報屋』が寝床にしている場所は特に太陽の光が届き辛い。

 夜中に来ようものなら、俺でも上下左右の感覚を失ってしまいそうな真っ暗闇。

 そんな場所では、やはりこの人物が何者なのか分からない。

 ただ、便利だから使っている。

 そして向こうも時々、俺を利用している。そんな関係。


「調べておくよ」

「そうか。じゃあ、また明日」


 急な事で。

 そう残して『情報屋』の気配は消えた。

 ……ほんと、何者なんだろう。あの存在を知って三年になるけど、少しも真相に辿りつけた事はない。

 なんとなく、『情報屋』が居た場所を足で蹴ってみる。いや、手で触ると汚いし。

 やはりというか、そこに人が居た痕跡はない。

 なんというか、石造りの壁と床に囲まれているのに体温が残っていないのだ。

 オバケとでも話した気分になる。

 火の点いていないパイプ煙草を咥え、その場を後にする。



「えー……」

「えー、じゃない。少しは働きなさい、穀潰し」

「……それ、定着するの? ヤだな」

「いやだったら働きなさい。まったく」


 宿に戻ると、昼間の優男と一緒に働くことになっていた。

 所謂、後輩というヤツである。


「よろしくお願いしますね、先輩」

「あー、うん」


 俺が居ない間に何があったのか。女の子たちはこの男にお熱だし。

 仕事に支障が出ないと良いけど、と思っていたけどその辺りはプロである。

 ご指名を貰った相手には最上のお持て成しを。一晩の夢と、甘い蜜を。

 そしてまた、男達は明日も蝶のために働き、蝶は男達を魅了するために自分を磨く。

 それがここ。

 売春宿『青い猫の夢』。

 男の従業員がやることは客を娼婦が待つ部屋へ案内し、荷物を預かり、問題が起きた場合は誠心誠意謝罪して対処する。

 ここの主役は女性たちだ。

 特別な事情を持つ異世界人でも、顔の良い優男でもない。

 それでいい。

 そこが気に入っているのだから。


「…………」

「……いや、仕事で」


 ただ、今晩一緒に居ると約束した白髪の少女を拗ねさせてしまったけど。

 しょうがないじゃないか。

 女将さんから仕事を教えるように言われたのだから。

 女は一晩で男を幸せにできる。

 男が女を幸せにするには、何度も頭を下げて、必死に頭を捻って、結局はずっと一緒に居てやることしか思い浮かばない。

笑顔一つを見るために一晩が必要で、こんなにも苦労する。

 なんとも不平等だが――それがいい。



以前投稿していたものを加筆、修正した物です。

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[一言] 「いやはや、元気な事だね」 からの下りが2重になっています。 全く同じでは無いので修正しての消し忘れでしょうか? 確認をお願い致します。
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