覚えの井戸
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
あっれ〜、何をしに台所まで降りてきたんだっけ?
こーちゃん。悪いんだけど、私が台所に入ってきた時の動き、再現してくれない? ほら、冷蔵庫を開けて牛乳取り出した、あれよあれ。同じことしていたら、思い出さないかな〜と思って。
……う〜ん、ダメか。こうやって、ひょいと忘れちゃうんだったら、たいした用事じゃないと思いたいんだけど。どうにかよみがえらせないとね。
こーちゃんは、ど忘れに悩まされたりしていない? 私、ここのところ、しょっちゅうなの。歳のせいじゃないか、という人もいるけれど、私はそうとばかりは思っていないわ。
パソコンも新しいからって、故障と無縁なわけじゃない。何か引き出そうとする動作の途中で、フリーズしてしまうこともあるでしょ。それをどうにかして引っ張り出せないか手を尽くし、あがくというのも大切かもしれないと、私は思うの。
でも、どうしても思い出せないままでいる時、私はふと考えてしまう昔話があるの。こーちゃんも良かったら聞いてみない?
むかしむかしのこと。山間の小さな村で、その事件は起こったわ。ある家の女の子が朝に目を覚ましたところ、母親に対して「おばさん、誰?」と告げたの。
はじめはその子がふざけていると思った母親。父親を含めた、他人の名前はしっかり出てくるのに、自分に対してだけは、あたかも初めて顔を合わせたかのような接し方。
当初、母親は娘が反抗期に入ったものだと思ったらしいの。何かと自分自身を気にかけるようになり、介入してくる存在を邪魔くさく感じる。その片鱗だと。
いささか辛いものがあったけれど、自分にも経験があったこと。幼稚な背伸びだと、大目に見てあげて、放っておけばそのうちやめるはず。そう考えて、娘の「ごっこ遊び」に乗ってやっているつもりだったの。
ところが、数日後。今度は父親の顔を忘れているような言動を取り始めた娘。昨日までは、はっきり覚えていたはずなのに、その日の朝になって突然のことだった。
これまでは母親と一緒に笑って付き合っていた父親が、目の色を変えて、こんこんと娘を諭す。いくら不満に思っても、とっていい態度と悪い態度があることを延々と説明したけれど、娘は矯正する様子を見せない。
ついに父親はかちんと来て、席を立ったわ。「あくまで娘でないというのなら、これ以上つきあってやる筋合いはない。わざとやっているのならば、自分の愚かしさを知るがいい」と告げて。それから父親は娘とは口も聞かず、顔も合わさず、まるでいないかのごとく振る舞うようになったらしいわ。怒っているのも確かでしょうけど、娘の方から頭を下げてくれることを、どこかで期待したかったんだと思う。
でも、娘の物忘れはどんどん悪化していき、普段から付き合いのある友達たちにさえも、初対面であるかのような態度をとるように。見境なく喧嘩を売るような真似は、友達と遊び回っていた彼女からは、とうてい考えられないようなことだった。
悪ふざけではなく、本当に彼女は記憶を失っているのでは?
そう思い、母親は娘の身体を一度、詳しく調べてみることにしたの。眠っている間にこっそりとね。結果、彼女の髪に隠された頭皮の一部だけ、皮と一緒に肉がめくり上がっている箇所があったのよ。
自然にできたものとは思えなかった。母親の薬指の先ですっかり覆ってしまえそうな、小さなものでありながら、真四角にはがれていた。そこからにじみ、垂れ落ちていくのは血ではなくて、汗にも似た透明な液体。めくられた皮膚の内側自体も、赤よりも白みがかったいるように思えたとか。
母親はこのことを、こっそり村長に相談した。話を聞いた村長はすぐに動き、娘が記憶をなくしてしまう前日、一緒に遊んでいた子供たちを捕まえて、どこで遊んだかを尋ねたそうなの。
ほとんどの子が忘れてしまったと答える中、ひとりの女の子が具体的に教えてくれたわ。
その日は、近くの山のふもと。生い茂った森の中でかくれんぼをしていたらしいの。教えてくれた子は、その日の最後の鬼役。最後まで件の娘が見つからず探し続けていたから、強く印象に残っているとか。
小さな足音、下生えのかすかな揺れさえも見逃すまいと、すでに捕まえたみんなと協力して、奥へ奥へと向かっていく。その足はやがて、自分たちが踏み込んだことのない場所まで進むことに。
やがて周囲の石たちと同化するように、蔦を何本も巻きついた古井戸を、彼女は見つけたの。近くには落ち葉を踏みにじった跡が散見し、誰かがここに来たことは間違いなかった。
そっと井戸へ近づき、その影に潜んでいた娘を見つめる鬼の子。直接身体に触れなくても、鬼に目視されて見つかった旨を告げられれば、それで捕まったことになる取り決め。近くまで寄られてから逃げ出しても、意味がなかった。
けれど彼女が身を起こした時、そっと手をかけた井戸の縁が、ぼろりと崩れてしまったの。井戸を形作っていた石の一部は、井戸そのものの底目がけて落ちていき、長い時間を置いて小さく水音がし、それっきり。
村では別の井戸を使っていることを、二人は知っている。誰も使わないならと、このことは今日まで、誰にも話していないらしかったわ。
ひとしきり話を聞いた村長は彼女を帰し、再び母親と二人きりになったところで、話を切り出す。もしかしたら娘は、「覚えの井戸」を壊してしまったのかもしれない、と。
覚えの井戸。それは人々の記憶が集まっている地点なのだという話。あくまで井戸はひとつの形態であり、時と場所が違えば、そこにふさわしい姿に形を変えてたたずみ続ける。
言い伝えによれば、私たちの頭の中でとっておける記憶には限りがあり、入りきらない場合は古いものから順番に、記憶の井戸の中へ蓄えられていく。そして、人それぞれの呼びかけに応じて引き出されるのだとか。そのやりとりは管などの現物を伴ったものではなく、本人の意識を持って、瞬時に行われる。
だが使わない期間が長かったり、意識そのものが引き出そうとする力を持たなかったりすれば、両者をつなぐ通路はさび付き、狭まっていく。やがて、容易に行き来ができなくなり、ふとした拍子でぷつりと切れ、私たちはそれを「ど忘れ」というの。
「今回の一件、そなたの娘の所業が、記憶そのものへ影響を与えたのかもしれん。急ぎ動かねばいかんぞ」
すでに娘は、友人達から距離を取られるようになり出した。それを嫌がる様子も見せず、心底不思議そうな顔をするから、ますます敬遠される。元に戻った時、もしも誰にも構ってもらえない状態に陥っていたら……。
村長はすぐに男手と長くて丈夫な綱を用意すると、あの少女が話した井戸の下へと向かう。そこに集まった誰もが、少女よりもずっと長い時間を生き、何度も山の中へ入った経験を持っていた。なのに歩を進めていくと、全員が初めて目にする森の景色が広がっていく。これまで、歩き尽くしたように思っていながら、無意識のうちに避けていたとしか思えない。
ほどなく、話に聞いていた蔦がたくさんまかれた古井戸が姿を現わす。確認してみると、確かに縁の石の一部が、人の頭一つ分ほど不自然にえぐられていた。ならば、石が井戸の中へ落ち込んだというのも、おそらくは事実。拾い上げて何事もなかったような状態にしておかねばいけない。
娘の社会的な命が懸かっているのなら、もたもたしてはいられない。命綱の用意ができると、母親は自分こそが石を拾い上げようと、役に志願する。しかし、村長はそれを頑なに拒む。
「聞いた限り、井戸はかなりの深さまであるとのことだ。何かの拍子に事故が起これば、ただでは済まぬ。そんな目にそなたが遭ってみよ。記憶が戻った時、娘はひどく苦しむことになるぞ。
わしが行く。老い先短いわしならば、問題はあるまい」
母親の反論も聞かず、綱を身体に巻き付けた村長は、井戸へ入っていく。持ってきた大量の綱は、次々に穴へと落ち込んでいき、村の一角を囲えるくらいの長さでようやく止まった。
耳を澄ませると水音が聞こえてくる。絶え間なく響いていたそれは、ややあってぴたりと収まり、引き上げるように頼む声が聞こえてきたの。そこにいた者は総出で綱を引き上げる。
村長の体重を、明らかに上回る手応え。井戸の縁でこすれがちになる綱をいたわりながらようやく引き上げた時、村長は体中をびしょ濡れにして、石を抱えるようにして身体を丸めていたそうよ。
何度もくしゃみをし、寒気が止まらない村長。彼を連れて村へ帰る組と、石を固定する組に分かれて行動に移ったわ。およそ半日ほどして、石を元通りに直したことが村へ伝えられる。家で待機していた母親は、それを聞いて昼寝していた娘を起こしたところ、およそ半月ぶりに母親だと認識されて、安堵のため息をもらしたとか。
でも、村長は井戸から帰ってきて、ずっと寝たきりになってしまう。10日ほど続いた熱にうなされ、ようやく意識を取り戻した時、村長は自分の家族を含めた村人全員の顔をすっかり忘れてしまっていたみたい。
いくら思い出してもらおうとしても、症状は悪化するばかり。ついには身体を起こすことも、飲み下す動作さえ忘れてできなくなってしまい、ほどなく息を引き取ってしまったわ。
引き継ぎがすでになされていたことから、村長は自分がこうなることを予期していたんでしょう。だからあの時、井戸へ自分を入れさせまいとした。娘の母親は涙しながら深く感謝し、墓参りを欠かさなかったとか。