第7話 距離〈キョリ〉
持田のうしろ姿は次第に小さくなっていく。それをただただ見ているだけで時間が過ぎていった。
……。背丈も普通。歩き方も普通。ここまで普通の女子高生具合を見せつけられると、逆に普通じゃない部分を見つけたくなってしまう。
…………。50メートル走のときってこれぐらいの距離だったっけ。
………………。あ、躓いた。
持田が遠ざかっていくのをぼーっと眺めていると、高音が頭の中に響いた。
『んー。今日の晩ご飯、なんだろう……アクアパッツァが食べたいなぁ』
おいおい、なんかお洒落な名前が飛び出してんだけど。アクアパッツァ? なにそれ、ドミノ・ピッツァの仲間か?
『あ、現象、始まったね』
その声が響いてきたのと同時に、遠く離れている持田が全身をこちらに向けた。
『よっし。そっちに戻りまーす』
すごく能天気な声だ。なんとなく今の状況を楽しんでいるかのように聞こえる。
持田はこちらに向かって歩きながら、心の声を伝えてきた。
『結構、距離あるねぇ』
たしかに、持田の推測が正しいかどうか検証するには、もう少し近づく必要があるだろう。
『あ、小さな女の子がこっち見てるー』
え? 小さな女の子?
幼女!? どこ!?
俺は周囲をくまなく見渡した。右側、異常なし。左側、川以外なし。前方、女子高生以外なし。
後ろを確認しようと振り向いた、そのときだった。
ぽかーんっとした表情で俺の顔をまじまじと見つめる少女の姿を視界にとらえた。
……っくぁ、かっっわEEEEEEEEEEEEE。
俺の腰あたりまでしかない身長、手に抱えているクマのぬいぐるみ……このミニチュア感こそが幼女の最強たる所以だろう。
運に見放され、世の中は地獄だと思っていたけれど、このひと時はまさに天国。幼女……至高かよっ。
『松前くん、わたしのこと忘れてない?』
っと、落ち着け落ち着け。我ながら気が動転してしまった。
聞き馴染のある声によって天国から地獄へと再び呼び戻された俺は、持田のほうに向き直った。
えっとー、ア、アクアピッツァだっけ? ウマソー。
『アクアパッツァね、覚える気もない感じだぁ。白身魚とか貝をオリーブオイルやトマトで煮込むイタリア料理なんだけど、お母さんの作るやつが結構美味しくてさー』
なるほど、イタリア料理ね。……ドミノ・ピッツァって若干かすってない? かすってないか。
『アクアパッツァ、食べたことないんだよね? 家はさすがにあれだから……今度どこか食べに行く?』
いや、行かねえよ。なに、そのさらっと誘う感じ。家とか家じゃないとか、問題はそこじゃねえだろ。
『え? だって——』
……。
ん? あれ?
だって……ってその先は?
それまで淡々と続いていた持田の声が、何の前触れもなく急に途切れた。持田が言っていた『電話がプツンと切れた』という表現は、かなり的を射ているように思う。
不自然に現象が止んだことは持田も認識しているようだ。歩み寄るような動きをピタッと止め、彼女は声を張り上げた。
「あ、松前くーん! これだよ、これー! 分かったー?」
下腹あたりに力を込めて、俺も叫んだ。
「す、すげえ、本当に途切れたなー」
辺り一帯には女子高校生と男子高校生の声が交互に響く。
ここから持田までの距離は、テニスコートの横幅……10メートルぐらいだろうか。
持田の推測が正しいということは証明され、一瞬感心した。けれど、叫んだ直後の静寂によって俺はすぐさま正気を取り戻し、恥ずかしさがふつふつと湧いてくる。
俺は右手を軽く挙げ、持田に向かって手招くようなジェスチャーをした。持田はこの動作の意味を正確に受け取ったようだ。ゆっくりと歩を進め始める。
目の前まで帰ってきた持田は、相変わらずのノーマルテンションで呟いた。
「他の人から見たら、わたしたちってめちゃくちゃ変だったよね」
「ああ、間違いないな」
他人の目には俺たちの姿なんてただの高校生としか映らないだろう。俺たちが異常な状況に陥っているということも、彼ら彼女らが知ることはない。『理不尽な怪奇現象』を俺たちは認識している。けれど俺たち以外の人間は認識していない。この違いが俺たちの行動の異色さをより引き立たせるだろう。
「はやく解決しないとな」
ボソッと呟いた俺の一言に対して、持田が答える。
「まぁ、そうだね……でもさ」
真っすぐに俺を見ていた持田の目が一瞬泳いだ。頭の中で言葉が彷徨っているような、そんな雰囲気が感じられる。
自分が停止させた時間を自分の手で再生するように、持田は続きの言葉を発した。
「この現象が起きるのは、それはそれで面白いのかなって思っちゃった。松前くんの考えていることって、なんだか……飽きないんだよね」
「なんだそれ」
全く要領を得ない発言が飛んできて困惑した。俺が持田のツボにはまっているということだろうか。……電動マッサージチェアかよ、俺。やだっ、なんかエロい。
溢れ出る自意識過剰っぷりを抑えつけて、俺は言った。
「それなら、さっきまでやってた実験は無駄だったんじゃないのか?」
「それは大丈夫だよ。この現象を止められるならそれに越したことはないから」
お、おう。結局、どっちでもいいみたいな感じか。
世の摂理では到底説明できない、不可思議な現象。そんな混沌の中に放り込まれても、今のところなんとかなっているのは持田のおかげだろう。
異常な状況だからこそ、持田の適当さ加減がプラスに働いている気がする。
けれど、その適当さに甘えて、すがって、期待して、持田なら俺の考えをすべて受け流してくれるなんて思うのは止そう。人が発する言葉はフィルタに通されるからこそコミュニケーションの媒体として役立つ。そのフィルタが存在しない、かつ自分の意思に反して言葉が伝わってしまう以上、いつ槍の投げ合いが起きるかもわからないのだから。
俺の思考回路は共有されていいものではない。
そんなことをぼんやりと思い浮かべて空を見ると、いつの間にか太陽は完全に沈んでいた。