第五十五戦「緑の瞳のハインリカ」
チグサさんが道を進む。
狭苦しい道には人が溢れ、チグサさんは人波に押し合い圧し合いされながら、溺れるように前へと流れる。
その後ろを続く僕も同様で、まるで川の流れに逆らえない漂流物だ。
子供のような体格のチグサさんと、まるっきり子供の僕。
そんな二人で来るような場所ではなかった。
向かいから来た人に押され、壁に叩き付けられるチグサさん。
「あう」
かと思えば、続々と押し寄せる背後からの人波に揉まれ、何度も通行人とぶつかる。
「うう」
転べば踏み殺されそうなくらい容赦がない。
チグサさんと僕はやっとの思いで、小脇の隘路に逃げ込むことができた。
この隘路は道というより、建物と建物の隙間みたいだ。
「怪我はしていませんね?」
身繕いを整えながら、チグサさんは言った。
魔女帽はしわくちゃで、枯草色の服は裾の一部が破れてる。
そうとう苦しかったのだろう、顔が赤く染まっていた。
「これから何処に行くんです」
「魔力の同調には、精神的な安定が必要です。魔力の性質とは心の性質。情緒不安定では、相手の心を知るなど裸足で千里を歩くようなものですから」
チグサさんは隘路を進み出した。
「この先に、面白い女の子がいます。歳はアサツキ君と同じくらいで、ある店を開いています」
「店? 女の子?」
なんの想像も付かず、困惑気味になる。
チグサさんに付いて行くしかない。
隘路は一方通行だが、曲がり角が多い。
チグサさんは少々気怠そうな動きで、足を進ませる。
部屋に籠ってばかりいるようだから、体力が足りてないのかもしれない。
さっきの人混みが凄かったのは認めるが。
「そろそろですよ」
チグサさんが言った。
隘路を抜けると、四方を「島」の壁が塞ぐ、中庭のような場所へ出た。
四角くくりぬかれたような空間。
既視感を覚えた。
この場所は、ノギスの家の裏に似ている。
オルトウエの裏通りに入るための場所。
そしてやはりというか、一面の壁にだけ、窓があった。
「あそこから入るんですか?」
「ええ、その通りです。よくわかりましたね」
嫌な予感しかしない。
チグサさんが窓を叩く。
すると老人が窓から顔を出した。
チグサさんと老人は二言三言、言葉を交わした。
「行きましょう」
窓から建物の中に入り、ベッドの下にあった隠し通路を通る。
隠し通路は滑り台のようになっていて、抜け出るときに尻餅をついた。
そして抜け出た先は
「ここは、オルトウエの裏通りと言って、口外禁止の場所です」
チグサさんは真剣な表情で言った。
なんとも言えない、気まずい気持ちだ。
僕の無知を前提に話すチグサさん。
それに師匠の言い付けを破ってしまったこともある。
話題を変えたくなる。
なにかないかと話題を探し、そして思い当たった。
「僕を連れてきても良かったんですか?」
師匠が僕を連れてきたときには、ノギスと揉めていた。
「尋ねたところ、構わないとの返答でした」
ああ、つまり、僕は既に裏通りの一員となっている、ということか。
「いいですか、絶対にここのことを口外しては行けませんからね。家族にもですよ。裏通りには管理者というのがいて、情報を漏らした人間を暗殺してしまうのですから」
「そうなんですか?」
そんな話し聞いていない。
「本当ですよ。さあ、付いてきてください。先ほどお話しした店に行きましょう」
チグサさんが歩き出した。
その背中を追う。
直後、背後で大きめの物が落ちるような音がした。
それと一緒に、「痛っ」というどこか聞き覚えのある声も。
振り向く。
隠し通路の出口と、両脇の建物。
一本の柱の陰から、白い服の裾が覗いていた。
それがひゅっと引っ込んだ。
「どうかしましたか?」
立ち止まったチグサさんに訊かれた。僕は頭を振った。
「なんでもありません。早く行きましょう、早く。もっと急いで。なんなら走って」
「どうしたのですか急に」
チグサさんを急がせて、やがて辿り着いたのは、袋小路にある、一個の天幕だった。
「ここが例の店ですか?」
「そうです」
天幕は打ち捨てられた布切れを継ぎ合わせたような有様だ。
汚れも多い。
大きさも快適そうとは言えず、おそらく大人が三人も入れば狭苦しくて耐えられないのではないだろうか。
「入りましょう」
チグサさんは天幕の入り口を軽く叩いた。
そして入っていった。
ちょっと不安になりながら、僕も真似して天幕の中に入った。
「いらっしゃいませ」
天幕の中には、少女が座っていた。
先ず目についたのは瞳の色。
深緑だ。
「アサツキ君、座ってください」
「あ、はい」
チグサさんに促されて、その場に座る。
改めて少女を見た。
これといった特徴の思い浮かばない顔立ち。
強いて言うなら、どこか幸薄そうな雰囲気だ。
炎のようにうねる髪に、手入れのあとは一切ない。
そしてやはり気になるのが、その瞳。
強い日差しに照り返す葉のような、深い緑色。
不穏な煌きを帯びている。
似たような瞳を、前にも見た。
マンナの瞳だ。
マンナのあの鉛白色の瞳に、醸し出す空気が似ている。
とはいえ、マンナの瞳はもっと禍々しかった。
「は、はじめまして、ハインリカです」
少女はたどたどしく名乗ると、小さく会釈した。
「アサツキです……チグサさん、ここはなにをする場所なんですか?」
「一言では言い表し辛いのですが、己の心と向き合う場所、でしょう」
「はあ……」
「彼女には不思議な力があります。あの緑の瞳で見つめた人間の、心の奥底にあるものを幻視させるのです」
「幻視……魔導的なものなんですか?」
「おそらくは。詳しい原理はわかりません。最近、少しずつ調べさせてはもらっているのですが」
ちらりと、少女……ハリンリカを見遣る。
ハインリカはおどおどとした様子で、僕を見ていた。
「ところで、なんでこんな小さな子が、こんなところで店なんて」
「小さい子とは言いますが、アサツキ君と同じくらいですよ」
チグサさんは簡単に事情を説明してくれた。
ハインリカは生まれたときから緑の瞳を持っており、そしてその瞳の能力のために、家族から疎んじられた。
やがて家族に捨てられたハインリカは、各所を経て裏通りに辿り着いた。
そうして裏通りを取り仕切る男に奨められ、ここに天幕の居を構え、細々生活しているのだという。
「彼女の瞳を見たものは、心の奥底にある心象と闘い、勝利した末に、自分の理想の心を手にできます。オルトウエの裏通りは剣闘街なのです。相手を容赦なく打ちのめす心や、どんな相手にも組みかかっていける心が欲しいとき、彼女の能力が役に立つのです」
「大体わかりました。けど、なんで僕を連れてきたんです?」
「それはもちろん、アサツキ君の心になにかあると睨んだからです。奥様との間になにがあるかは知りませんが、そういう心のささくれは治しておきます。同調の練習に支障があるといけませんから」
なんだか不安な気持ちになってきた。
自分の心象を幻視する?
なにを言っているんだ。
「あ、あの……」
ハインリカの怯えたような高い声。
見遣ると、ハインリカは押し付けるように顔を近づけてきた。
「はじめますから、私の目を見ていてください」
緑の瞳を見る。
ちらちらと、水に映る陽のような輝き方。
緑色の輪郭を持った光。
段々と僕の視界に、緑色が滲んできた。
胸がざわついてくる。
郷愁が湧いてくる。
物悲しくなってくる。
しかし急に虚しくなる。
大穴が空いて全ての水が抜け出たように。
目の前を自動車が行き過ぎた。
眩しいくらいの夕焼け。
ここは、どこだったかな。
「浅月、夕飯は野菜炒めでもいい?」
心臓が握られて詰まるような心地がした。
見上げれば、懐かしい顔。
優しげな、いや、優しすぎるくらいの微笑。
僕は母さんと並んで立っていた。




