第四十八戦「闘いの入り口」
「怖い、怖いって?」
スクモの目に嘲りの色が混じる。
「くだらないこと言わないでよ。お兄ちゃんは将来、剣闘士になるんでしょ? 殺せないでどうするの」
「違う、そうじゃない」
「なにが違うの。ほら、アサツキ、どうした、殺せよ、殺してみせろ!」
「だから、違うんだ……」
僕は俯いて、額を押さえた。
爪が頭皮に食い込む。
スクモの首を絞めたこの手が恨めしくて仕方ない。
「なにが違うの、お兄ちゃん。私はもう無理だよ……」
スクモは僕の手をそっと握って、自分の首に当てさせた。
絶望の影を濃くした笑顔。
「ほら、さっきみたいに、ね? できるでしょ?」
「無理だよ!」
半ば泣き喚くような声が出た。
手を引っ込めてスクモを見た。
多分、僕の目は怯え一色だろう。
「どうして、ねえ。なにが怖いの?」
「……スクモが」
「ははっ、また私? そういえば、前にも同じようなこと言ってたね?」
「いなくなるのが」
「ははは――は?」
一切の信仰が打ち砕かれたような顔をして、スクモは僕を見た。
僕はそれ以上スクモを見ることができずにまた俯いた。
「ねえ、お兄ちゃん、怖いって? 私がいなくなるのが?」
スクモが自分を殺せと言って、僕がその首に手を掛けた時、想像したのだ。
スクモのいないこの世界を。
まるで褪せた夢。
世界が終わった後の、滅びの意味すら失ったような世界。
シュウ父さんやアザミ母さんが悲しむとか、困るとか、そんな感傷は微塵も浮かばなかった。
ただ純粋にただ一つ、ただの一点、スクモを失うことの恐怖だけが視界いっぱいに広がった。
スクモは後ずさって、僕から距離をとった。
僕は思わずスクモを見た。
きっと僕の目は縋るような目だったのだろう。
スクモの顔が意地悪く歪んだ。
僕の反応を期待して、好奇と怯えも入り混じる、とても意地悪な顔だ。
「お兄ちゃん、私のことが大切?」
頷いた。誤魔化しようもない。
「お兄ちゃん、私が欲しい?」
質問の意味を察しかねて、首を傾げそうになった。
ただ、スクモが要らないということはない。
頷いた。
「そうか、そうか、そうかそうかそうか」
スクモは納得しきりの口調で頷くと、今度は僕に近付いた。
爛と輝いた眼が、僕を下から見詰める。
「私はお兄ちゃんのものになる?」
わからない。
スクモの言っていることの意味が。
自分の抱く恐怖が。
こっちにこないでくれ。
僕はベッドから飛び降りて、部屋を飛び出した。
「あ、待ちなさい!」
後ろで師匠の声がしたが、気にする余裕もない。
僕は裏口から外へ出て、そのままわけもわからずに走った。
通りに出た。
人波が視界を過ぎ去っていく。
僕はなにをしているんだ。
なんで逃げ出しているんだ。
なにから逃げているんだ。
それからずっとずっとずっと走り続けて、気が付くと行き止まりに立っていた。
「……ここは」
切れた息に、空気を吸い込む肺の痛み。
息を整えながら、周囲の「島」の壁を見る。
ここは前に師匠と来た、オルトウエへの入り口だ。
無意識に、見覚えのある道を辿っていたのだろうか。
「…………」
砂に魔力を込めた。
砂で踏み台を作る。
右の壁の窓に手が届く。
素手で叩き壊すには力が足りないが、周囲には踏み台分の砂しかない。
砂剣を作れない。
それからなにもできず、じっとしていると、徐々に不安が募ってきた。
大人しくしていられない。
焦燥感に駆られて、僕は窓を叩き始めた。
窓の向こうで、扉が開いた。
奥からくだびれた印象の男が出てきた。
眼光だけは鋭い。
大人としては小柄なあの男は、確かノギスという名だった。
ノギスは内側から窓を開けた。
「なにやってんだお前」
嗄れた声。
ノギスが睨むと、その顔は皺でくしゃくしゃになった。
「……すみません、どういうわけか、ここに来てしまいました」
ノギスが訝し気に僕を見て、幾らかの間が空いた。
「家出か?」
「ちょっと違うけど、似たようなものかも」
無精髭を撫でながら、ノギスは遠くを見た。
「まあ、入んな」
ノギスは顎をしゃくって、部屋の奥へ促した。
「いいんですか?」
「来ちまったもんはしょうがねえだろ」
ノギスは僕を奥の部屋へと招き、簡素な椅子に座らせた。
そして向かいのソファに座ったノギスは、片脚を片膝に乗せ、背もたれに寄り掛かった。
押しかけた身として縮こまっている僕には、かなりの威圧感だ。
「で?」
ノギスが言った。
それからお互いになにも言わず、視線を交わした。
「で?」
ノギスが再び言う。
僕は少し考えて
「ここに来た理由、ですか?」
「そうでもあるが、そうじゃない。お前が家を出た理由だ」
「……その、悩みを聞くってことですか、貴方が?」
「悪いのか……おい、なににやついてる」
「いえ、なんだか似合わないなって」
「ほう、俺はこう見えてオルトウエの父と呼ばれ、その筋の連中から兄貴親父と頼りにされているんだぜ?」
「冗談ですよね?」
「半分はな」
また間が空いて、その間に僕の気分は少し落ち着いた。
「……僕にもよくわからないんですけど、ちょっと情緒不安定な妹がいまして、その、僕はその妹が好きではないんですけど、その妹がいなくなったら、嫌だなって思って。そうしたら怖くなって、妹のこともよくわかんないし、そうしたら、居ても立ってもいられなくなって、なんとなく逃げ出して来ちゃったっていうか」
言葉を繋いでみたが、どうにも上手くいかない。
ノギスはじっと僕を見て、小さく相槌を打っていた。
「ナオミは?」
「え、師匠、ですか?」
「お前が家を出たとき、あいつはどうしてた?」
「ええと、師匠は僕が家を出たとき……あ、師匠の制止を無視して家を出ちゃいました」
ナムヂが顔に手を当て、なにか呟いた。
それから僕を見ると
「それで、どうする。帰るか、もう少しここに居るか」
「居させてもらってもいいですか、まだ気持ちの整理がつかなくて」
「そうか」
ノギスは立ち上がり、台所かどこかへ行こうとしたのだろう。
しかし僕に背を向けた状態で立ち止まった。
「ときにお前、オルトウエに行かねえか」
「え?」
「オルトウエの剣闘士として闘うんだ。お前はまだガキだし、命は保証する」
急な申し出に、なにを考えてよいのかも曖昧だ。
ノギスの思惑?
危険性?
そして僕の頭に残ったのは、剣闘士として闘えるという事実。
「なに、勝っても負けても小遣い程度は――」
「やります」
ノギスの二の句を待たずに返事をすると、ノギスは振り向いて僕を見た。
いささかの驚きを見せたあと、ノギスはくつくつと皺を作って笑った。
「なら、さっさと行くか」
さっと身を翻したノギス。
ノギスは衣装箱の抜け道を開いた。




