第三十八戦「後ろの感情」
焦げ茶色の髪は丁寧に整えられていた。髪に限らず、全体的に身綺麗だ。
服装なんかも、市場にいたときのような腰巻ではない。
足首まで丈がある、ワンピースのような上衣だ。
胸のすぐ下を紐で締めてある。
アスラウヱの女性として一般的な格好だ。
どことなく理知的な印象を受ける。
裸同然の格好をしている印象が強かったから、ややの間、誰かわからなかった。
やっと師匠だと気付いたのは、ばちりと目が合ってからだ。
「師匠!」
駆け寄ると、一も二もなく師匠が僕を抱き締めた。
師匠の香りがした。
焦げ茶の髪が頬をくすぐり、ひんやりした腕が僕の体に回される。
僕の顎の付け根辺りで硬い感触がしたのは、師匠の嵌めている首輪だ。
色は漆黒。奴隷拘束の魔導具というやつだろう。
それを気にしていると、僕の頭上で「よかった」と師匠が呟いた。
不意なことに面喰う。
そもそも、あまり好かれてはいないと思っていた。
そうでもなかったらしい。
「こらアサツキ、その女から離れろ!」
シュウ父さんが怒鳴った。
それを受けて、師匠はそっと僕を離した。
僕を見る目は、安堵したような、それでいて少し哀しそうな目だった。
「どういうつもりだ」
シュウ父さんがナムヂに詰め寄った。
「優秀な奴隷ですから、今回のお詫びに相応しいでしょう」
「相応しいわけあるか! 息子を攫った奴だぞ!」
「ですが自らの意思で戻ってきやしたし、その攫われた息子さんが随分と懐いていらっしゃった。そもそも、探していた条件にぴったり合う奴隷だったのでしょう?」
シュウ父さんは口ごもってしまう。
「先ほど申し上げたように、お代は要りやせん。どうしても気に喰わないのであれば、数日の後、返品してくだされば結構。そのときは別の奴隷を見繕いやしょう」
実際、ナムヂの出している条件は破格のものなのだろう。
シュウ父さんはこれ以上強く言うことはなかった。
「エ・キエラ・ナオミと申します。先日の振る舞い、ここに深く謝罪いたします。今後はその罪を贖うとともに、精一杯にご奉仕させていただきたく存じます」
師匠が言った。
誰だこれ!? と僕が思ったのは言うまでもない。
僕と一緒にいたときの師匠は、もっと、こう、強そうというか、豪快な感じのある喋り方と態度だったから、違和感が凄い。
しおらしすぎてむずがゆい。
「では、法的な処理については、この紙に署名してくだされば、あとはこちらで済ませやすので」
ナムヂが一枚の書類を差し出した。
それをシュウ父さんが受け取り、目を通す。
そして悩んだように目頭を押さえた。
「シュウ」
アザミ母さんが不安げに呼んだ。
シュウ父さんはアザミ母さんを見て、それから視線を師匠、ナムヂと移した。
「信用できるんだろうな」
「保証しやす。本来ならその魔導具も要らないところです」
言われて、シュウ父さんは手元の腕輪を見た。
「……わかった。一旦はお前の言うとおりにしよう。だがもしなにかあったらそのときは」
「いかようにでも」
そうして半ば、なし崩しのような形でシュウ父さんは書類に署名した。
「ではあっしは、これで」
ナムヂは書類を受け取ると、さっさといなくなってしまった。
皆の視線が師匠に集まる。
「師匠」
改めて師匠に歩み寄った。
師匠の顔を見上げる。
薄く笑った顔。
目は涙で潤んでいた。
「アサツキ……様」
へりくだった師匠というのも調子が狂う。
「様なんて、やめてください」
「そういうわけには参りません」
師匠は床に膝を付けた。
躊躇いがちに、僕の頬へと手を伸ばす。
「おい待て」
シュウ父さんがその手を掴んで止めた。
「色々と訊かせてもらうぞ」
剣幕だけで人を殺せそうだ。
「はい」
師匠は恭しく頭を垂れた。
「アサツキ、お前はシュラと部屋にいろ。昼御飯はお預けだ」
「わ、わかりました。おいで、シュラ」
僕はシュラの手を取って、子供部屋に向かった。
師匠が家に来た。
あまりにも急なことで、驚きが感情のほとんどだ。
しかし驚きがいくらか治まってくると、僕の心を占めたのは昂揚だ。
師匠が家に来てくれた。言い方は悪いが奴隷としてだ。
ということはつまり、頼み込めば、師匠のあの体術も習わせてくれるかもしれない。
それに稽古の相手もできる。
廊下の途中、僕は歌を口ずさむように「師匠が家に来た、師匠が家に来た……」と繰り返していた。
無意識だった。
「スクモ!」
子供部屋の扉を勢いよく開ける。
部屋のベッドの上で本を抱えたスクモが、半目で睨むような目を僕に向けた。
全く気にならない。
「良い報せと悪い報せがあるんだ。どちらから聞きたい?」
「……悪いほう」
「ナムヂがここにきた」
スクモは本を閉じて、慌てて起き上がった。
「落ち着いて、もういない」
「脅かさないでよ」
「で、良いほうの報せなんだけど」
喉が渇いて、唾を飲み込んだ。
図らずももったいぶった感じになる。
「師匠が家に来たんだよ!」
そう言うと、スクモは顔をしかめた。
「師匠?」
「そう、師匠だよ。ほら、奴隷市場で僕を攫った!」
「それは、わかってるけど……」
興奮のあまり、僕はスクモに近寄って、スクモの頭を抱えた。
スクモの髪をくしゃくしゃと撫でる。艶やかな黒髪が踊った。
「結局、僕の努力は無駄だったけど、それにしても師匠が来てくれて良かった!」
スクモは言葉を返さず、僕に為されるがままだった。
「兄さん、良かったね」
僕の後ろでシュラが言った。振り返って、シュラを抱き締める。
「うん、本当に良かったよ。あ、そうだ、シュラ。今シュウ父さんに薬のことを教わってるんだろ? 僕も少しくらいは分かるから、気になることがあったら言ってみてよ。傷薬ならいくらか得意だ」
僕は上機嫌に任せてそう言った。
「ええ、それじゃあ……」
シュラの質問に、僕が答えられる範囲で答える。
そうこうして時間を潰していると、部屋の扉が開いた。
シュウ父さんとアザミ母さん。
そして師匠が部屋に入ってきた。
改まった雰囲気が部屋に流れる。
僕とシュラは横に並んで、気をつけの姿勢を取った。
スクモはおそらく後ろで、ベッドに座ったままだ。
僕らを一瞥すると、シュウ父さんが溜め息を吐いた。
「話をつけた」
「師匠は家にいてくれるんですよね!?」
「駄目だ」
「え」
一瞬、僕の思考は完全に止まった。
「ど、どういう……」
「得体の知れない女だ。家に置いておくわけにはいかない」
「あ、いや、そ……」
言葉にならない声を上げる僕を見て、シュウ父さんは再び溜め息を吐いた。
「隣の家にいてもらう」
「……隣?」
「今、隣家が空いているからな。そこを借りる。倉庫を兼ねてな」
「ということは、つまり――」
「役目は店の手伝いと、お前たちのお守りだ。特にアサツキ。最近お前は危なっかしいからな」
僕は全力で頭を下げた。
「ありがとうございます!」
シュウ父さんの溜め息がまた聞こえた。
「こういう我が儘はこれっきりにしてくれ」
「肝に銘じます!」
頭を上げて師匠を見る。
師匠は嬉しそうに頬を染めながら、皓歯をこぼした。
「それでは、改めて自己紹介を」
師匠はそう言って前に歩み出た。
「名をエ・キエラ・ナオミと申します。本日より――」
師匠は言葉を止めた。
視線は僕より後ろに言っているようだが「本日より、お仕えさせていただきます」と、何事もなかったかのように続けた。
気になって、ちらりと振り返ってみても、スクモがベッドに腰掛けているだけだ。
よくわからないが、気を取り直して、僕も師匠に挨拶した。
「これからよろしくお願いします。師匠」




