第三十四戦「信じる意思と応える言葉」
スクモはテーブルの縁から顔を上げていた。
テーブルに爪が立っている。
漆黒の髪が目立つ横顔には、焦りがあった。
「だ、だめではありません」
チグサさんは面食らった様子で、たどたどしくもスクモに言い返した。
チグサさんが言い終えるや否や、スクモが切り返す。
「二流魔導師にお兄ちゃんの体をいじらせたりさせないから」
「二級です!」
椅子に座る僕と比べて、立ったままのスクモの頭は、丁度、テーブルに置く僕の手の位置にある。
丸い頭と、艶々した黒髪。
ほとんど勝手に体が動いて、スクモの頭を撫でた。
スクモはふにゃりと、唇を緩めた。
「しかし、いきなり体を調べると言われて、気分が良くないのは確かでしょう。一から説明させてください」
改まってチグサさんが言うと、スクモが出張った。
「うるさい、黙れ! もう帰れ!」
「スクモ、静かにして」
スクモはむすっとした顔で僕に向いた。
そして「ふん」と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
そんなスクモを見て、シュウ父さんとアザミ母さんは、いくらか心配そうだった。
「ええ、では……説明しますね」
一連の様子に、苦笑いするチグサさん。
曰く、以前に僕を診たとき、たしかに呪いの原因となる魔導はなかった。
しかし呪いが再発した。
これは、呪いを起こす魔法が体に組み込まれたのではなく、体内の魔力管そのものに異常があると考えられる、とのことだった。
「魔力管を元に戻さない限り、アサツキ君は塩化に苦しみ続けるんです」
「でも、魔力管の状態って、どうやって調べるんです。魔力管の発達様相だかなんだかって、調べられないんですよね?」
言って、口を滑らせたことに気付く。
魔力管の発達様相なんて言葉は、明らかに専門用語だ。
事情を知っていたアザミ母さんは、表情をより曇らせて、シュウ父さんは胡乱な目で僕を見て、チグサさんは、「やはり」と呟いた。
「アサツキ君、あなたの師匠は誰でしょうか」
「え? ……えっと、僕が勝手に師匠って呼んでるだけで、実際に弟子ってわけじゃ――」
「アサツキ、違う。あの奴隷のことじゃない。魔法の師匠だ」
「魔法の、ですか……」
スクモを見やる。
そっぽを向いている。
正面を向くと、チグサさんが不機嫌そうに僕を注視していた。
いたたまれずに目を逸らす。
シュウ父さんは真剣な面持ちで、まるで危険な薬を調合しているときみたいだ。
視線をさらに右にずらし、隣のアザミ母さんを見る。
ぎゅっと、片腕を握り締めて、今にも泣きそうだ。
なんだ、これ。この雰囲気は。
真後ろを向いた。
シュラはどうしたものかといった感じで、この場全体を眺めていた。
「僕の、師匠は……」
言っていいものか?
アザミ母さんはもう事情を知っている。
なのに言わない。何故だ。
「師匠は……」
なにか、わけがありそうだ。
「その前に、一つ訊いてもよろしいですか」
「この場に関係のあることなら」
「師匠が誰かというのは、重要なんですか?」
神妙な面持ちで頷いて、チグサさんは膝の上に置かれた魔女帽にそっと触れた。
諦念に似た色が、伏せた目から湛えた。
「法律で決められていますので」
「なにがですか!?」
想像だにしなかった単語に狼狽えた。
「上位魔導師の所有する魔法的価値が認められるものについて、下位魔導師は一切の手出しができないのです」
淡々とした調子で言う。
「窃盗と同じ扱いになるのですよ」
「そんなことを言われても……」
「アサツキ君の師匠が一級以上であれば、私にできることはありません」
チグサさんの童顔が、百歳くらい老け込んだように、一瞬、見えた。
それはもちろん気のせいだけど、小さな唇から微かに漏れた、疲れ切った溜め息に、積年の苦労が凝縮されていたように感じたのだ。
実際、何歳なのかは知らないが。
そして、沈黙が訪れた。
空気に触れる肌が痺れる。
誰もが次に言う言葉を持ち合わせていないのだ。
一応、唯一、僕だけが、次の言葉を選択できる。
すなわち、師匠はスクモですと言ってしまうのか、師匠はいないと誤魔化すのか。
後者は難しい。僕の発言や話の流れから、とうに師匠がいる前提だ。
今更、誤魔化しは効かないだろう。
かといって、師匠がスクモと言うのもまずい。
まずいだろう。
だって、厄介な問題が一つ増えるのだ。
良い方向に話が転がるとは思われない。
結局、僕は閉口して、居辛い空気に身を晒すのだ。
「答えられないのですか?」
チグサさんの声は大きくなかった。
けれど、沈黙したこの空間には、十分すぎるほど響いた。
僕はびくりと、背筋を伸ばした。
窮して、スクモに目を向ける。
スクモは、不服そうに、けれどなにかを見定めるかのように、じっと僕を見ていた。
言っていいのか?
心の中で強く念じた。
当然、伝わるわけがない。
僕自身の判断と意思で、答えるしかない。
「お兄ちゃん」
スクモが、桜色の唇をゆっくりと動かした。
「……信じてるから」
なにをだ?
そう言い返したかったが、これがスクモなりのヒントではないかと、そう思った。
スクモの言いたいことを想像して、上手くいかなくて……。
だから、分かった。
意を決し、チグサさんを真っ直ぐに見て、はっきりと言った。
「僕の師匠は、いません」
訝るように、チグサさんは目を細める。
「では、どこで魔力管の発達様相なんていう、外道な知識を得たのですか」
「師匠に教えてもらいました」
「……うん?」
「師匠は、もういません」
「それはつまり、何処かに消えたと?」
消えた……のだろうか。
消えてはいまい。
僕がやれるだけやれば、いつか、また会える。
「今は会えません。でもいつか、きっと会えます」
ちらりと、横目でスクモを見た。
これで良かったのだろう。
こいつは僕に説明した。解らせた。
今のこいつは、前のスクモとは別人だと。
僕に魔法を教えたのは、紛れもなく前のスクモなのだ。
だから、魔法の師匠は、今いないのだ。
この答えは合っていたのだろう。
スクモは感激したように目を潤ませて、僕の腿に手を当てていた。
「なるほど」
チグサさんは納得したらしく、深々と頷いた。
「捨てられたのですね」
その瞳に曇りはない。
「いや、そういうわけではないと思うんですが――」
「往々にしてあるのです。高慢な魔導師が飽きた研究資料を放置することは」
悪気はなかったのだろう。
事実の一つではあるのだろう。
だけれども、一方的な決めつけが許せなかった。
「スクモはそんな奴じゃない!」
気が付けば、手の平をテーブルに叩きつけていた。
前のめりになった僕は、地面に足が付かず、態勢を崩して、床に着地した。
椅子が倒れる。
なんだか嫌な予感がして、恐る恐る左を向いた。
呆気にとられたのか、スクモの表情は固まっていた。
右上を向くと、アザミ母さんは、はっとした顔を、正面に向けていた。
テーブルの下から顔を上げると、シュウ父さんの険が深くなっていた。
チグサさんは膝に置いてあった魔女帽を抱き込んで、怯えた目をしていた。
「あの、ですね――」
「アサツキ君! スス、スクモと、あなたの師匠はスクモと名乗ったのですか!?」
言い繕う間もなく、チグサさんが早口に言う。
「あ、はい、でもですね――」
「これはとても大変なことです。もし、本物のスクモ様がアサツキ君の師匠であれば、私にできることなどありません!」
「……スクモ、様?」
チグサさんは、ぎゅっと体を丸めた。
怖々と僕に視線を向ける。
「ユウハブル・ダンネラ・スクモ……アサツキ君の師匠の御名は、これで間違いありませんか?」
「ああ、そういえば、そんな名前だったような気がします」
それを聞くと、小さく、細く、長い溜息を吐いて、チグサさんは俯いてしまった。
シュウ父さんは、額に手を当てて、やや憔悴した様子だ。
僕と同じく、事態を飲み込めていないらしいアザミ母さんは、とても不安そうに訊ねた。
「あの、どういった方なんでしょうか。ユウハブル・ダンネラ・スクモという方は……」
チグサさんは、一言一言、ゆっくりと答えた。
「三大魔導師の一人に数えられる、特級魔導師です。逸話は数え切れませんが、一般的な魔導師が評するところによれば、世界最悪の魔導師です……」




