第十九戦「隔たりがあるから」
例えば蝶の翅の輪郭。
流麗な眉は顰められ、ふだん優しげな目も今は、射竦めんばかりだ。
スクモは僕を見ていた。目が霞むのか、しきりに眇めたり、擦ったりしている。
右目から頬にかけて、赤く血の筋が残っていた。白い肌に赤さが映える。
「なにをしたんだよ」
「治療だ」
にべもなくスクモは答えた。
「この血はなんだよ」
「君に知られたくない」
外からの陽光を映して、スクモの黒髪が白く輝く。
飛び退くようにベッドから降りたスクモは、僕に一瞥もくれないで、部屋を出て行こうとした。
そこに、扉が軽い音を立て微かに動いた。扉からシュラが覗いている。
スクモは渋々といった風に引き下がった。
「入ってもいいよ」
シュラは僕の言葉を合図に、淀みない動きで傍に立った。
お互いに言うことはない。
碧眼がじっと僕を見据えた後、居心地が悪そうに伏せた。
「怪我は平気?」
男の子にしては、繊細な印象を受ける声音だ。
「平気だよ」
シュラがなにを考えているのかはわからない。なんとなく悔しげに見える。
ふと、部屋の外から気配を感じた。扉の所に、シュウ父さんが立っていた。
見たこともない程に眼光鋭く、それはそのまま、シュウ父さんの怒りの度合いを示していた。
なにかの衝撃で、皮膚を切り裂くような怒気が飛び散りそうだ。
怒気を帯びたまま、シュウ父さんは部屋に入った。
後ろに、アザミ母さんと、もう一人、知らない女性がいた。
灰色の髪の毛が、黒いくたびれた三角帽から零れている。
それで老婆かと思ったが、顔つきは幼く、少女と言ってよかった。
背もアザミ母さんの肩ぐらいまでしかない。
小さな唇は引き結ばれて、きらきらとした目は、やや緊張して開かれている様子だった。
枯れ草色の衣装は分厚い印象を受けた。
「あ」
その女性の顔を見たスクモが、頓狂な声を上げた。
ちらりと、女性はスクモを一瞥したが、直ぐに視線を前に戻した。
三人が進み出ると、シュラが一歩引いて場所を譲った。
「この子です、診て下さい」
シュウ父さんが、灰色髪の女性に声を掛けた。
この女性が、スクモの言っていた魔導師なのだろう。
彼女はふっと息を吐いて、僕の腹部にそっと手を乗せた。
彼女は難しそうな顔をした。
眼を動かして、僕の体のあちらこちらを確認している。
彼女は僕の服に付いた血を見て、それからシュウ父さんに目を遣った。
「……うんん、特に悪い箇所は見受けられません。本当に、魔導的な外傷だったのですね?」
見た目通りと言うか、あるいはそれ以上に、幼い声だった。
この若さで魔導師になれるのなら、僕も頑張ればそれなりだろうか。
「通常の外傷でなかったのは間違いありません……呪いが時間の経過で消えるというようなことは?」
低調で抑揚のない声。怒りを抑えているのだろう。
シュウ父さんの視線が僕から外れない。
とてもじゃないが、目を合わせられない。
「あります」
「ではそれかもしれません。呪いが一度消えた後、また発現することはありますか」
「有り得ないこともないですが、この子の場合、そのような仕掛けは見つかりません」
「そうですか、お手数を掛けました。謝礼のことは妻にお申し付け下さい。別の部屋で応対いたします」
「いえ、私は大したこともしていませんので、そのような――」
言おうとして、シュウ父さんと彼女の視線が交錯した。
「は、はい、では場所を変えるといたしましょう」
上ずった彼女の声が響いた。
スクモやシュラ、僕の位置から、シュウ父さんの顔は見えない。
アザミ母さんは俯いていた。
「シュラ、スクモ、こっちに来て」
アザミ母さんを先頭に、三人は部屋を出て行った。
シュウ父さんだけが残る。
扉を閉める音がやけにはっきりと聞こえた。
ベッドの横に椅子を引っ張り、どかりとシュウ父さんが腰掛けた。
「アサツキ」
「はい」
「こっちを見ろ」
怒りの余りか、シュウ父さんの眼に涙が滲んでいた。
「先ず訊こう、お前はなにをした」
「マンナを助けようと……家を、出ました」
「それだけか」
二の句を継げれば、すかさず鉄拳が唸るのではないか。
「シ、シュウ父さん、その……」
「なんだ」
「どうしてそんなに怒っているんですか?」
くわっと、シュウ父さんの瞳孔が広がった。
腰が宙に浮かび上がるのと同時、握られた拳が、辛うじて開かれたのを見た。
バチン! と痛快とも呼べる音が響いた。
今度は僕の眼に涙が滲んだ。
単なる生理現象だけではない。痛い。
ついさっきまで痛覚が麻痺していたとは信じられないくらいに痛い。
堪らず呻いた。
「アサツキ、俺が怒っていると思うのか」
「お、怒っているじゃないですか」
「怒っていない、全くな」
仁王立ちして見下ろす様からは、怒りしか感じられない。
でも、なにに怒っているかとんと見当がつかない。
「アサツキ、お前は前に言ったな。あの子を助けるには、あの子の親を止めるしかないと」
あの子と言うのは、マンナのことだろう。以前の会話を思い出した。
「そんなことも、言ったかもしれません」
「それで、あの子を助けるために、お前はなにをした」
「僕は、あれから……」
気が付けば、滲んだ涙は大粒になって、目から零れ落ちていた。
総て悟った心は、理解するのを恐れて、事実を言葉にしなかった。
でも誤魔化せない感情もある。
「だって、仕様がないじゃないですか。僕になにができるんですか。これでも、やれるだけやったんです。死ぬような目にも遭ったんです。それでも助けられなかったんです」
「やれるだけやった? 笑わせるな。お前は一度でも誰かを頼りにしたのか」
もし、誰かを頼っていたら?
始めから自分の力をあてにしていなかったら、どうだったか。
そんなの分かり切っている。今よりましな結果だったろうさ。
「誰かを頼りにして、それでなんになるっていうんですか。僕の問題です、他人に関わってもらう必要も意味もない!」
「なにがお前の問題だ。あの子の問題をお前の問題にしたのか?」
もう頭の中がぐちゃぐちゃで、なにを言えばいいのか、なにを考えればいいのか、さっぱり分からなかった。
「誰かを頼りにするのは、正しいことなんですか、卑怯じゃないんですか?」
「身の程知らずよりましだ。ずっとましだ。それに、お前は卑怯とか、正しいとか、そういうことで頼ろうとしなかったわけではないだろう」
涙を拭って、シュウ父さんを見た。凄く、哀しそうな目をしていた。
「なあアサツキ、俺はそんなに頼りないか? アザミは信用できないか? スクモのことが嫌いか? シュラは足手まといにしかならないのか?」
嗚呼、それは違う。誤解だ。
「違います、そんなことはありません」
「…………」
「違うんです。違う、違う……」
右手で頭を掻き毟っていると、拭ったはずの涙がまた溢れてきた。
でも僕の心は冷めてきていて、僕に泣く資格なんてないと、そうはっきり告げていた。
「……ごめんなさい」
ぽつりと、一言、部屋に落ちた。
シュウ父さんの、温かくて大きな手が、僕の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「生きていてくれて、本当に良かった」
シュウ父さんはそう言い、ゆっくりと手を離した。
それから、部屋を出て行った。
その日の昼、動けるようになった僕は隣家の様子を窺いに行った。
知らず知らずのうちに足取りが重くなり、外に出れば砂埃が足を覆う。
隣家の裏口前に、乾いた血溜まりがあった。
「なんだよ、これ」
「小娘の母親が遺したものだ」
いつの間にやらスクモが後ろに立っていた。
なんとなしに、夜風を纏っているような雰囲気があった。
「嘘じゃなかっただろう?」
「……間男は?」
「間男? ああ、小娘の父親か? いなくなったよ」
「どこに」
「さあ、細君の死体を墓所に放り込んで、蒸発したらしい。大方マンナが殺しに来るのを恐れたんだろう」
フフフ、と、スクモは含み笑った。
「どうした、そんな顔をするな。マンナの本性が見れただけでも、よかったではないか」
「そうじゃないよ」
スクモの肩に腕を回した。
スクモは体を強張らせたが、すぐに弛んで、僕の背中に手を回した。
「どうしたのだ」
「僕が間違っていたとは思う。でも、後悔なんてできるわけない。頼れるわけないじゃないか。巻き込むわけにはいかないだろ。僕らは本当の子供じゃないんだから」
「アサツキ」
ぐにっ、とスクモが僕の太股を抓った。
肉が抉られたような激痛に、思わず蹲った。
「言っていることの意味がわからん。それから抱き付くな」
「……っ、つう、なんかさっきから痛みが尋常じゃないんだけど、心当たりない?」
くすりとスクモは微笑した。穏やかな顔だった。
「君を治すとき、ちょっと悪戯しておいた。明日には元に戻るよ」
くるりと背を向けた拍子に、長い黒髪が靡く。
「待ってよ」
平生通り、優しげな目をしたスクモを追い掛けて、僕は家の中に戻っていった。




