第十五戦「邪眼の少女」
端的に言って嫌いだった。なにより怖かった。
立とうとすると、スクモが支えになる。
「無理するな、軽い怪我ではないぞ」
スクモに手を押し当てた。こちらの足元がおぼつかず、逆に弾かれた。
「アサツキ?」
無視して歩き出そうとすると、スクモの後ろに控えている化け狐が、大きく口を開いた。
大の大人がすっぽり入りそうな裂けた口に、ぞろりと鋭い牙が並んでいる。
血に塗れていた。足が竦んだ。
口が閉じられた。欠伸だったらしい。再び歩こうとして、転んだ。痛みはない。
「な、なにをしているのだ。ほら肩を貸すぞ」
スクモが僕を起こそうと、腕を引っ張るが、その感触がわからない。
なんとか両脚で立ち、スクモの掴んでいる腕を振り払った。
一つ一つの動作が重く、一々力を込めなければならない。思いの外、大仰な仕草になった。
そう思うのと同時、ベチ、という音が聞こえた。
スクモを見ると、きょとんとした表情で頬を押さえている。それから半笑いになった。
「ハ、ハハ、じょ、冗談が過ぎるぞ、アサツキ」
声が震えている。眼が潤んでいる。
怒らせたかもしれない。そう考えると肝が冷えた。化け狐に、丸呑みされる自分を想像した。
それでも必要以上に恐怖を感じないのは、全身の感覚が鈍っているせいか、スクモの表情が情けなく見えた所為か。
ふらふらとした足取りで、僕はマンナが駆けて行った方向に進んだ。
「アサっ、アサツキ、待って……」
背後からスクモの声がして、のしっのしっ、という重い足音も聞こえた。
心臓が縮まる思いがして、自然と歩みが早くなる。
足元で、ぴくりと何かが動いた。茶色い甲冑の男だった。
「待って下せえ」
すっくと起き上がった。死んだふりでもしていたのか。
一歩、後ずさると、軽い衝撃を感じた。振りかえると、真後ろにスクモの顔があった。
「間違いない、オサカベ、八天堂オサカベだ……」
ぼそぼそと甲冑の男が呟いた。
見ると、食い入るように前傾していた。
兜は後ろの化け狐に向いている。それが、僕らの方を向いた。
「あれを召喚したのは、後ろのお嬢さんですね?」
男が一歩、歩み出た。後ろでスクモが小さな悲鳴を上げた。
「顔をよく見せてくだせえ、名前は? 何者ですか?」
「オ、オサカベ!」
後ろから狐の頭部が突き出て、甲冑の男に激突した。
甲冑の男は吹っ飛んで、ごろごろと転がった。
「早く行こう、アサツキ。あいつに私のことがばれるとまずい」
僕の腕を引っ張って、足早にスクモがここを通り過ぎようとする。僕は転んだ。
「あ、すまん。オサカベに背負わせるから、ちょっと待ってくれ」
そう言ったスクモを振り払う。
立ち上がって歩き、後ろの足音が聞こえないことに気付いた。
様子が変わったことに戦慄して、振り向いた。
「あ……」
思わず声が漏れた。スクモが泣いていた。
僕の知る、いつも通りのスクモがいた。
けれど、こんな風に泣いているのは初めて見た。
一切、声を立てずに、静かに涙を拭っていた。
途端に申し訳ない気持ちになって、僕はスクモに近付いた。
「寄るな!」
スクモが叫んだ。敵意溢れる眼光が僕に注がれた。
肩を怒らせて、大きく息を吸う。吐息に嗚咽が混じった。
「なにをしている、とっとと失せろ、この恩知らずめ!」
息が詰まった。目を逸らすと、周囲の惨状が目に入った。
なんともいえない気分になり、僕は元の通り歩き出した。
スクモの泣き声が聞こえた。
一人でゆっくり歩いて、ようやく甲冑の男が転がっている辺りまできた。
こいつは何者だろう。
スクモはこいつのことを知っている様子だし、こいつはあの化け狐のことを知っていた。
のっそりと、男が起き上がった。
砂剣を作ろうとしたが、魔力を流せなかった。
男は僕を素通り、スクモに近寄る。
「面影がある。髪なんてそっくりだ」
泣きじゃくっていたスクモは驚愕の面持ちで、化け狐のところまで下がった。
「や、やれ、オサカベ!」
スクモの掛け声と共に、化け狐が大口を開け飛び掛かった。が、男の手前で止まった。
男の手に、鎖付きの銀記章が下げられていた。紫色に光っている。
「ナムヂ、貴様、その眼は――!」
言い掛けて、スクモは膝を折り、嘔吐した。
「スクモ!」
慌てて引き返す僕の肩を、ナムヂと呼ばれた男が引き止めた。
「坊っちゃん、今、なんと仰いやしたか?」
「は、離せ」
「スクモと仰いやしたね!?」
ナムヂは高笑った。兜で表情は見えないが、喜悦に歪んでいるのは間違いなかった。
「しかもあっしの名を呼んだ。やはり生きていた、貴女が死ぬだなんて、そんなことは有り得ない」
スクモは気を失ってしまったのか、地面に突っ伏した。
笑い声を上げながら、ナムヂはつかつかとスクモに歩み寄った。
「待て!」
追い掛けようとする僕の進路に、化け狐が立ちはだかった。
「退けよ……」
無理に通ろうとすれば、踏み潰されるだろう。
それでも躊躇うことはできない。
僕が化け狐の足元まで来たときだった。
「アサツキくん!」
マンナの声がした。
後ろから、マンナが駆けて来ていた。
マンナまで泣いていた。
僕にしがみついて、号泣する。
化け狐を視界に入れても反応が薄いのは、極度に混乱しているからだろう。
なにがどうなっているのか、僕までわけがわからず、狼狽してしまう。
「その二人を捕まえてください、オサカベ」
化け狐の向こうで、ナムヂが言った。
脇にスクモを抱え、記章を揺らしている。
記章の中心に埋め込まれている物を見て、ぎょっとした。人の目玉だ。
本物かどうかはわからない。紫色の閃光を放っていた。
光に当てられた化け狐が動いた。のっそりと前足を上げる。
僕は精一杯、マンナを突き飛ばした。
そして、化け狐の前足が僕に降った。マンナは尻餅をついた態勢で絶句していた。
「オサカベ、力加減に気を付けて」
ナムヂがすぐ側まで歩いてきた。脇に抱えられたスクモは、ぐったりとして動かない。
「アサツキ、くん、スクモ、ちゃん……」
段々とマンナの表情が険しいものになっていく。涙は量を増した。
「ゆるさ、ない!」
立ち上がったマンナの手に砂が集まり、剣が形作られた。
ナムヂに一瞬、動揺が見られたが、すぐ失笑に変わった。
「オサカベ」
ナムヂが手を振って合図する。しかし化け狐は微動だにしない。
「オサカベ?」
ナムヂは化け狐を見た。
「あっ!」
ナムヂはなにを見たのか、声を上げた。
ナムヂがなにを見たか知れないが、代わりに僕はマンナの眼を見ていた。
マンナの瞳の色が反転したのを見た。
鉛白色の瞳が煌々と輝いていた。
化け狐が塩の塊になって崩れたのは、直後だった。




