17歳 その毒は
気が付くと7年も時が経っていた。
その間にした事と言えば、碌でもない。単なる戦国時代の生き方をしたのみだ。謀略で版図を広げ、上に媚態し、戦にくれる―――そんな碌でもない生き方だ。
年の長幼など関係無い。敵の脇が甘ければ容赦なく突き、貶め、奪い、糧とする。気が付くと、随分と警戒されるようにもなってきた。
その中で、必要無いと見做してきた物はすべてそぎ落とし、利用できると思った事は躊躇なく利用してきた。
たとえば弟。
10歳の時に父を亡くし、2年の雌伏の時を経た後、一向衆と話を付け、その過程で奪い取った摂津越水城に本拠を移し、代わりに一番上の弟は阿波へと置いてきた。次弟と四弟は淡路へ、三弟は讃岐へと養子に出し、その地盤を奪い取った。
彼らが自分に対してどのような感情を抱いているかなど知らない。知りたくもない。だが、全てはあの日に思い知らされた己の運命に抗う為。たとえ、夜毎に在りし日の幼い兄弟の笑い声の幻聴が苛んだとしても、策謀に感情を挟むつもりなど無かった。ただそれだけで、驚くほど淡々と、そして掌の上で踊る様に物事が進んでいく。
細川に対しては一度戦った上で、再び傘下に入る事を決定した。外部から働きかけるより、内部から扇動した方が都合が良いからだ。仇の前であっても擬態して笑顔を作り、刃を研ぎ澄ます。こちらに関しては、罪悪感のカケラも浮かばなかった分、非常に楽な物だ。
最初こそは、幼い事を理由に侮られこそもしたが、今では対峙するだけで、奴らの心の奥底に非常に強い警戒が渦巻いている事が手に取るようにわかる。警戒された所で、こちらを止められるほど有能では無いので、警戒されるぐらいの方がちょうどいいのだ。
「そろそろ次の一手か……」
次の狙いは父の旧領、そして仇の三好政長の治める河内十七箇所を巡る一手だ。既にこの土地を返すように細川晴元に申し出たが、拒否の回答が来たばかりだ。だが、実の所、父の旧領という所にこだわりなどは持ち合わせていない。一応は主家に話を通し、こちらの目論見通り拒否されたという事実が欲しかっただけだ。
細川家を支える、三好政長の本領を荒らし、かつ細川家の弱体化を世に知らしめる事、それに尽きる。今はまだ軍を起こすつもりなど無い。
まずは、毒を流し込む。策謀という、じわりと、死に至るまでの毒を。
「筆を持て。河内十七箇所の件で書を認めよ」
「は……どちらに」
摂津に腰を落ちつけた辺りから、右筆に雇った男が静かに訊き返す。歳は幾分か向こうの方が上。落ち着いた物腰と、右筆で終わらせるには少々もったいない好奇心。そして、かつて出会った天魔をどことなく思わせる同種の空気が気に入っていた。
わざとなのか、それとも素なのかわからないが、こちらの意図を引き出させようとするその絶妙な問い掛けに、思わず暗い笑みが零れ出る。
「―――公方だ。丁重に、気分よく躍らせよ」
「……承知」
毒を制するは猛毒。蠱毒の中の7年という歳月は、少年を化物に変えるには十分すぎる程の時間だった。
◆ ◆ ◆
河内十七箇所とは本来幕府の料所である。つまり、本来ならばこの土地の代官職の継承を認める役目は幕府にある。だが、世は乱世。当代の公方も紆余曲折を経て就任した事からも、その実権は細川晴元が握っていた。
だが、細川晴元は稀代の人使いの下手だ。先の将軍位継承の争いでは、あと僅かという所で今まで担ぎあげてきた候補を裏切った挙句、重臣らにも叛かれ、彼らを排除しようと一向衆を使えば、大乱を引き起こす。計画性も無ければ、目先の利益の為に強者に強者をぶつけるという発想しか持ち合わせていない。
計画性の無い、浅慮な発想の人間が実権を握ればどうなるか―――その答えが末期の室町幕府の姿だ。
細川晴元が上に居れば、やりやすいと言えばやりやすい。何せ無計画故に隙が大きい。
だが野放しにするのも愚策。
増長すればまた同じ事を繰り返すからだ。
これは、細川晴元を生かさず、殺さず、だが徐々に殺す為の布石である。
一手。
1539年。年賀の挨拶の為に兵を率いて京に入っていた、三好仙熊こと三好孫次郎利長は陪臣の身でありながら、河内十七箇所の継承について、細川家ではなく、幕府に直接訴え出る。陪臣の身とはいえども、若くして一向衆との講和を取りなし、武功を立てている大身。また、最高権威としての面子からも、将軍、足利義晴はこの件の取りまとめに身を乗り出す事になる。
差しあたっては、他の大名―――今回の場合、近江守護の六角に調整を命じるが、不首尾に終わる。
次手。
目論見どおりに、不首尾に終わるとそれを口実に、三好孫次郎は率いていた兵2500と共に、和睦時から誼を通じていた本願寺と共に、決起の姿勢を見せる。それに驚いた細川晴元は一族を共に京から逃亡。
突如始まったクーデターに将軍義晴は若狭の武田、能登の畠山らに出兵を要請。同時に三好孫次郎に暫定的な京都の治安を任せつつ、六角に急ぎ講和を命じる。
王手
若狭、能登ら北陸勢。近江、摂津、和泉、河内、ただの陪臣の為に例を見ない各国の連動に満足した三好孫次郎は軍を率いてぶつかる事無く、講和に応じ、京より退出。河内十七箇所は手に入らなかったが、本命の摂津守護代という摂津切り取りの名目と幕府の直臣としての身分を手に入れる事になる。
三好孫次郎 17歳。
その歳にして天下重鎮の各国を緊張状態に陥れ、掌で弄ぶ彼を幼少と侮る者はもういない。