後日談 曹魏皇太子
家柄・身分・立場という物は生まれた子供には、どうしようもない柵の一つだと言えるだろう。
勿論、それは悪い事ばかりではない。
本人達が自覚をしていないだけで。
他者よりも少なからず多く恩恵を受けている場合は決して珍しい事ではないのだから。
ただ、そんな子供達の基準が問題なだけ。
その水準が何処に有るのか。
それを理解出来ていないから、認識齟齬が生じる。
ただそれだけの事なのだが。
子供達にとっては致命的・決定的な溝となる。
「…………はあぁぁ~~~~……」
大きな溜め息を吐き、石段に座って項垂れる人影。
母親譲りの金髪と、父親譲りの菫色の瞳。
魏王朝の皇太子・曹真、その人である。
皇都・昌晋に有る皇城、その私邸の四庭の一つ。
皇庭“夏園”だから、誰かの目に入る事は無い。
まあ、家族以外には、だが。
曹真は頭を上げ、高く澄んだ空を見上げる。
まだ夏には早いが、少しずつ暑くなっている。
梅雨が明ければ、本格的な暑夏。
個人的には暑いのが苦手な曹真には憂鬱な季節。
それを考えると更に気が滅入ってしまう。
「……………………皇太子様、かぁ……」
当然と言えば当然の事だが。
生まれた瞬間から、曹真は背負っている。
母である曹操が皇帝になったのは生まれてから。
その為、皇太子には生まれてから成った訳だが。
その辺りの当時の記憶など、本人には無い。
乳飲み子だった頃の記憶──かどうかは曖昧だが、唯一認識出来るのは父である圭森が初めて自分達に“プリン”を作って食べさせてくれた事である。
その時の衝撃は今でも消えてはいない。
勿論、今でも父の作るプリンは大好きだ。
母達も料理が上手いので美味しいプリンを作るが、何故か父のプリンには勝てない。
その事実に母達が拗ねると父は苦労するのだが。
その辺りの詳しい事は、まだ知らない。
それは兎も角として。
物心付く前から曹真は皇太子として育てられた。
──とは言え、それは一般的な皇太子の育て方とは大きく掛け離れていると言えた。
先ず、曹真は長子・長男・長兄としての自覚を強く認識させられる様に育てられている。
同い年である次男・次子・次兄の孫炎とは御互いに支え合い、助け合っているのだが。
孫炎は中央孫家の跡取り息子。
その為、同じ父親を持つ身でも公的には上下関係・主従関係が存在している。
そういう意味では「家族なのに面倒臭い…」が兄弟揃っての率直な気持ちだったりする。
ただ、それでも少しずつ物事を、世の中を、歴史を理解出来る様になると──その意味が解る。
当然ながら、その言動への注目度も高い。
日頃から気を抜けない事は少なからず負担。
しかし、それは仕方が無いのだと判っている。
自分達が背負っている物が何か、どういう事か。
その大きく、重く、尊い責任という物を。
曹真は現在十歳に成っている。
年齢の割りには自主性も責任感も有る。
同い年の一般的な子供達と比べれば圧倒的に優秀。
何しろ、この年齢で氣も使い熟すのだから。
ただ、それらは親から教えた訳ではない。
曹真が自ら考え、望み、教えを請い、だ。
…まあ、そうなる様にと思考誘導されている部分が無い訳ではないのだが。
それは追及する必要の無い話なので。
曹家──と言うよりは、圭森一家の教育方針だが、基本的に実践主義である。
二~三歳位で私邸の家庭菜園デビュー。
四~五歳位で街ぶらデビュー。
五歳辺りで親の手伝いをしながら料理デビュー。
──と、子供達は親と一緒に色々な体験を積み重ね実際に経験しながら知識や技術を学ぶ。
要は“知恵”を身に付け易い環境である事。
それが父親である圭森の教育理念。
そして、実際に成果は出ている。
食材や料理を無駄にしたり、好き嫌いは少ない。
自分で苦労をする事で農家を始め、自分達の日々の生活を支えてくれる人々への感謝と理解を生む。
当然と言えば当然なのだが。
特権階級の者の生活基準・思考基準は庶民から遠く“政治が何の為の物であるのか”を薄れさせる。
その自覚意識を言葉や文字ではなく、実体験により理解しているからこそ、強く刻まれる。
その為、勘違いしている馬鹿な輩は四歳の幼児にも論破されてしまう。
「そんな当たり前の事も判らないとは…」といった評価が付き、二度と信頼を得る事は出来無い。
結果、曹魏の政治・経済界は極めて正常。
古い価値観の政治家や商人は自然と淘汰されていき曹魏の理念に基づいた価値観が根付いて行く。
逆恨みする輩も少なくはないが…其処は怪談話。
「悪い事をすると“闇鬼”に喰われてしまうよ」と子供に言い聞かせる曹魏特有の話なのだが。
決して、嘘でも間違いでもない。
嬉々として──ゴホンッ…粛々と行われる清掃。
尚、悪人は突然死する事が多いのだという。
──とまあ、そんな家庭環境で育った曹真。
だが、それはそれ、悩みや葛藤は少なくない。
「何だよ、兄貴、また悩んでるのか?」
「…“蓮牙”、権義母さんに叱られるよ?」
「はいはい、判ったよ、“華斐”兄さん」
曹真に声を掛けたのは孫炎。
母親である孫権とは逆に根っからの前向き思考。
寧ろ、伯母である孫策の子ではないのかと思われる位だったりする。
──とは言え、孫策の様な問題児ではない。
周瑜や黄蓋に言わせれば「全然素直な良い子」だ。
尚、自覚の有る孫策は決して話には触れない。
そんな孫炎の欠点は曹真との仲の良さ。
つまり、“兄貴”なんて呼ぶ位に親し過ぎる事。
兄弟仲が良い事は喜ばしいのだが。
公私の区別する必要。
その上で、孫権は孫炎に“兄貴禁止令”を出した。
要するに言葉使いの強制矯正である。
…効果?、言うまでもないだろう。
「──で?、今日は何を悩んでたんだ?
街の子達から“皇太子様”とか呼ばれて距離と壁を感じて「やっぱり、違うのかなぁ…」とか?」
「………何で判ったの?」
「……え?、マジでそれ?」
驚く孫炎に、驚いた曹真は肯定の意味で頷く。
二人の間に微妙な空気と沈黙が生まれる。
──が、それを気にしないのが孫炎。
ちょっと大袈裟な溜め息を吐いて見せる。
それは意図した訳ではないのだが。
その反応に曹真は、ムッ…としてしまう。
それが自然と落ち込んだ思考を変えるのだが。
御互いに気付きはしない。
まあ、孫炎は“天然”だから仕方が無い。
「…別に兄貴に限った話じゃないって、それはな」
「………それじゃあ、蓮牙も?」
「ああ、もう何年か前だけどな…
“康窈”も“湊斗”も“紫榑”も…他にも何人かは同じ様な経験はしてるよ」
「……………そうだったんだ…」
孫炎の口から上がった名は順に周瑜の長男・周護、顔良の長男・顔慈、黄忠の長男・黄正。
曹真の歳の近い弟達だった。
こういった気持ちを自分だけではなく、他の弟達も経験しているのだと知ると気分は楽になる。
しかし、その一方で弟達が苦悩していた事に自分は気付いて遣れていなかった事を悔やんでしまう。
それは曹真の生真面目さであり、人一倍弟妹を想う兄としての責任感と愛情が故の自己嫌悪。
だが、そういう気配に敏感なのが孫炎である。
伊達に一緒に育ってはいないし、母である孫権から説教逃れで経験値を稼いではいない。
「けど、俺も皆も兄貴に救われたんだぞ?」
「………………………俺に?」
そう、落ち込んでいるだろう曹真に孫炎は言う。
だが、当の曹真に心当たりは無かった。
少なくとも記憶の糸を手繰っても、そういった話を孫炎達とした記憶は無い。
──と言うか、事前に理解していれば悩まない。
そんな曹真の心中を察してか孫炎は苦笑する。
「あー…やっぱり、判ってなかったなぁ…」と。
曹真もまた、そういう意味では“天然”である。
ただ、二人は方向性が違っているだけで。
その実、御互いを支え合っている。
それは宛ら、圭森の両隣に立つ母親達の様に。
「まあ、その様子だと兄貴は自覚無いんだろうけど当時は俺達も凹んでたんだよ、内心ではな…
その時、兄貴は詳しい事は聞かなかった…
だけど、ちゃんと教えてくれたんだ」
「…………………“自分が、どうしたいのか”…」
孫炎の言葉を聞き、自然と裡から湧き出る言葉。
それを曹真が口にすれば、孫炎は笑う。
「な?、確かに言ってたろ?」と言う様に。
ただ、それは曹真の言葉ではない。
それは幼い頃から、ずっと父が言っている言葉で。
「──────ぁ、そうか…」
記憶と共に、曹真の心にストンッ…と填まる。
そう、自分達は知っている。
幼い頃から、ずっと。
父が、母達が、多くの人達が、教えてくれている。
確かに、自分で考えて生み出した事ではない。
けれど、考える事は必ずしも生み出す事ではない。
自分で考え、導き出す事。
それこそが、何よりも大事であり、重要なのだと。
自分達は疾っくに知っている。
気付いてしまえば、何て事の無い悩み事。
自分だけが特別で、悲劇の主人公みたいな絶望感も勝手な思い込みや勘違いでしかない。
似た様な思いをしている人は居るのだから。
だから、本当に大切なのは“誰か”ではない。
“自分が”どうしたいのか、という事。
曹真は自然と空を見上げていた。
先程と大して変わらない筈なのに。
どうして、こんなにも心地好く思えるのだろう。
その答えは、とても単純。
気付いてしまえば馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう程。
だけど、視野が、思考が狭まっていると気付けず、俯き沈み、彷徨い、孤独感に苛まれるばかり。
其処が、怖くて厄介な心の深淵。
今、この空を見ているのは誰かなの。
そう、自分であり、他の誰でもない。
だったら、それは自分の気持ち次第だという事。
自分の心の有り様で、感じ方が違っているだけ。
たったそれだけの違い。
だけど、意外と大きな違い。
そして、それを示し続けてくれている背中。
そっと、空に向かって伸ばした右腕。
その掌は、まだまだ小さくて、掴める物は僅か。
それでも──そうだったとしても。
確かに、掴む事が出来る存在も有る。
──しっかりと握られた、弟の掌の様に。
「まあ、野郎の手で残念だろうけどな」
「いや、父上じゃないんだから」
「今のそれ、親父が聞いたら落ち込むな」
「絶対に言っちゃ駄目だからね?」
「流石に判ってるって」
敬愛する父・圭森。
その妻数は自分達が幼かった頃から増えている。
流石に今現在は増える気はしないが。
数年前、姉と慕っていた黄叙と劉協が加わった。
まあ、二人──黄叙が圭森を想っている事は子供の二人にも理解出来る程だったから意外ではない。
劉協に関しては当の圭森も含め、意外だったが。
それでも、全ての妻を愛している偉大な父。
二人には異母弟妹が多いが、実弟妹も居る。
それなのに、もう一~二年で母・曹操は父に皇位を譲る予定になっていて、まだ二~三人は産む予定な事を聞かされて知っている。
勿論、それは孫炎も他人事ではない。
母の孫権も、伯母の孫策も同様にだ。
夫婦仲、家族仲は良いのは喜ばしく幸せだが。
少しは考えて欲しいとも思う。
「兄貴って好きな娘居ないのか?」
「…居ないかな、そういう蓮牙は?」
「居たら親父達に紹介して絶対に逃がさねぇな」
「つまり、まだ居ない訳だね」
「そうとも言うな」
そんな感じで話す二人。
孫炎に孫権の、孫策の、孫尚香の姿が重なる曹真は「ああ、成る程ね、孫家の血筋だね」と納得。
まあ、父親にも似ているのだが。
「好きな娘は?」と訊かれた時。
曹真の脳裏には思い浮かんだ顔が有った。
昔、まだ幼かった頃。
各々、一度だけ逢った事の有る女の子達。
一人は歳上、二人は歳下。
初恋──と呼べるのかは判らない想い。
ただ、今でも忘れえぬ、色褪せぬ、大切な記憶。
それだけは間違い無く。
曹真は空を仰ぐ。
軈て巡るは、季の結い。




