すずのものがたり
宜しくお願いします。
遠い昔のお話です。
日本の都がまだ京都にあって、天皇様の周りに多くのお公家さんたちがお仕えしていた頃の事です。
大内裏の中に陰陽寮と呼ばれるお役所がありました。暦や星を見てその日どんなことをするのか決める大事なお役所です。そして誰も知らないことですが、そのお役所に勤める陰陽師たちにはもうひとつの大事なお勤めがあったのです。
それは『あやかし退治』です。その頃の日本はまだ治まったばかりで、化け物たちもまだまだいました。そういう化け物を退治して人々の安心を作るのが、陰陽師たちのお勤めでありました。
その陰陽師の一人に高原徳保という若者がいました。幼子の頃から星を見るのが大好きで、星のことを学べる陰陽寮に入ったのです。
ですが戦いはあまり好きではありませんでした。それどころか化け物とも仲良くなれるはずだといつも言っていました。
しかしお勤めですので、どんな事があっても化け物と戦って倒さねばなりませんでした。彼はそれが悲しくて仕方ありませんでした。そしてお勤めのあった夜は一晩中星を眺めて過ごすのでした。
そのような彼にまたお勤めがやってきました。都の外れにある山奥で猫の化け物が暴れていて山に入れないのだそうです。その化け猫退治に徳保が一人で出かけることになりました。
季節はそろそろ春にさしかかろうとしていましたが、都から北の山を越えて歩けばまだまだ雪に埋もれています。苦労して村にたどり着いたとき、徳保はもうへとへとでした。しかし休むことなく彼は山に入りました。雪深い山はなおさら酷でしたが、村入たちの安心のためです。
山を登っていると、ふと何かが聞こえてきました。声です。声はふたつ。ひとつは猫の声です。そしてもう一方は人の声に似たうなり声でした。
人が襲われている! 徳保は急いで斜面を登りました。途中何度も転げ滑ったりしました。しかし一際大きな声が聞こえたかと思うと、不意に声が聞こえなくなってしまいました。徳保は立ち止まって大きくため息をついた後、また足を進めました。
山の中腹に差し掛かったころ、洞窟を見付けました。その入り口には、まだ赤い色をした血の跡が広がっていました。その血は大きな円い跡を残しながら洞窟の中に入っていきます。
徳保は用心しながらそっと洞窟に入りました。洞窟は人が一人入れるほどの大きさで、奥は深そうでした。血の跡が点々と進んでいます。と、奥のほうからゼエゼエと音が聞こえてきました。
そろりそろりと進んだ先、地面に人の背丈ほどもある大きな猫が倒れていました。その猫の周りに血溜まりができていました。
彼はその猫のそばにそっと近寄ります。猫は苦しそうに息をしています。そしてまだ小さな子が猫のお腹を必死になって砥めています。
「人か・・・陰陽師か・・・」
猫はしわだらけの声でそう言います。
「そうです。一体これは・・・」
「鬼じゃ。鬼がおるのじゃ・・・。大きな傷を負わせてやったが、わしもこの様じゃ」
猫はお腹に傷を負っていました。刀で斬られたようにざっくりと裂けていました。とても助かりそうにはありませんでした。
「陰陽師、ここで出会ったのも何かの縁じゃ。この娘子を頼む。わしの子じゃ・・・」
「娘?」
「そう。わしと、人の間に出来た子じゃ・・・。ここでひっそり育ててきたが、わしはもう死ぬ。人の子として育ててやってはくれぬか・・・」
徳保は少しためらいました。人の姿に似ているとはいえ半分は化け物の血を持つ子を、陰陽師が連れ帰るのは無理な話だからです。ですがこのまま置いて行くのも余りにも哀れです。
「・・・分かりました。この子は連れて帰りましょう」
「そうか、ありがとう・・・ありが・・・とう・・・」
そういい残し、猫はゆっくりと目をつむりました。そして大きく息を吸うと、そのまま動かなくなってしまいました。
幼い子が、母親が勤かないのを見て母の肩を揺らします。その様を見ていると、徳保はいてもたってもいられなくなり、その子をそっと抱き上げました。
彼は猫の弔いを済ませ、子を連れて山を降りていきました。
※ ※
娘は髪が栗色で、頭の上に猫のような耳がちょこんとついているので、一目見ただけでも人ではないと分かってしまいます。
そっと都に帰ってきた徳保は自分の家に娘をかくまいました。家に着いてまず湯浴みをしてやることにしました。
泥だらけで穴あきだらけの服を脱がせたとき、ちりんと音がして何かが床に落ちました。拾ってみるとそれは小さな鈴でした。
「これは?」
「とうちゃん」
娘は舌足らずな声でそれだけ答えます。徳保はひとつうなづいてその鈴を娘に握らせてやりました。
「お前はこれからは人として生きてゆくことになる。だから名前をつけてあげよう。お前は『すず』だ」
娘はしばらく不思議そうな顔をして首をかしげていましたが、不意ににっこりと笑ってから、「すず、すず」と何度も繰り返していました。
徳保は娘に湯浴みさせ、泥や垢を落としました。そして和子の着物を着せてやり、その帯に鈴をくくりつけてやりました。
しかしどうしても髪の色と耳が目立ってしまいます。しばらく思案した後、手ぬぐいを頭に巻きつけてやりました。なんだか邪魔そうにしていますが仕方ありません。
そうして徳保とすずの、新しい生活が始まりました。徳保は役人としては下のほうでしたが、自分とすずを食べさせるには十分な収入はありましたから、それほどの不自由はありませんでした。ただすずのことが明らかになってしまわないか、それだけが心配でした。
不意に客人が来たりした時は慌てて行李の中に隠したりもしました。徳保が勤めにでかけている間に見つかりはすまいかと心配で勤めにならなかった日もありました。
勤めの間すずは一人ぼっちです。外に出て遊ぶこともできません。塀の向こうからは子供たちの元気な声が聞こえてきます。その度に少し寂しい思いをしますが、徳保が家に帰ってくるとずっとそばにいてくれるので安心です。
読み書きを覚えるとたくさんの本を持って帰ってきてくれます。昼間はそれを読んだり紙に写したりして遊んでいました。
春には桜が大いに咲き誇っているのを見に出かけました。夏には都を離れて旅にでました。秋の夜長、美しい月を見ながら二人で歌を詠みあいました。雪で達磨を作ったりもしました。
こうしてあっという間に一年が過ぎようとしていました。
すずは驚くほど早く大きくなり、はじめは徳保の腰までしかなかった背丈も肩に届くまでになりました。顔立ちも整って、それは美しい姫に成長しました。
ただ髪を長く伸ばしてはやれませんでした。長く伸ばせば被り物から出てしまい、髪の色が違うことに気づかれてしまいます。
それにすずの身寄りは徳保しかありません。徳保の勤めが勤めだけに、いつ何か起こるか分かりません。後を託せる者もいないし、また嫁ぐことも容易ではありません。
それを考えると心が張り裂けるほど痛む徳保ですが、それでも毎日幸せに暮らしていました。
※ ※
もうすぐ春が訪れようとしている寒い朝のこと。徳保が出所すると陰陽寮の入り口に、陰陽寮で一番偉いお役人様が立っていました。名前を清明様といいます。
徳保は身のすくむ思いをしながら脇を通り過ぎようとしました。その時です。
「『あやかし』の匂いがするぞ」
突然そう言われて、徳保は思わず立ち止まってしまいました。
「そんなことはございません。きっと『あやかし」を退治した時に浴びた返り血が、まだ残っているのでしょう」
「なにもお前様に言うてるのではないぞ。なにか隠し事でもあるのか?」
徳保は言葉を失ってしまいました。ただ清明様を見つめることしかできませんでした。
「ここでは話し難かろう。奥へ参れ」
清明様に連れられて陰陽寮の奥の部屋に入りました。徳保は清明様の向かいに座って小さくなっていました。
「そう緊張せずともよい。正直に話すがいい」
徳保は観念して、すずのことをすべて話しました。清明様はそのお話をじっと黙って聞いていました。徳保の話が終わってもしばらく黙ったままでした。徳保は生きた心地がしませんでした。
「なるほど、話はよく分かった」
「清明様、すずは私にとって家族も同然、かけがえないものです。私の不徳ではありますがどうか命ばかりは・・・」
「早合点するものではない。大体おぬしが『あやかし』をかくまっていることなど、とうの昔に分かっておった。どんな事情があったかは今知ったが、おぬしのことだ。やむにやまれぬ事情があろうことは察しがつく」
徳保はそう聞いて、思わずひれ伏してしまいました。
「ただまずいことになっている。星の動きが悪い」
そう聞いて徳保は顔を上げました。星は毎日見ているけれども、悪い動きなど全く気づかなかったのです。
清明様の言うには、徳保とすずの身に悪いことが起こりそうであるというのです。
「先程の話だと、そのすずという娘の母は鬼に大変な傷を負わせたようだが、その鬼が近頃また動き始めておる。傷を負わせた者に復讐しようとするやもせぬ」
「どんなことがあっても、すずは守りたいと思っております」
「進んで危地に飛び込むことはなかろう。未申の方角にある葦の原に行くがいい。そこで一年を過ごせばよいだろう。その間、なにがあってもこの都に帰ってきてはならん」
「承知いたしました。では早速旅の支度をして参りたく思います」
徳保は深く頭を下げたあと、足早に家へと向かいました。
徳保は町で旅の支度をした後、家に戻りました。大荷物を抱えた徳保に、すずは驚きを隠せません。
「どうしたのですか徳保様?」
「旅に出ることになった。お前も一緒だ」
すずはなにか察したのか、いぶかしそうな表情を浮かべたのです。
「なにか悪いことでも? もしかして私のことが知られて・・・」
「そうではない。お前は何も心配するな」
徳保はすずの言葉を遮るようにそう言って、奥に入ろうとします。その徳保の袖口をすずはぎゅっと掴みます。しかし見つめたまま口を開きませんでした。
ほんのしばらく沈黙が流れました。不意にすずが手を離します。うつむいたまま立ち尽くしていました。
徳保は構わず、旅の支度を始めたのでした。
※ ※
都から未申、西南の方向は今で言う大阪湾に着きます。その一帯に葦がたくさん生えている場所があり、葦の原と呼ばれていました。
わずかなお金で買ったやせ細った馬に荷物とすずを乗せ、徳保が手綱を引いて歩きます。山を越え、途中の村で休ませてもらいながら二日がかりでひとつの村に着きました。
徳保はこの村に落ち着くことにしました。村の外れにあるあばら家を借り、村の人たちの仕事を手伝うことで村に留まらせてもらうことになりました。
村は近くの海に漁へ出て、わずかばかりの魚を採って生計を立てていました。女たちは畑を作ったり、葦でかごを編んだりしていました。
はじめはなかなか馴染めず、仕事もままならなくて苦労の連続でした。しかし一ケ月もするとだんだんと慣れてきて、夜に星を見る余裕さえ出てきました。
久しぶりに、ふたりで仰ぐ星空でした。
しかし星を見る徳保はいつになく暗い顔をしていました。すずはたまりかねて聞きました。
「徳保様、どうしてそんなに暗いお顔をなさっているのですか?」
しかし徳保は無言です。
「徳保様。なにか私のせいでよからぬことが・・・」
「何も心配するなと言ったろう」
徳保は素っ気無くそう言ったあとすずを見ました。すずは目に一杯の涙を浮かべて徳保を見つめていました。
「・・・すまん、すず・・・。そんなつもりではなかったんだ」
すずはそういう徳保の両手を握りしめた。
「こんなにも荒れてしまって・・・。なぜ、なぜこんなにまでしなくてはならないのですか。私にはなにもおっしゃってはくださらないのですか。少し前まで、なんでもふたりで話し合ってきたのに・・・」
「すず、すず」
徳保はすずの手を握り返しました。
「お前は心配しなくていい、今はそれだけしか言えない。どうしてもだ。すまない。ただ、ただあともう少しだけここにいれば、また都に戻れる。そうすればきっと楽な暮らしをさせてやる。私が必ずお前を守る。だからもう少しだけ、私について来てくれ」
徳保はそう言ってすずの肩にそっと手を回しました。すずは徳保の胸にうずくまるようにしがみつきました。
星は何も言わず、静かに瞬いていました。
※ ※
それからしばらくして、すずがひとり家の中でかごなど編んでいると、不意に明かり取りから一羽の鳥が舞い込んできました。
その鳥は紙で折られた鶴でした。陰陽の術で命を与えられた紙です。家の中にたどり着くと、それは元の手紙に戻りました。すずがそっと開けてみると、徳保の友人からの手紙でした。
そこには今の都の惨状が書かれていました。病が流行り、あやかしが大群でもって都に攻め上ってきます。そしてその全ての元が鬼の仕業だとも書かれていました。
すずはすぐに思い出しました。自分の母親が命と引き換えにして鬼に手ひどい傷を負わせたこと。
やっぱり自分のせいだった! すずはいてもたってもいられませんでした。鬼は傷を負わせた者に復讐しようと都に現れたのに違いありません。すずの中に流れるあやかしの血がそう騒ぎ出したのです。
すずはすぐさま飛び出しました。そしてまっすぐ都へと駆け出しました。早く、早く都ヘ!
途中何度も転んだりしました。頭に巻いていた手ぬぐいがはずれ、すずの髪と耳があらわになります。擦りむいたり着物が泥だらけになっても走りつづけました。走るのにだんだんと手も使うようになり、そして地面を引っかきやすいように爪も伸びてきました。
都ヘ! みんなのために、母親のために、自分のために。そして徳保様のために!
すずは懸命に走り続けました。
昼ごろ、徳保がふらりと家に戻りました。しかしいつもいるはずのすずがいません。床に手紙が落ちていました。友人からの手紙です。徳保はそれを一目見てすぐさま悟りました。
すずは都に行ったにちがいない! 徳保は慌てて外に出ました。今ならまだそう遠くには行ってないはずだ。途中で追い着いて連れ戻さないと!
徳保は連れてきていた馬に飛び乗り、必死になって駆けさせました。
※ ※
結局すずには追いつかず徳保が都に入った頃、もう夕方になっていました。都に入ってすぐ、今まで懸命に走っていた馬がばったりと倒れてしまいました。
徳保は飛び降りてすぐさま大路を駆け抜けました。大路の両脇には病で倒れた人々が横たわっています。そしてまだ動けるものは、大内裏の入り口である朱雀門の方へと歩いていきます。そして口々に叫んでいます。
「あやかし同士が戦っているぞ!」
「猫のあやかしと鬼が戦っているぞ!」
徳保は懸命に走りました。走って走ってようやく、朱雀門にたどりつきました。
その時。
夕日を背中にして、大きな大きな体の鬼が、小柄な猫のあやかしに向かって、右腕を大きく振りかぶりました。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおっぅ!」
そして、右腕が振り下ろされました。
猫のあやかしは勢いに負けて、徳保の方へ飛ばされてきます。徳保はそれをしっかと抱きとめました。
「すず、すずぅぅ!」
「徳保・・・様?」
徳保が抱きかかえているのは、人の背丈ほどもある大きな猫でした。しかし徳保には、それがすずだとすぐに分かりました。
すずはばっさりと斬られていました。そこから赤い血がとろとろと流れていきます。
「徳保・・・様・・・来ては・・・駄目です」
「お前こそ、お前こそなぜ一人で!」
「都の人や・・・徳保様のため・・・に・・・」
「馬鹿・・・」
徳保はすずを強く抱きしめました。
「最期にあなたに会えて、私はとても幸せです・・・」
「最期だなんて言うな! すぐに助けてやるぞ、喋るんじゃない!」
すずは徳保の袖をぐっと引っ張りました。
「徳保様・・・すずは幸せ者です。あやかしなのに、こんなに大切に育ててもらって。でもこんなことになって・・・本当にすいません。そして、今までありがとう・・・ございました・・・」
「最期じゃない、最期じゃないぞ!」
「徳保・・・様・・・。私はあなたを・・・愛して・・・」
「ああ、私もお前を愛している! あやかしだろうがなんだろうが、そんなものは関係ない! 一緒になろう、すず! だから、だから絶対に死ぬな!」
「徳保様・・・」
すずは徳保の胸にぎゅっとうずくまりました。それはまるで、猫が膝の上で丸まっているように、それはそれは幸せそうでした。
「すず・・・すず?」
徳保は呼びかけ、そして何度か肩を揺すってみましたが返事はありませんでした。
やがてすずの体全体が白く輝きはじめ、次第に姿がおぼろになり、不意に消えてなくなりました。
その時、ちりんと何かが鳴りました。地面に鈴がひとつ転がっていました。
「すず・・・」
徳保はその鈴を握り締めました。そしてゆっくりと立ち上がると、鬼に向き合いました。
「たとえ刺し違えても、私はすずの敵をとる! 覚悟せい!」
鬼は身の丈が山ほどもあり、両手には刀のように長い爪が生えていました。筋骨隆々で、人など簡単に潰してしまえそうです。
徳保にはとても勝てそうにありませんでした。しかし彼は仁王立ちになってきっと鬼を睨み付けます。
鬼がひとつ唸りました。それは地面も揺るがすほどの大音声でしたが、徳保はまったく怯みませんでした。それどころか一歩、また一歩と鬼に近づいていきます。
懐からさっと式札を取り出すと、自らの指先を噛んで血で文字を書き始めます。
鬼が徳保に向かって走りより、そして右腕を大きく振り上げました。徳保を一思いに潰してやろうとしています。
「陰は陽と混ざり大極を為す! 火は金を克す! 滅せよあやかし!」
徳保はぱっと式札を放り役げました。それは突然大きな火の鳥に変化し、一瞬のうちに鬼を包み込んでしまいました。
鬼はもがき苦しみながら、霧となって消えてなくなりました。さすがにもう体を元に戻すことも叶わないようです。
それを見届けてから、徳保はがっくりと膝をつきました。
「すず・・・」
徳保はほんの少しつぶやきました。そして握り締めた鈴を見ました。
突然その鈴が自く輝き始め、天に昇っていきました。そしてすずの星がひとつ、きらりと光りました。
徳保はその星を、いつまでもいつまでも眺めていました。
おわり
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