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一冊の手帳を拾った。
僕――島崎 則行は、
ウザったい梅雨の放課後、日直に掃除当番にクラスの副委員長の仕事と、やっとこさ雑務という激務を終え、教室に荷物を取りに帰ったことだった。
すっかり遅くなり、校舎は異様なほど物静かだ。
時刻は7時をまわり、グラウンドを照らすライトの間接光のおかげでかろうじてまわりが見えるのだが、やはり暗い。
下手くそな絵が描かれた青年向けの漫画本くらいのサイズで厚さは日本史の教科書の手帳は、なんの飾りっけもなく、僕の机の足元に転がっていた。
踵で床を蹴り音をたてて歩く、悪ぶった馬鹿な男子生徒により、傷つけられたら教室の床に、焦げ茶色の使い古された手帳はポツンとあり、理由は分からないが、感慨深いものを感じて、しばらく眺めていた。
ふと、この手帳についての情報を得たいという衝動に駆られ手を伸ばす。
持ち上げると、とても重く感じられた。
中をみようとした時、コツっコツっとテンポ160くらいの足音が聞こえた。
巡回の教師は必ず二人組、この足音は1人だった。
僕は直感した。
きっとこの手帳の持ち主であると。
頭では手帳をどうするべきかわかっていたが、
僕はサブバックの最も使うことのない、バックの内側のポケットに手帳を押し込んだ。
サブバックと体操袋をまとめて右肩に掛け、教室のクラスキーを左手に持つ。
足音は近づいてくる。
心臓が高鳴り、梅雨のせいではない嫌な汗がこめかみを伝った。
僕は落ち着こうと、一つ深呼吸をして教室のドアに向かう。
さらに足音は大きくなる。
そうだ、自分は何も卑しいことをしたわけではない。
ありふれた、普通の立ち振る舞いをすればいいのだ、と言い聞かせる。
震える右手をドアの取ってのくびれにかけ、また深呼吸をして、ゆっくりドアをひらいた。
「………」
教室を出て、右に目をやると女の子がたっていた。
「……守秋さん?」
薄暗いこの場所でも彼女――守秋 景のことははっきりわかった。
闇よりも暗い艶やかな黒髪、それと絶妙なコントラストをなす陶器のような白く透明な肌、嫌らしくないくらいの、でも魅力的な胸に、引き締まったウエスト、それを支える丸みをおびた女性らしい腰、服から露出したながく綺麗な手足。
シルエットだけで彼女を判別するのは十分であった。
「びっくりした。忘れ物か何か?」
営業スマイルで話しかけるが反応はなく、彼女は黙って僕のことをみていた。
可愛らしいというより美人という言葉が似合う顔立ちで、桜色の薄い唇は閉じて微動だにせず、こぶりで高い鼻は僕の方を向き、少し釣り目がかった瞳は僕を捉えて放さなかった。
怒っているのか、微笑しているのか、はたまた悲しんでいるのか、
少なくとも、入学式から2ヶ月がたってもろくに口を聞いたことがない僕には彼女の表情を理解出来なかった。
いや、たぶん僕だけじゃなくこの学校の全生徒がそうだ。
彼女が誰かと、円滑な人間関係を営んでいる姿をみたことがろくにないのだ。
数秒の沈黙のあと、彼女は口をひらいた。
「手帳を忘れてしまったの。
島崎くん、見かけなかったかしら」
心臓が激しく収縮するのを感じる。
先ほどの深呼吸の結果など無に帰した。
あの手帳は彼女のものだったのであり、それを今、僕が持っていおり、さらにその持ち主が目の前にいるという事実の恐怖感や緊張感が僕を焼き殺そうとしている。
僕は、すぐさま返事をするのが正しい。
迷ってはいけないのだ。
理由は簡単。
迷った場合は、不信感を相手にプレゼントすることになるからだ。
だが、僕は迷ってしまった。
この相手が彼女ではなかったら僕はすぐさま、返事が出来た。
見かけなかったと。
だが僕はすぐに言えなかった。
彼女が放つ、毒気のようなものにこの空間は包まれていて、僕の行動、観葉植物の呼吸速度、分子の運動さえもが彼女の支配下にあるようであった。
これのことだよね。
そう言ってしまいそうになった。
その瞬前に、僕は彼女のことをもっと知りたくてたまらなく感じ、迷ってしまったのだ。
このまま渡して楽になるか。
それとも、手帳を拉致し、奪い彼女のプライバシーを陵辱するか。
そして僕は後者を選んだ。
「見かけなかったな」
サブバックの表面と観葉植物を一瞥し、再び彼女をみた。
その表情は明らかに笑って見えた。
「そう。なら私は帰るわ」
くるっと踵を返し、歩きだした。
僕は地面に根を生やしたように動けなかった。
守秋は最後にこう言った。
「これからよろしくね、島崎くん」