お年頃
ちょっと書き直しました。あんまり変わらないかな?
「ねえ、ママ、ちょっといいかしら?」
夕飯の支度をする母親は呼び掛けて来た方向に振り向いた。
L字型のリビングは、北側に作り付けられたキッチンの大きな窓から柔らかい光が差し込んでいる。
光の中で、二人は均整のとれた親子の造形を映し出した。
「何?ミヤちゃん」
「あのね、もうパパのお嫁さんになるのは諦めたの」
「あら、そんなこと言ったらパパ寂しがっちゃうかもねえ。でも、ミヤちゃんを世界で一番大切に思っている人ですからねえ」
二人の間に、静かな時間が流れ出した。
少し心配な気持ちを含めて訊いてみた。「何かあったの?」
ミヤは口をへの字にすると、ジッと母親を見つめて話し出した。
「あのね。ママはパパの事大好きだし、パパと結婚したらママ寂しくなっちゃうから。だから私……。クラスに優しい子が居るんだけど、その子の事が好きになちゃったんだ。でも駄目だよねえ、まだそんな事……」
「だって、あなたは……。でも、まだパパには内緒にしておきなさい」
少し素気無い態度で母親は話を打ち切った。
うん、と頷くと、ミヤは目を伏せてまだ何か言いたい様子で唇を噛んでいたが、家事をする母親の背中を恨めしそうに見詰めると、スリッパをパタパタいわせながら自室に帰って行ってしまった。
母親は、食器を洗っていた手を止め、肩を大きく落とした。軽くエプロンの裾で手を拭い、手の甲で前髪を掃った。
溜息が一つこぼれる。
あの子も、もうそんな年頃になってしまったのかと思うと、胸が詰まる思いがした。いつしか交際や、家庭を築きたいと思う事も自然の流れだろうか。この先どう教えてやればいいのか?
そんな気持ちを見透かしたように携帯電話の呼び出し音が鳴った。
「ああ、俺だけど」
「どうしたの、あなた?」
「今日は土曜だしさあ、仕事も早く上がって、近くの駅まで来てるから、食事でもみんなでどうかなと思って」
聞き覚えのある電車の発車ベルが、後ろの方で聞こえている。
「ええ、いいんだけど、みんなで行くの?……」
丁度話したい事はあるのだが、あの子を傷付け無いように話すにはどう話すかなどと、食事をしている三人で話す訳にはいかない。
そんな事情を電話で話すにも何か憚られるような気がして、口篭ってしまう。
「なんか変だなあ、どうしたんだい?」
「二人じゃだめかしら?」声を潜めて話した。
「え、新婚時代を思い出して、二人っきりのデートですか、奥様」
「ちょっと、茶化さないでよ、真剣な話なのよ」
少し声を荒げてしまった。結婚してからこの十七年間、亭主は変わらず鈍感である。まだ向こうでは、くすくすと笑い声がする。
ふと、リビングに入るドアの磨りガラスに人影が映った。
今話していた意味ありげな言葉をミヤに聞かれてはいないだろうか?
「また後で掛け直すから、じゃあまたね」
しかし、慌てて電話を切るのは怪しまれるだろうが仕方が無い、鈍感な亭主に詳しく説明している暇は無い。
「え? 俺は何処に待ち合わせしていれば……」携帯を切った。
振り返ると、まだ磨りガラスに映る人影は動かない。
「どうしたの、ミヤちゃん。こっちに来て紅茶でも入れましょうか」
なんだか様子がおかしい。なかなかミヤは動こうとしない。やはり感付いてしまったから、自分に何を訊くのか思案している最中なのだろうか。
やっと、うっすらガラス戸が開いて来た。
まずはなんて言えば……え、誰?
「あのお、ちょっと……」
「あ、あ、あなたは誰なの」
うわずってしまい、旨く喋れない。
思い出せる人物の記憶を総動員しても該当する顔は出て来ない。
そこには赤いジャンパーにジーンズの、痩せた青年が立っていた。年齢は見た目には高校生ぐらいだろうか?
青年は凶暴そうには見えないが、見た目で判断してはいけない。何といっても勝手に他人の家に入る神経なのだから、まともな筈が無い。
こちらの警戒心を、ことさら相手に知らしめるよりは好意的に接してみる方がいいのだろうか? いや、不審者にそんな態度をとるよりも、やはり常識的には毅然とした態度をとる方がいいだろう。
嗚々、こんな事なら主人と会話を続けていれば、鈍感な旦那でも少しは気付いていただろう。
自然とテーブルの上に携帯電話を置いていた。
でも、よく見て見れば、服装は普通だが、どうにも収まりが悪い。服の中で身体が泳いでいるといった具合に、まるで大人の服を子供が着ているように見える。
お金が無いから、サイズ違いも構わず盗んだのだろうか。
「あなたはどうしてここに居るの? 何が目的なのかしら?」
努めて冷静に、落ち着いて。何が目当てなのかを自然に訊き出して、生活に困っての犯行なら、お金や金目の物を渡して帰ってもらおう。
もし、目当ての物が金では無かったら……。
全身に冷たい物を掛けられた様な悪寒が走った。
「……。」青年は押し黙ったままその場に立っている。
「どうかしたの? 具合でも悪いの?」
喋って間を繋いでいないと恐怖に打ち負けてしまう。黙らせたままだと、いきなり逆上して飛び掛って来るのではないだろうか?
「ちょっとここ、座ってもいいですか?」
なんだか変に落ち着いている。目には切ない光が宿っているようにも見えるが、それがこの手の人間の目付きなのだろうか?
ええどうぞ、と手で促した。
椅子一つを動かすにも力が無い様子だ。こんな泥棒や強盗がいるのだろうか。しかし一体どうやって家に入って来たのだろう?
「僕を見てどう思います?」
「はあぁ……、どう見えるかって訊かれても、まああれよねえ」
こんな時は何て答えればいいのだろう? 相手を怒らせずに素直に見たままを言えればいいのだが、正直に言っていいものかどうか。
「いきなりで、ごめんね」
突然人懐っこいっこい表情を見せた。そして拍子抜けな台詞……。
「え、何に謝っているの、もう何かしたから謝ってるの? 何? 何かしたの、もしかしたら……あ、ミヤ、ミヤに何かしたの? ま、まさかあなた、何をしたの!」
不安を抑え切れない自分とは逆に、答えを知る者の余裕なのか、青年は至って冷静な面持ちだ。
「あの、そのミヤという子についてなんですが、お母さん」
「お、おかあさん? あなたにお母さんなんて言われる筋合いは無いわ。それより娘は何処なの? 娘に何かしたの? ちょっとあんた、何か言いなさい!」
危険な相手な筈が、いつしか怒鳴り付けてしまっていた。
「僕だよお母さん、そのミヤなんだよ。でも、何時も呼んでるミヤビじゃなくて僕はミヤジなんだよ。なんで今になってこんな事を説明したくなったのか自分でも解らないけど、もう僕も十六だし、本当に好きな人が出来たんだ。だからミヤビのふりは辞めて、本当の自分に戻りたいんだよ!」
この青年は何かの告白をしているようだ。
この青年は……、あああ宮司。
宮司を、本当の宮司を何年ぶりに見るのだろうか?
母親である自分でさえ、面影を忘れる程になってしまっていた。
母親の目から大粒の涙が溢れた。
あの日からこの十年間この子は目の前でひき逃げに遭った姉に代わって自身をミヤビだと思い込んでしまっていた。自分を責めて生きて来たのだろう、辛い日々だったはず。
家を引き払う切っ掛けとなった忌まわしい事件。
その日は曇り空にそんな暗示がある様には思えず、ましてや、道路に構わず飛び出す年齢でも無くなっ筈、という思い込みが警戒心を緩めさせていた。
日曜の出不精な父親に代わって遊び盛りな子供たちの面倒をみるのは決まって母親の自分だった。一日中何処へも出掛けてくれなかった事を子供たちは、責め出した。
それでも近くに手頃な公園も無く、学校まで行って校庭で遊ばせるには夕飯の支度もあった為、何処か手頃な場所は無いかと考えた所が、建設中のマンションの脇道だった。
日曜だから車も滅多に通らないだろうと思い、立ち入り禁止のフェンスが目隠しになっていた為、脇道で勝手に遊んでいる者がいる事を隠した。
しかし、それが仇になった。
脇道の中で蹴っていたサッカーボールが弾みで広い国道にまで飛び出してしまい、それを追い掛けて飛び出した弟を、助けようとした結果が悲劇を招いてしまった。
「ミヤジ、ちょっとまって、あ、危ない」
それが、娘の最期に残した言葉だった。
ミヤジは、ブレーキを掛けながら速度を落とした車をかわすように、向うの歩道まで走り抜けた。
弟を追い続けた姉は、反対側から走って来たトラックに一撃されてしまった。
母親である自分でさえ、その事を忘れていた。いや、必死に記憶の端からも追い払い続けていた。
何時しかそれが自然な日常になってしまっていた。
それ程にミヤジはミヤビだったのだ。
目の前に居る青年は紛れも無く息子なのだ。事故で亡くしてしまった姉の存在を自分が代わりになる事で償っていた。
「お母さん……、お母さん大丈夫? 聞こえてる?」
ミヤジは母の肩を揺り動かした。
「お母さんあの時のショックでそれ以来、僕の事ミヤビって呼ぶようになったんだ。着る物も、おもちゃも、全部女の子が使う物ばかり僕に渡すから、仕方なくミヤビになってたんだよ。やっと認めてくれるの? 本当に僕の事、ミヤジだって認めてくれるの? お母さんが治った! もう家で女の子の格好をしなくてもいいんだ、やったあ! やったあ!」
暗く、力無い青年の目に輝きが戻った。
「え? あなたが自分をミヤビだと思い込んでいたんじゃないの? はああ?」
一体、どうしたのだろうか?
私は今まで何を勘違いしていたと言うのか?
ピンポーン! ピンポーン! ピン……、
玄関のベルが拍子抜けに鳴り出した。正解を告げるチャイムにも聞こえる。
青年は玄関に向かって行きながら歓喜の声をあげた。
「お父さん、お父さん! お母さんが治ったんだよ、治ったんだよ!」
「よかったな、宮司! お母さんが戻ったんだな!」
父と息子は肩を抱き合い、今までの苦労をねぎらい合っているようだ。
呆ける母親の眼には、吹き零れる鍋が映っていた……。
親子の関係って複雑ですよね。いたってこの小説は関係ないかも?なんだそれ!