3−4
人は午後が近くなるとさらに増えた。モールのフードコートはすでに人で溢れていて、私と優美子さんはモールの一画にあるカフェに入った。
買いまくってカフェで一息つく。
優美子さんは楽しかった!とご満悦だ。
私も楽しかった。
「昨日、あなたを引っ掛けた浩くんに感謝だわ」
しみじみと優美子さんが囁く。うん、そうだね。
「私も、今朝までは巻き込まれて怒っていたけど、今、すごく楽しいから同じく感謝してるかな?」
怒っていたのは今朝まで。
だってなにがなんだかわからないことが多すぎて怖かったのだ。
なんで見ず知らずのひとを後輩と勘違いしていたのか、とか。
なんで血まみれなことに気づかずに家に連れ帰ったのか、とか。
さらに、話したこともない男の人を、簡単に家に入れてしまった後悔と恥ずかしさ。もしこれが日常と思われていたら恥ずか死ねる。
いつもなら絶対にしない常識外の行動や思い違いをして。
部屋も私も龍与さんまで血まみれになって。吸い込まれるように眠って起きたら知らない場所で。
「今もなんだかよくわからなくて、混乱しているって言えばしているけれど、でもこうして優美子さんと知り合えて、一緒に遊べるの、すごく嬉しいし、楽しいよ」
すっこい美人さんだし、空気が柔らかい。一緒にいるとほんわりと癒される。
趣味も似ているし、話も合うし、優美子さんが恋愛対象なら絶対にプロポーズしているわ。
ただ、私も多分優美子さんも異性愛者なので恋愛対象になり得ないのだけれども。
「私も、あなたと会えてすごく嬉しいわ。本当、浩くんに感謝ね。お土産買って行ってあげようかしら」
「お土産?チキンとか買って帰る?」
「いいわね。私も甘いもの買って帰ろっと。ああ、今日も寮に泊まるでしょう?寮の付近に何にもないから、飲み物とかおやつとか買っていった方がいいかも」
「ああ、山の中だもんね。ねえ、夜中に突然アイスがたべたくなったらどうするの?」
「一応、自販はあるけど、自販にないものとかが食べたくなったら翌朝、しかも誰か車を出してくれる人が来るまで我慢かな」
「ええ。我慢できるものなの?私は我慢できなくて買いにいっちゃう」
「夜中に?危なくないの?」
「特に危ない目に会ったことはないな。あんまり危機感はない」
「下界はいいわねぇ。ウチの最寄りのコンビニは歩いて30分だし、街灯もないから真っ暗で山道…危険しかないわ」
「下界でも優美子さんは絶対に一人でいっちゃだめだよ。危ない」
「なんでよ。危ないのはあなたも一緒でしょ?」
あなたじゃなくて、名前を呼んで欲しいな、とふと思った。
「あのね、あなたじゃなくて私、紀久っていうの。一郷 紀久」
自分の名前は大事にしなさいと祖父に言われていた。名前は自分を形作る肝心なものだから。名乗る時には気をつけなさいと。
ここまで私は一度も、龍与さんたちに名乗っていない。
名乗ってもいいのか、わからなかった。
だって怖かったから。
部屋の掃除を手配してくれた龍与さんや高良さんはすでに私の名前は把握しているだろう。住所まで特定されているのだ、調べるのは容易い。
でも、彼女も彼も私の名前をまだ一度も呼んでいない。だって私は名乗っていないから。
調べて知るのと、自ら名を告げて知り合うのとは大きく違うと私は思う。
その、マイルールに気づいてか偶然かはわからないけれど、彼らは私に名前を聞くことはしなかった。
告げていない名前を呼ぶことも、遠慮しているように感じた。
正直言って、私は龍与さんを信用しきれていなかった。
昨夜のあの酩酊状態はお酒だけの力じゃない。龍与さんの声と彼の血の匂いが私から判断力を奪った。
混乱から抜け出し、冷静になって考えて、あの時の龍与さんの処置は必要なものだったことは理解している。
彼が知らない人だと気がついて、さらに大きな怪我をしていると気がついた時、頼れる彼女の存在がありがたかった。
血だらけのラグと壁の血吹雪で途方にくれた時、彼女の提案はありがたかった。
あの時の私の状態じゃホテルどころかタクシーにも乗車を拒否されるだろう。
私の中に着替えるという正常な選択肢はなかったのだから。
だからあの時、一緒に連れ帰ってくれたことにもとても感謝している。
でも、
あの時の龍与さんの声は完全に私を支配していた。
だからずっと怖かった。
あれは、私の混乱を落ち着かせるための処置だとわかっている。
でも、もう一度あの声で囁かれたら?不本意な提案を、あの声で囁かれたら?
私は従ってしまうかもしれない。
龍与さんは私の怯えに気がついていた。だから優美子さんを伴ってくれた。
私が不必要に怯えないように。
怯える私に、彼女たちの仕事を仄めかしたのも多分同じ理由。
昨日から続く不思議な出来事を受け止められるように。
彼女たちの仕事に巻き込まれたから不思議な出来事が起こったと。
自分たちから離れたら、あなたはあなたの日常に帰れると。
線を引いてくれた。
線を見える形で引いたのは、私自身が不思議な話に慣れていたから。
曽祖母という下地があったからだろう。
そうでなければきっと全力で「不思議」に「日常」という布を覆いかぶせて、見えないようにしてくれたと思う。
まだ、龍与さんに名乗るのは怖い。昨日のインパクトが強すぎたから。
でも、不思議に繋がった優美子さんになら、名乗ってもいい、と思った。
優美子さんは、一瞬目を見張ったあと、花が咲くように笑った。
「改めてまして、私は千鳥 優美子です。
ね、紀久ちゃんって呼んでいい?」
「うん、私も優美ちゃんって呼んでいい?」
「もちろん。優美でも優美子でもなんでもいいよ、呼んでくれるなら。ふふ、恥ずかしいね?」
照れて手元の飲み物をストローでかき混ぜる優美ちゃんはなんというか、尊かった。
これからどうしようか、と話して時間を確認すると結構時間が経っていた。とりあえず、カフェから出ようか、と大量の紙袋をぶら下げて立ち上がる。
龍与さんたちと合流する前にお手洗いへ行こうとすると、優美ちゃんが顔をしかめていた。
まったく、面倒臭い、というぼやきも聞こえる。
なんか、あったのかな、と優美ちゃんの視線の先を追う。
そこには、真っ黒に塗りつぶされた、人みたいなものがいた。
クレヨンで塗りつぶされたようなそれはトイレの入り口にいた。表情は見えないのに、にたにたといやらしい笑みを浮かべているのが視える。
なに、あれ。
喉が潰されたように呼吸が浅くなる。ぐっと心臓が握り潰されたように、鼓動が早くなり息苦しささえ感じる。足元から冷たい何かが這い上がって来る。背中に冷水を浴びさせられたように、怖気がゾワゾワと張り付く。
何あれ。何あれ。何あれ。
視てはいけないよ。何もできないなら、視てはいけない。
祖父の声に混じって、しわがれた女性の声が聞こえる。その声に従って咄嗟に目を逸らす。
大丈夫、私は視えていない。なにも視てはいない。
「え、と、私、文房具ちょろっとみたいな。上の階に付き合って?」
何事もないように振る舞って、私はそこから逃げようとする。
しかし、目の端にあったその黒いものは私たちに気がついたようにこちらに顔を向け、動いた。
ひ、と喉が鳴った。
「紀久ちゃん、落ち着いて?大丈夫だから」
優美ちゃんが穏やかに笑って、私の視界から黒いものが隠れる位置に動いてくれた。
「大丈夫よ。大丈夫。文房具ね?エスカレーターに乗ろう」
優美ちゃんの穏やかな声に促されて私は、それを視界に入れないように歩き出す。
足がもつれると、優美ちゃんは私の手を握ってくれた。その冷たさにホッとした。
「文房具って何を買うの?」
「会社で使う付箋がほしいの」
「ええ?会社の敷地内に住んでる私のこと社畜扱いするけど、自費で会社の消耗品買うのだって結構、畜ってない?」
「だって、会社の付箋可愛くないし、仕事中も癒されたいじゃない。数百円でモチベ上がるんだから、いい買い物でしょう?」
手を繋いで、会話をしながらエスカレーターへ乗る。階を移ればあれも追ってこれないと感じた。
「えっと、紀久ちゃん、大丈夫?」
「うん、なんか、疲れたね」
優美ちゃんが背中をさすってくれる。心臓はまだ速い鼓動を刻んでいたが、息苦しさは落ち着いた。
「大丈夫。あれはすぐ消せるやつだから。面倒臭いからやらないけど。あんなの、今消しったって明日にはまた復活してるし」
私がやると派手すぎて目立つしね、と優美ちゃんが苦笑した。
優美ちゃんが見ている景色ってどんななんだろう。
ふと、思った。
目の端に映ったあれはとても禍々しかった。見てるだけで怖くて、危険だと感じるくらいに。
でも優美ちゃんはなんともない顔であれを無視していた。見えてさえいないように。
「ええ、と、あ、この付箋かわいいね。ご購入!」
私は話をそらす。これ以上踏み込んだらいけない気がした。
しかし、もう見たくない、という私の希望は叶わなかった。
今まで見えなかった黒いモヤがそこかしこにあった。
顔をモヤに覆われて、表情が見えない人。
背中に黒いモヤを背負っている人。お腹のあたりに赤い雲が渦巻いている人。
そこかしこに見えていなかったものがあった。
怖い。
「ねえ、もう、高良さんを呼ぼうっか。疲れちゃった」
私の様子を見た優美ちゃんがそう提案してくれた。怖さで楽しかった気持ちが削げてしまっていた。
「あのね、高良さんと龍与さんが来たらもう見えなくなるよ。怖くなくなるからね。私がやると派手でね、目立っちゃうの。ごめんね」
申し訳なさそうな優美ちゃんに、笑顔を向ける。引き攣っている自信はあるけど、これ以上繕えない。
「優美ちゃんはもう買うものないの?」
「うーんお土産買いたいな。ハンバーガーとチキンとドーナツとアイス」
「ええ?そんなに?全部浩くん?」
「まさか!さすがの浩くんも全部は…いや、怪我している今なら食べれるかも?」
「まじか。ちょっと見てみたいんですけど」
スマホを取り出した優美ちゃんが龍与さんに電話をかけている。
優美ちゃんは手を繋いでいてくれた。それがなんだか安心できた。黒いモヤはまだ見えているけれど。
スマホを切った優美ちゃんは、私の背中を優しい力でトン、とたたき、撫でてくれる。その動きがなぜか安心する。
また、手を繋いで、フードコートへ行こうと促された。
「あのね、二人ともこっちに向かっている途中だから、20分後くらいに合流しようって。フードコートで待ち合わせたからね。それと、私これから、きっと紀久ちゃんが引くほど買うから、荷物よろしく」
「引くほど?どれだけ買う気なの。あ、私もシュークリーム買おっかな」
「うん、買った方がいいよ。本気でコンビニなんてすぐ行けないし。自販はホットスナックとかしかないし。特にクリーム系は飢えるよ」
「なんか同じ市内の話?って聞きたくなるね」
フードコートでの優美ちゃんは無双の体を見せていた。ハンバーガー、チキン、ドーナツ、アイスと次々とけっこういい量を注文し、その隙に私とシュークリームを頼む。
しかも支払いは全て龍与さんのブラックカードだ。この人って…。
「優美ちゃん、人の金で買いすぎじゃない?怒られるよ」
「大丈夫。龍与さんは許してくれるよ。間違いない」
と小首を傾げる。にっこり笑うな。可愛いな。
そうこうしているうちに高良さんたちも来てくれた。
近くにいたらしいのに全然気が付かなくて、声をかけられて初めてその存在に気がついた。とてもとても驚いた。
二人の姿を認識した途端に、目の端に映っていた黒いものは、パッと消えてなくなった。
怖く、なくなった。
高良さんも優美ちゃんの買い物の量に呆れ顔だ。
「優美、流石に買いすぎだ。これ全部あいつらにだろ?愛子さんに怒られるぞ」
「大丈夫。たまにはいいって言ってくれるわよ。多分。私は龍与さんがお土産を買って来てくれるのすごく嬉しかったし、楽しみだったもの」
「にしても買いすぎだ。1日じゃ食べきれないだろうが」
「冷蔵庫に入れたら大丈夫です!それに私滅多にお買い物に行かないもの。たまにはいいでしょう?」
龍与さんが呆れて小言が多くなっている高良さんを宥める。
「いいじゃない高良。優美子が外に出ること事体が珍しいことなんだから。それに今なら余っても浩が全部食べるわよ」
「あ、そのチキン二つ、浩くんのお土産」
「買いすぎよ、優美子。余ったらどうするの」
手のひらを返した龍与さんに優美ちゃんがてへっと笑う。
可愛いのがわかっていて浮かべてる笑顔だ。あざとい。
でも側からみて嫌な気持ちにならないのは、それが家族に向けるような、安心して甘えている顔だったからだろうか。
「もう買っちゃったし。大丈夫、きっと浩くんが食べてくれるわ。三連休で買い物にも行けないもの。今頃お腹すかしているんじゃない?」
「笑って誤魔化そうとして、全く。今回だけよ?それと出す前に必ず愛子さんに相談すること。いいわね」
はーい、と優美ちゃんが幼い子どものような声で返事をした。
高良さんが、まったく、甘いんだからと、龍与さんにも呆れた顔を向けた。
車に荷物を積み込んで寮までの道のりを進める。
歩き疲れからか、優美ちゃんがすぐに寝息を立て始める。龍与さんたちも特に会話もせずに心地よい沈黙の中、車は進んでいく。
車が山道へ差し掛かった。道が狭くなりカーブが続くようになる。ガードレールもない。
曲がりくねった道にちょっと車に酔いそうになった。気分を変えようと窓の外に目を向けると、山道に入ってすぐのところに山の神様の祠があった。
綺麗に清掃されていて大事にされているように見えた。ふいに曽祖母の話を思い出してほっこりする。
気持ちが暖かくなって目をつむると、誰かが頭を撫でてくれた気がした。
着いたぞ、と声をかけられてふんわりと目が覚める。一瞬寝てたわ。
優美ちゃんも寝起きでぼんやりしている。
「優美、荷物は俺が運ぶから、お前はまず愛子さんに相談してこい。みられたらうるせーから」
「うん。紀久さん、またあとでね」
まだ夢の中にいるようなな足取りで優美ちゃんは建物の中に入っていった。
龍与さんの声がしないから、龍与さんも寝てるんだろうな。
「嬢ちゃんの荷物はどうする?俺が運んでもいいぞ」
「いいえ、大した量ではないので自分で。今日はありがとうございました。あの、龍与さんにもお礼を伝えてください」
と高良さんに頭を下げる。
「直接言ってくれる?起きてるから」
龍与さんがふらりと助手席から降りてきた。でも、目が開いてなかった。結構深く眠っていたのかな。
昨日の夜、私が寝た後も二人が働いていたのは間違いないことで。
それなのに買い物に連れ出してくれたんだ。
私は二人に向き合う。
「二人ともありがとうございました。昨日も龍与さんがいてくれて、とても助かりました。一人じゃきっとあの人は助けられなかったと思うから」
人とはちょっと違う特殊技能を持ってるだけの普通の、優しい人たちだ。怖がる必要なんてなかった。
祖父だって言っていたじゃないか。
曽祖母は仕事中は神様かと思うくらい怖い人なのに普段はちょっと抜けたところがある、そこらへんにいるおばさんだったって。
きっとそれと同じこと。
「改めまして、私、一郷 紀久といいます。ほんとにありがとうございました。お腹いっぱい買い物できました!」
龍与さんが、一瞬目を見張って、優美ちゃんと同じように花が咲くように笑った。その顔は、普段は似ても似つかないのに、優美ちゃんとそっくりに見えた。
「紀久さんね。ありがとう…ありがとう」
高良さんが龍与さんの頭を抱き寄せた。
え、やめて。目の前でイチャイチャしないで。
私はペコリと頭を下げると、目についた紙袋を、ぐわしっと持って建物へ逃げた。




