1ー3 浩
拾った男の子=浩くんのお話
お兄ちゃん、と呼ばれた。
舌足らずな幼い声。見つかった、と観念して振り向けばソレは思ったよりも地面に近いところにいた。
痩せ細り骨が浮き出た小さな体は、茶色く変化して、その腕は枯れた細い木の枝のよう。それなのに、腹だけが異様に大きく膨らんでいる。
髪も所々抜け落ちて、幼い子ども特有の大きな頭の形をくっきりと浮かび上がらせている。
右の腕には抱いている、というよりも一体化しているくまのぬいぐるみ。右腕は途中から黒い体毛が生え太く大きくなっていた。その指先は熊の手で鋭く太い鉤爪が時折、かしゃりと音を立てた。
肩のあたりに張り付く、目も開いていない顔だけの赤子が声を張り上げて泣いている。ソレを鬱陶しそうにしながらソレは、お兄ちゃん、とぎょろりとした、大きな眼孔から飛び出そうな白い目を浩に向けた。
「お兄ちゃんはどこから来たの?ここから出られる?」
異様なほど大きな頭とアンバランスな骨と皮だけの体。
幼い子どもがベースになっているであろうその異形は悍ましく醜悪で哀れだった。
「ねえ、お願い。ママを探して。赤ちゃんが泣くの、抱っこして欲しいって。リクもママに会いたい」
このエリアから出られないのは、このエリアのどこかに執着しているものがあるのだろう。
体か、記憶か。
「…ママがいないんだね。おうちは、どこかな?」
乾き切ってねばつく舌に音をのせる。緊張で手が震える。
子どもは怖いぞ、対応は慎重にしろよ。特に大人に殺された子どもは怖い。力じゃ叶わないことを身をもって知ってるから、襲ってくる時は全力で来るんだよ。害意も力もフルスロットルでな。だから慎重に立ち向かえ。
高良の実感を持った助言を思い出す。
あたりに漂い始めた黒い害意がざわりざわりと動き出す。それを乳を吸うように左肩の赤子が取り込んでいく。
「ママ、いなくなっちゃったの。りくと赤ちゃんを置いて。くまちゃんと一緒にいてねって。ずっと帰ってこないの。ずっと待っているのに」
お兄ちゃん、とソレの右手が動いて鉤爪が浩の肩に食い込んだ。ジリジリと遠ざかっていたはずの距離はなんの意味も成さなかった。
肩に食い込む爪が皮膚を破る。
やばい、と焦りが湧き上がる。肩に血の感触。浩の血をこれが取り込めば、事態は一気に悪くなる。
「ねえ、お兄ちゃん、ママを探して。ママが帰ってこないの。赤ちゃんが泣くの。りくもさみしいの」
浩は体に集中して血の流れを止める。
血の匂いに気づかせてはいけない。
もし、これが浩の血の味を知ってしまえば、消さなくてはいけなくなる。
このかわいそうな子どもを、化け物として力ずくで消さなくてはいけなくなる。
楽しいことも嬉しいことも忘れたまま、知らないまま。
悲しいことと辛いことしかわからないまま。
消えてなくなる。
ぐっと痛みで唸り声が漏れた。
肩に食い込んだ爪を押し戻すように肩に力をこめる。
血が流れないよう、血流を一時的に止める。あまり長くは保たない。
鼓動が段々と早くなる。傷から染み込む悪い気がめまいと吐き気を連れてくる。焼き付けるような痛みが肩に集まる。
「ねえ、りくくん」
痛みと迫り上がる胃液が焦りを増幅させた。
「おうちはどこ?おうちにかえろう?」
「おうちはいやだ!!!」
爪が肩から腹にかけて肉を裂いた。
ぐう、という呻めきは飲み込めずに、体と共に地面に落ちる。
焼ける。熱い。炎を押し付けられているようだった。
「おうちはやだ。暗くて寒いの。怖いの。ママは帰ってこないの。だから、おうちはやだ」
炎は身体中を巡り回って焼き尽くす。
浅く早くなる呼吸をコントロールしようとするがうまくいかない。
ソレは、元の長さに戻った爪の先についた血の匂いを嗅ぎ、ペロリと舐めて驚いた。
「甘い」
ぞくり、と死の足音が迫ってくる。
ぎりりと頭を締め付けるのは危機感。
ぎゃあぎゃあと泣く、左肩の赤子も浩の血を舐め、泣き止んだ。
「甘いねぇ」
ぎょろりと、子どもと赤子、4つの目が大きく開き、浩を見た。
太くて大きな腕が、伸びる。
動けない。
死を覚悟した。
「もう、それ以上はダメよ」
あたりに漂うのは、スウと鼻を通る、清涼な木の匂い。少しだけ、湿った土の匂いも混じっている。
「まだ、揃わないの。もう少しだけ、待っていてね」
空気が変わった。
ホッと気が抜ける。もう大丈夫だ、と根拠もなく感じた。安心が痛みを連れてくる。
どくどくと鼓動に合わせて、切り裂かれた傷が主張を始める。
傷を庇うようにうずくまった。
血を止めないと。考えるのはそれだけ。自分の血は怖くて悲しいものを呼び寄せるから。
呼び寄せて、もっと罪を重ねさせてしまうから。
傷に入り込んだ悪い気や澱が痛みを増幅させる。漏れそうになる呻めきを喉に押しとどめ痛みに耐える。
痛みは慣れる。慣れれば動けるはずだ。慣れるまで耐えろ。耐えて逃げなければ、今度こそ喰われる。
ツンツンと頬に柔らかな感触を感じてうっすら目を開けた。
光がそばにあった。花の匂いを纏うソレは、目を凝らすと人の、女性の姿になった。
明るく暖かい光だ。まるで浄化の光のように。
「タ…ムラくん」
誰かと間違えている。でも声を出せなかった。声を出せば血が流れる。
この明るくて暖かい、美しいものを危険に晒してしまう。
「タ‥ムラ君、タクシー止まったよ、頑張って起きて歩いて!」
抱っこはできないよ、といいつつ抱きつくようにして支えてくれる。
柔らかな優しさ。和らぐ痛み。一歩歩くごとに遠ざかる危険。
この人は誰だろう。
なんとなく感じる、強い守りの気配。助けてくれたあの声と似通っているけれど、同じではない。
遠くなりそうな意識を痛みを意識することで繋ぎ止める。まだ、ダメだ。まだ安心するのには早い。今は痛みに慣れて、この人を守れるくらいに動けるようにならなければ。
彼女はまだ自分のことを”タムラ”と呼んでいる。ほのかな酒の匂いも感じるから、酔って見えなくなっているのだろう。
いや、酔いだけではなく多分、浩を覆い隠すような幻視もかかっている。
でなければタクシーになんて乗れない。
隠してくれているのは、きっと、あの声の人
なぜ、と思う。
人ではないものの「無償の善意」など存在しないから。
この後の対価も怖い。
なぜ、浩を助けてくれたのか。浩を使って何をなそうとしてるのか。
ヒントは彼女が握っている。




