5
朝日がカーテンの隙間から入り込んでいる。
鳥の声が、街中より激しい。
前日のような混乱はなく、すっきりと目が覚めた。すごくよく寝た。寝過ぎで少しぼんやりする。
時間を見るとまだ早朝と言っていい時間だ。休みの日にこんなに早く起きた私すごい。
昨日約束した朝ごはんの時間にはまだだいぶ時間がある。よし、風呂に入ろう。
軽くバスタブをゆすいでお風呂溜めて、小一時間。湯上がりのポヤポヤとした頭でまたぼんやりと過ごす。なんて幸せなお休みの朝なんだろう。
そうこうしているうちに、優美ちゃんが朝ごはんを持ってきてくれた、
「今日はね、仕事が入っていて夕方くらいまでかかるの。
談話室の漫画は持ち出しOKだし、一階のラウンジで映画とかも見れるから活用して?
足りないものがあれば、管理人室に連絡してくれれば手配できるようになってるから」
「至れり尽くせりじゃない。大丈夫よ。ネットがあれば暇つぶしできるから」
「あ、お昼はどうしよう、浩くんに頼む?」
「ううん。自販でなんか買ったりするよ」
大体休日で家にいる時は、昼夜インスタント麺かお惣菜かという残念な食生活になるのだ。何にもしないのに朝夕食事が出てくるだけでも特別感で嬉しくなる。
「ごめんね」と恐縮する優美ちゃんを、「気にしないで」と、送り出す。さて、どうしよう。少し動画を見るがすぐに飽きた。テレビも面白くない。散歩するには、天気が微妙だ。
とりあえず、コーヒーでも飲むか、と部屋を出るとエレベーターホールで浩くんと会った。
朝の挨拶を交わす。あれ、昨日のスウェットじゃない。
「どっか行くの?」
「うん、スーツとワイシャツがダメになったから買いに。買っておかないと休み明け困るから」
ワイシャツはボタンを龍与さんが引きちぎって再起不能だし、あれだけ血を吸ったスーツは洗っても匂いそうだ、というかクリーニングにすら出せないだろう。不穏すぎて。
「怪我してるのに運転大丈夫?」
「うん。貧血も治ったし、運転するくらいならなんてことないよ。行くのは近場のショッピングモールだしね」
浩くんは少し考えて、私から視線を外した。
「暇を持て余してるなら一緒に行かない?なんか、奢るよ」
「奢らなくていいから、連れてって!やることないの!」
食い気味で答えたのは仕方ないと思うの。
30分くらい時間をもらい身支度し、寮のシェアカーだという軽自動車に乗り込んだ。昨日の高良さんの車と違って後部座席が狭い。まあ、当然か。運転席側の後部座席に座った私が間抜けなんだ。いや、反対側も狭かったわ。助手席に座ればよかった。
天気の話や普段何してるかなんて話しながら山道を降っている。山道の途中の山の神様の祠を過ぎれば下の国道までもうすぐだ。
山の神様の祠を見て、曽祖母を思い出した私は、曽祖母の話をする。
曽祖母が”おんばあ”だったことを話すと、浩くんは「なるほどね」と深く納得していた。
まあ、高良さんに言わせると「堅気ではない匂い」がするらしいから、納得してくれるなら何より。
曽祖母が山神様の前で踊りを披露した話をすれば、浩くんはいい反応を見せた。
「え、じゃあ、ひいおばあさんも踊らされたの?」
「そうみたい。うちのじいちゃんはいつ山の神様に披露してもいいようにテレビを見ながら練習してるよ」
この間遊びに行った時は、九人組の男性アイドルのダンスを練習していた。キレがよかった。
「そういえば子供の頃、じいちゃんと教育テレビの踊りを踊るの怖かったんだよね。キレッキレで」
指の先までピンとしていて気持ち悪かったのだ。子供相手のダンスではない。
浩くんが闊達に笑った。
連休二日目のショッピングモールは暇を持て余した人で混んでいた。特にフードコートは開店間もないというのにすごい人だった。
心配していた黒いモヤなどの不穏なものは今日は見えずにほっとする。やはりあれは一昨日からの不思議が尾を引いているだけだった。
ふ、と気がつくと浩くんが消えていた、
え、まじで?はぐれた?
「ええ、まじか、浩くんいないじゃない。ああ、連絡先も知らないんだった!」
スーツ売り場でも行ってみる?
「紀久さん」
慌てていると背後から声がした。ビクッと肩が揺れる。振り返ると、薄い浩くんが見えた。薄い。色?が薄い。
「ごめん、同業と歩いている気持ちになってた。えと、どっかで待ち合わせする?あ、ああ、だめだ。会社支給の電話だから、個人的な番号入れたくない…」
「そういう技を使うのはやめてよ。私、一般の人だから。そんなことされたら絶対に迷子になるよ。それとも浩くんが私を見つけてくれるの?この人混みの中で」
ちょっとだけ不安になったせいもあって、言葉の勢いが強くなってしまった。
「ごめん。あんまり人目につきたくないんだよね。見つかると騒ぎになるから」
君はどこぞのげーのーじんですか。
「ファンでも押し寄せるの?ちなみに、私は昨日もここにきたから、今日は浩くんについて歩こうと思っていました。それもまずい感じかしら」
ファンに押しつぶされるのだろうか。
浩くんは、いやいやと首をふる。
「ファンなんていないし、まずくないから。それなら、えっと」
浩くんが喉を鳴らして唾を飲み込んだ。なんだ?ちょっとキモい。そして、ズボンで手をゴシゴシとこすると、私に差し出した。
「手を繋ぎましょう。そうしたら、紀久さんにはちゃんと見えるから」
お、おお物理的な接触ね。けっこう恥ずかしいな?
私はなんともない顔をして、浩くんの手を取った。しっとりしているけど、冷たくて嫌な気分にはならなかった。
手を繋いでモールを歩く。浩くんが気を遣ってくれて、人とぶつかることもない。繋いだ手だけがちょっと違和感。
でも嫌な気持ちじゃなくて、なんか照れる。
「自分で提案しておいてなんなんだけど、すごく緊張する。手汗、気持ち悪くない?」
「大丈夫。わたしもちょっと照れてるから、手汗はお互い様ということで。というか、メンズ売り場は久しぶりにきた。お兄のスーツ選びに付いてきた来た時以来だわ」
「お兄さん、いるんだ?仲良いの?」
「仲はまあ、悪くないよ。年が離れているから、いつまで経っても子供扱いしてくるけど」
「へえ、いくつ離れてるの?」
「ええと、6歳。小さい頃はたくさん面倒見てもらった記憶がある」
「へえ」
メンズのフロアは閑散としていた。
騒がしい中では気にならなかったのに、急に二人でいることに照れというか、恥ずかし味というか、そういうのが込み上げてきた。無言でいることがなんか、なんていうか、無理。
「ねぇ、あのワイシャツ可愛いくない?会社的にOKかNGか微妙なとこだけど。多分うちの会社はNGだな。カジュアルすぎる」
「あ、あの縫い糸がいろんな色のやつ?うちもだめかな。たまにお通夜みたいなとこ行くから」
「お通夜みたいなとこに行くってことはスーツ黒統一とか?」
葬儀屋さんみたいな感じだろうか。
「そこまでではないけど、黒系が多いかな。楽だし」
「ふーん、お店はもう決まってるの?」
「いつもはあの店で買ってるよ」
店に入る直前、空気が変わった気がした。なんというか喧騒が戻ってきた感じ?浩くんがそっと繋いでいた手を離す。
「えと、認識阻害の効果を外したから、手を離すね」
まあ、存在を認識されないんじゃ買い物も不便だもんね。ただ、ちょっとだけ、離された手が寂しいと感じるのは気のせいだろう。
浩くんは店内に入るなり、「二着でいくら」のスーツのところに行って、黒っぽいスーツをサイズだけ確認して手にした。さらに、「お値段、バリュー価格!」のワゴンから3枚セットのワイシャツを手に取る。
あ、うん、そっか。買い物、秒で終わる感じね。
なんかつまらん、と思いながら目についたスーツを見る。あら、これ、生地の織りがすてき。ベストもいいなあ。
なんて、買いもしないのに見てると、浩くんが寄ってきた。あれ、買い物終わったの?
「紀久さん、何見てるの?」
「ん、このスーツ、織がすてきだな、と思って。あと、三つ揃え流行ってるなとか」
浩くんは店内を見る。
「ほんとだ。ベストのついたスーツが多くなってるね」
「ベストがあれば脱いでもだらしがなく見えないからね。あと、おしゃれに見えない?」
「おしゃれ…」
「お客様、気になった商品はございましたか?」
店員さんが横から声をかけてきた。そうだ、スーツ売り場はお客さんが少ないから、店員さんが寄ってきやすいんだった。兄の時もマンツーマンで大変だった覚えがある。
「お手にしているスーツは光の当たり具合によって織の見え方が変わるんですよ。こちらは体にフィットするパターンを使用しておりますので、従来のものより動きやすいお仕立てなんです。ご試着してみませんか?」
おお、グイグイくるな。でも、この濃紺のスーツ、浩くんに似合いそうなんだよな。ちょっと着てくれないかな。
浩くんが私を見た。そして、二着でいくらのペラペラスーツを元の位置に戻すと、店員さんに向き直る。
「じゃあ、着てみます」
「はい、ではこちらのシャツをお使いください。試着室はこちらです」
浩くんは、私が気に入ったスーツを持って試着室に消えた。
ちょっと嬉しい気がする。
試着室のカーテンが開くと、ちょっと自信がなさそうな浩くんがこんな感じだけど、と言った。
うん、やっぱり似合う。
「似合うよ!やっぱり、この生地、素敵だね.。似合っていてすごく素敵!あ、でもちょっと裾が短い?」
「裾を伸ばすこともできますよ。15分ほどお時間をいただきますが」
「浩くん、体が何気に厚いね。鍛えてるの?すごくスーツが映えるね、スタイルがよくてカッコいいね。そのスーツもすっごく似合う」
「…ありがとう。その、寮じゃやることないから筋トレしてるんだよね」
「ああ、あのプチジム…やけにマシーンが充実してるなと思ったけど。ねえ、ジャケット脱いでみて!ああ、やっぱりベストいいねぇ。色気が出るね」
「いろ…。それはわからないけど、着心地は数段いいし、いつものスーツより動きやすいよ」
「そちらのスーツは、風の通りも良い生地となっておりますので、今時期から初夏まで重宝いたしますよ。彼女さんのいう通り、昨今は三ツ揃えも人気がありますし、お客様の体型にもよく映えますね」
彼女に間違えられた。
浩くんと顔を見合わせて、どちらともなく否定した。
「「彼女…では」」
「失礼しました。仲がよく見えたもので」
店員さんは私たちの焦った声を軽く流してくれた。
浩くんは、じゃ、これ、買います、と謎の宣言をして試着室のカーテンを閉めた。ずるい、逃げた。
私も、スーツを見るフリをしてそそくさと店員さんから離れる。店員さんはすかさず試着室の浩くんに声をかけ、裾の長さを測っていた。ああ、お直しは必要だね。
ああ恥ずかしかった。彼女ヅラしてるように見えてたら軽く死ねるわ。…うざがられてないよね?
お直しに一五分ほどかかるというので、本屋などをぶらぶらすることにした。なんとなく、さっきより手を繋ぐのが恥ずかしい。繋ぐけれども。
「ねえ、スーツはあれでいいとして、ワイシャツは選ばなくてよかったの?」
結局ワイシャツはバリュー価格だ。
「うん。ワイシャツこそ消耗品で、すぐダメになるから高いのは勿体無いんだ。事務所じゃあまりジャケット着ないから。暑いんだよね、事務所」
「そうなんだ。山の中だから涼しいのかなと思ったけど」
「冷たい風は入るんだけど、暑苦しい人が多いからかな、暑いんだよ」
「なにそれ。どういう原理なの」
「うーん、うまくせつめいできない」
見ればわかるけど、見たら引くよ、と浩くんが大真面目に言った。だから、どんな理由なのそれ。
スーツを受け取って買い物は終了。レジに行く前に、一着でいいの?と聞くと、耳元で、一着で予算オーバーなの、と囁かれた。
…まあ、ちょっといいスーツだしね。
耳元の囁きにドキドキなんてしてない。してないったらしてない。
「えっと、そろそろお昼だね。食べたいもの、ある?」
「考えてなかった。簡単にバーガーとかにする?」
「いや、しばらくファーストフードはいいです。てか匂いでキそう」
あ、昨日の優美ちゃんのお土産ね。まあ。あれだけ食べたらそういう感想になるよね。確かにあの量はみているこっちまで胸焼けしそうだったもの。
ショッピングモールのレストラン街も混み始めていて、外に出ようかと相談する。でもその前に身だしなみを整えたいと手を離した。
目の端に映った、真っ黒い、影。
ああ、そうだった。レストラン街のトイレ。昨日もアレはここにいた。ニタニタと笑ってそこにいたのに、どうして忘れていたんだろう。
一度認識してしまうと、もう見ないフリはできなかった。アレも私を見つける。
怖い。
「紀久さん、落ち着いて。大丈夫だから」
浩くんがもう一度私の手を握ってくれた。
それでも、真っ黒く塗りつぶされたそれは消えてはくれない。
それどころか、私に気がついて近づいてくる。
ずるずると黒い何かをひきづって、近づくごとにその色は濃くなっていく。
怖い。どうしよう、怖い。
見えない目が私をみている。
怖い、いやだ、怖い。
息苦しさに胸元をグッと握った。
「大丈夫だよ、紀久さん」
浩くんが私の手をぎゅっと強く握り直した。
「でも、怖いよね。仕方がないよ。怖いものは怖い」
浩さんはそう言って私の手を握ったまま黒いものを目指して歩き始めた、やだ、怖い。
アレも私に近づいてきている。私たちもアレに近づいている。
怖いやだ、行きたくない。
しかし、足は私の意思を無視して、浩くんに手を引かれるままアレに近づいていく。
「こんなの、キリがないんだけど」
浩くんは、それに触れた。
黒いソレは溶けて、消えた。
「え?」
「もうないよ。大丈夫。でも、この人混みだから、明日にはまた固まっちゃうけど。
…もう怖くないでしょう?」
急に消えてしまったことへの驚きと少しの混乱で浩くんの手をぎゅっと握った。
「浩くん何をしたの?」
「消したの。こういうことが俺たちのお仕事ですから」
浩くんが少し寂しそうにくすりと笑った。
アレが消えて、さっきまでの身の危険を感じるような怖さはなくなった。けれどなんだか気味が悪くて、フロアを一つ降りる。
浩くんと手を離すのは怖かったけど、怖いことから解放された膀胱さんが我慢を許してはくれなかった。
浩くんは手を離した後も気配を消さずに私を待っていてくれた。
怖くて慌ててトイレから出た時、浩くんの姿を確認して、ほっとして涙がちょっとだけ出た。
「やっぱりああいうのいつも見えてるの?」
また、手を繋いでモールを出る。
浩くんが、黒いアレに慣れた感じだったので興味本位で聞くと、怖いのに聞くの?と苦笑された。
「ああいうのはどこにでもいるから、気にしないっていうか、目に入らないかな。それより紀久さん、何か食べたいものはないの?」
「…なんか無性にお出汁が食べたい。蕎麦とかうどんとか」
「了解」
今度は間違えずに助手席に乗った。軽自動車でも、前の席は広々としていて快適だ。後部座席には買ったばかりの浩くんのスーツが私の代わりに席を陣取っている。
朝は曇天だった空も、今は快晴で気持ちがいい。ドライブがてら隣町まで車を走らせることになった。日差しが気持ちいい。
一昨日とんでもない出会い方をしたというのにテンポよく会話が進む。楽しい。
40分くらい車を走らせて着いた蕎麦屋さんは程よく混んでいたが、あまり長く待つことなくお店に入れた。
古い木造の建物で、太く黒く光るハリが天井を支えているのが見える。
店内にはジャズが静かに流れ、しっとりとした雰囲気だ。
「おしゃれなお店だね。落ち着いてるし、こういう雰囲気好き。よく来るの?」
「俺も初めてきたんだ。ネットで見つけたんだけど、気に入ったんならよかった」
少し安心したような微笑に、胸が跳ねたのは気のせいだ。
蕎麦粉スイーツまで美味しくいただいて大満足だ。ここは浩くんが奢ってくれた。付き合ってくれたお礼だそうだ。ありがたくご馳走になった。あとで、何かお返しをしよう。
店を出ると、店の前にはたくさんの人が並んでいて、「タイミングがよかったんだね」と話し合う。
ここのお店は駐車場がちょっと遠いのが難点かな。
でも腹ごなしにはちょうどいい距離。朝、強かった風もおさまって、日差しはうららかで暖かい。
繋いでいない手がちょっと寂しいのは、モールでずっと繋いでいたからだろうか。
手、繋いじゃおっかな、とか、でもチョロいと思われるのは不本意だなとか、酔って男を簡単に連れ込む女とか思われてたらしんどいとか。
気がついたら矢印がおかしな方向に向かっているのに気がついて、考えを改めるように首を振る。
それはあまりにチョロい。
浩くんは助けてもらったと感じて私によくしてくれている。
私はただただ、「寝てる」「ハブられ同士面倒見てやろう」なんて、勘違いに勘違いを重ねて、しょうもない後輩の面倒を見るつもりで連れて帰っただけだ。
それを、浩くんも龍与さんも、優美ちゃんまで、私に、というか私の背中にいるかもしれない存在に助けてもらったと思い込んでる。
ただの偶然かもしれないのに。
浩くんも龍与さんも、お礼のつもりでこうして接してくれているんだから、勘違いをしてはいけない。
それに怖い。
昨日今日と今まで見えなかったものが見えた。
これから彼と会うたびにアレが見えたら。そのうち一人の時にアレが見え始めたら。
そう思うと怖い。
見えても何もできない。声も聞こえない。ただ視るだけなのに、今日みたいに近づかれたら?私には対抗する手段がない。
「紀久さん?眠くなった?」
口数が少なくなった私を浩くんが覗き込む。それに首を振って答える。
「日差しが気持ちいいよね。堪能してた」
「紀久さん猫みたいだね。ね、これからどうする?天気もいいしもう少し遠出しようか」
「いいねぇって浩くん怪我人じゃない。休んだほうが良くない?」
「大丈夫、大丈夫。体は頑丈だから」
その時、浩くんの電話が鳴った。龍与さんからだ、という彼の呟きに、ああ、もう終わりかな、と思った。
案の定、もう掃除が終わったという連絡だった。電話を代わると、一番手こずると思われていた壁の血吹雪がすんなり落ちたため、清掃が予定よりも早く終わったと報告された。
「もう、部屋には帰れるわ。でもね、私、今少し忙しくて。今日は体が空くのが夕方になっちゃうの。だから予定通り、明日一緒に確認に行きましょう?」
不意に心が頑なになった。
彼らと私を交わらせていた部屋の掃除は終わった。
たくさんのお礼をしてもらった。
それなのに、まだ私は過剰な謝意を消費するの?
忙しい人の手を煩わせて。
怪我人に暇つぶしを手伝わせて。
怖いものを見る勇気もないくせに、視えることが日常のこの人たちとまだ一緒にいたいと願うの?
怖いものに対処するすべもないのに。
彼らに全てを任せてそばにいるの?
それってただのわがままなんじゃないの?
「…あの、確認って龍与さんがいないといけませんか?」
「ううん、そんなことないわ。あなたの確認があればそれでいいわ」
「それならこれから確認に向かって、そのまま家に帰ります。あまりお世話になるのは心苦しいし」
「そんな、ウチは全然構わないのよ?あなたがいてくれた方が優美子も喜ぶし」
「いいえ、家でやりたいこともありますし」
彼らと繋がり続けることはお互いにいつか負担になる。優美ちゃんとも浩くんとも龍与さんとも、「好き」の気持ちのまま離れたい。互いが負担になって関係が荒れる前に線を引き直そう。
頑なな思いは言葉も頑なにする。
「そう。優美子が残念がるわね。でもそういうことなら五十嵐くんに連絡しておくわ」
電話を切って浩くんへ渡す。
「えっと、」
「部屋の掃除が終わったんだね。今日はもう寮に泊まらないの?」
「うん。明後日から仕事だし。いろいろやらなくちゃいけないこともあるし」
いくらチョロくても、ここでちゃんと線を引き直してお別れすれば、きっと日常に紛れてすぐ忘れるだろう。
話していて楽しいと思った気持ちも。
胸が高鳴った瞬間も。
手を繋いだ時の安心感も。
全部忘れられるだろう。
「だから申し訳ないけど、お家まで連れて行ってくれる?」
「うん。それはもちろんいいけど」
「お手間をかけてしまうけどお願い」
「とんでもない。先に迷惑をかけたのはこっちなんだから気にしないで」
帰り道は、さっきよりも拳ひとつ分距離が遠くなった、気がした。




