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フワフワとしたほろ酔いが気持ちいい。若手職員の親睦会で、緊張する先輩も欠席で。
気持ち良く杯を重ねた一次会が終わり、私はフワフワとした足取りでお手洗いに入った。他の席でも一次会がちょうど締める時間でお手洗いは少し混んでいた。
ひと足先に用を済ませた同僚に、「二次会いくの?」と聞かれる。
「もちろん」と頷いて答える。楽しいお酒だったしね。このまま、楽しい気持ちでもっと酔っ払いたい。
同僚は、「店の前で待っているね」と先に出た。
個室を出ると、トイレにはもう誰もいなかった。自分の後にも数名待っていたのに変なの、と思いつつ、化粧ポーチを取り出してリップを塗り直し、酔って火照った上にてテカっている額の油をオフして粉を叩く。これで見苦しくはないだろう。
居酒屋の中もなんだか静かだ。先ほどまでの喧騒が嘘のように、まるで誰もいないかのように静まり返っている。変なの、と思いつつ店を出るが誰もいない。
居酒屋の前には待っていてくれると言っていた同僚も、他のメンバーもいない。あたりを見渡すと向こう岸に子どものような影が見えたが瞬きをすると消えた。
なんで誰もいないの?と首をかしげてスマホを確認しても、二次会場の連絡どころか解散の連絡も来ていなかった。
ひっどい。ハブられた。
一瞬、ムッと怒りかけて、急激に悲しくなる。
みんなひどい。置いていくことないじゃない。楽しいお酒が一瞬でパアだよ。ひどい。
酔いも手伝って泣きたくなった時、店の前の街路樹の根本に誰かが寝ているのに気づく。よく見ると飲みのメンバーにいた子に似ている気がする。そうだ、一番年下のなんとか君。お酒が大好きな先輩の隣で、先輩につられてパカパカとグラスを開けていた子。なんだっけ、タカムラだかタケムラだかタなんとかムラ君。
彼を見つけて、なるほど、と納得する。
要は押し付けられたんだ。酔い潰れて寝てしまったこの子を。
ひっどいなぁ。この子も私もかわいそう。
仕方がないな、と寝ているこのそばにしゃがみ込んで、肩をツンツンと指先で突つく。
ぐっすり寝ているのか反応が薄い。相当酔ってるな。一言も発せずに丸まっていて、肩先から頬へ突つく位置を変えても反応は薄かった。
どうしよっかなぁと思いつつ少し様子を見るが、眉間にしわを寄せて眠っている。吐きそうな様子もないけれど、起きる気配もない。
この時、私はどうにかしていたんだと思う。
普通なら疑う急性アルコール中毒の急の字も、反応がない時点で呼ぶべき救急車の救の字も頭に浮かばなかったのだから。この子がただ眠くて寝ているだけだと思い込んでいたのだから。
「タ‥ムラ君、起きれる?私、タクシーつかまえてくるー」
さらに頭がイカれていることに、この子を、「男性」であるこの人を連れて帰ろうと決めた。
しかも、だって寝てるし、という理由にならない理由で。
「タ‥ムラ君、タクシー止まったよ、頑張って起きて歩いて!流石に抱っこはできないよー」
抱き付くように起こしたタムラ(仮)君を見て、タクシーの運転手さんは一瞬嫌な顔をしたが、ドアを開けてくれた。
密着したタムラ(仮)君からは甘くて頭がぼうっとするようないい匂いがした。
タムラ(仮)君に住所を聞いたが答えてくれない。仕方がないなぁと自宅の住所を告げる。
タムラ(仮)君の甘くて良い匂いが車内に漂って、フワフワと気持ちが浮かぶ。このほろ酔い状態が気持ちいいんだよねぇ。てかいい匂い。どこの香水かなぁ。なんて呑気に取り留めなく考えているとあっという間に自宅に着いた。
さて、タムラ(仮)君はどうしよう。住所も言わずに眠り込んでいる。
まあ、こんなに酔っているし、一人で動けないみたいだし、襲われることはなかろうて。安全圏だよね。
私は優しい先輩だから、酔い潰れた後輩の面倒も見てやるさ。今日初めて見た、とか、話したことない、とか関係ないね。部屋に着いたら、床に転がしておけばいい。客用布団なんて気の利いたものはないし、ベッドは私のものだ。
支払いをして、配車ナンバーの書いたカードを一枚もらう。
感じの良い運転手さんだった。運転も丁寧だし、酔っ払いだからと言って遠回りもしなかったしね。なんか、不思議なことに結構遭遇するんですよ、なんてわけわからんこと言ってたけど、まあいい。次は指定してもいいかな。いつになるかはわからないけれど。
タムラ(仮)君を二階のアパートの部屋までひきづって運ぶ。寝ていると思ったタムラ(仮)君は肩を貸すとどうにかこうにか足を動かしてくれた。えっちらおっちらと階段を二人三脚のように登ってどうにか部屋に着いた。
「きったくー!タムラ君靴は脱いでよー。てか明日タクシー代、半分もらうからね!今日はタクシーで帰るつもりはなかったんだからぁ」
お酒は飲んでも飲まれるな、だよ、もういい年なんだから自分の飲めるちょうどいい量を把握しなきゃだめだよ、そのうち痛い目に遭うんだぞ、と説教しながら、玄関の鍵を閉めた。
今の時期、玄関とリビングを仕切る扉を閉めないと少し寒い。
タムラ君をラグの上へ、と腕を引っ張るとタムラ(仮)君が「うっ」と初めて言葉を発した。
「やだ、そこで吐かないでよ?そのラグお気に入りなんだから!トイレ、いける?それともバケツ‥」
オロオロとタムラ(仮)君を見て、違和感を感じた。
あれ?タムラ(仮)君のジャケット、肩とか胸のとこ、破れてない?え?引っ張ったとき、私破いちゃった?そんな怪力だったっけ、私。
それにシャツの色がおかしい。えりと見頃の色が違う・・赤黒いその色はなんで?
「っ」
喉が詰まる。
タムラ(仮)君の肩口を濡らすのは、もしかして、血?
タムラ(仮)君は酔っているんじゃなくて‥ううん、これは、誰?
ざっと目の前が晴れる感覚。部屋に転がる見知らぬ男性。しかも怪我をしていて血が。
「す、み、…ん」
男性がうっすらと目を開けた。よかった、意識がある!
その顔は蒼白で多くの血が失われているのがわかった。
「ポケット、スマホ…」
「ポケット!?ジャケットね?」
私も冷静ではいられなかった。じわじわとラグを汚していく黒(赤)が怖くて。死が身近に忍び寄っている気がして。
彼のジャケットのポケットを弄る。すぐにスマホを探り当てる。
「な、な、4、さん、きゅ」
弱い彼の声に導かれるようにスマホのパスコードを入力する。
「た、つよ」
「たつよさんに連絡すればいいの?」
彼がこくりと頷いて、目を閉じる。その顔は白く、眉間には深いしわ。額には脂汗が浮いていた。
私は彼に言われた通り、連絡先を開き、「龍与」をタップする。ワンコールののち、
「浩!?あなた、今どこにいるの!」と大音声の女性の声がスマホから響いた。
その大声にパニックになりかけて、私はあわあわと口を開く。
「あ、あの。彼、道に寝ていて、それで」
「え?あ、あら…、いいえ、浩の番号だわ…あなた、どなた?」
「あ、あの怪しいものではなくてって、居酒屋を出たら、彼が、寝てて」
「落ち着いて。ごめんなさいね。…おお‥彼は、居酒屋で拾った彼はそばにいるの?」
女性の声が落ち着いた深い、ベルベットのような声質に変わる。
「は、い。あの、ひどい血で、怪我…」
「そう、彼は怪我をしているのね。大丈夫よ、落ち着いて。彼は、話ができる状態?」
どうしよう、わからない。そもそも彼は生きているの?
混乱した私は彼の耳にスマホを押し当てた。
「た、つ」
彼が言の音を発する。その声音に滲むのは安堵。会話らしい会話はない。吐息のような同意と不同意。
彼が少しだけ目を開けて、私に向かってうなづいた。もういいのだろうか。
「お嬢さん?」
スマホから龍与さんの声がして、私は耳にスマホを押し当てる。
「ありがとう。状況はわかりました。これから彼を迎えに行きます。もう少しだけ彼を匿っていただけますか?」
「か、匿う?」
不穏な単語しか入ってこなかった。もしかして関わってはいけない界隈の人だった?この怪我…抗争?頭の中で某少年漫画のヤンキー同士の殴り合いのシーンが繰り広げられる。
え、私巻き込まれるの?
「ええと、そうね、15分、いいえ、私も行くわ。だから30分、なにもせずに待っていて。あなたが彼のためにできることは見守ることだけ。いい?誰がきても、絶対に玄関も窓も開けてはいけない。開いている窓はない?あったら閉めて鍵を閉めなさい。そうしたら大丈夫。なにも怖いことはない。怖いものは入って来られない。彼はただ転がしておけばいい。あなたは、私が行くまで彼を見ていればいい」
電話から聞こえる深いベルベット。その声が、大丈夫と囁く。彼をただ見ていればいいと。大丈夫と囁かれるたびに、そうしておけば大丈夫だと強く思うようになる。
「お願いね?」
スマホは切れていた。
大丈夫、大丈夫と龍与さんの深い声が脳内を駆け巡ってる。
窓は、開いていない。鍵はかかっている。玄関も、内扉も閉まっている。ええと、ええと、あとはそうだ、彼を見るんだ。
彼を見ると、彼はうっすらと目を開いた。顔色は悪いし、額には脂汗。痛いのかな?痛いに決まっているよね。傷口、応急処置とかしなくてもいいもの?ううん、龍与さんは転がしておけばいいって、でも
「…」
「え、なに?」
彼が囁きをこぼした。聞こえずに耳を寄せる。
「、ご迷惑を、すみません」
ほんとだよ、という言葉はごくりと飲み込んだ。
彼は再び目を閉じ眉間にしわを寄せて、深い呼吸を繰り返す。
彼だけを見ているのに疲れて、ラグに目を落とす。
ラグに付いてしまった血液は取れるんだろうか。お気に入りなのに。薄いクリームイエローで、家具屋さんで一目惚れして、お兄に「汚れが目立つ」と言われたけど買ったやつ。ほんとだ、血の赤黒い色がすごく目立って…最悪だ。
これ洗剤つけて叩いたら落ちるのかな。やってみよ…ううん、だめだ、彼を見てなきゃ。だって洗剤を取るためには脱衣所の扉を開けなきゃならない。だけど扉は開けてはいけないっていわれた。怖いものが来るかもしれない。
彼を見る。
脂汗。気になる。拭いてあげようか。カバンからハンカチを出す。ハンカチの匂いを嗅ぐ。大丈夫、酒臭くない。
額を拭こうと床に手を着くとグシャリと濡れた感触。血が落ちているところに手をついてしまったようだ。服にも血が付く。ハンカチで、服を、手を拭く。取れない。甘い匂い。頭がぼうっとする。甘い、いい匂い。もっと嗅ぎたい、舐めてみたら、甘いのかしら、例えば傷口に口を寄せて…。
ブー、と床に放っていた彼の携帯が震えた。
ハッと目が覚めて手に取ると、画面表示は「龍与さん」
慌ててタップすると落ち着いたベルベット。
「着いたわ。お家は202号室で良いかしら」
「はい、」
立ち上がり、玄関の鍵を開けようとして、「たつよさん?」とスマホに囁いた。
了承の声がスマホからも外からも聞こえたことに安心して玄関ドアを開ける。
ドアの前には、赤とオレンジと紫と黒が混沌としたブラウスを着た女性が立っていた。大きな白い丸いピアスが目に入る。
「夜分にごめんなさいね…あなたも血まみれね」
そう言って龍与さんは、柔らかな指先で私の頬を撫でた。
龍与さんは私の部屋を見るとふう、と大きくため息を漏らして肩をすくめた。そして、私に微笑むと私をきゅっと抱きしめた。
「ありがとう、私の大事な子を隠してくれて。これが外だったらと考えるとゾッとするわ。中に入っても?」
うなづくと龍与さんは私の手を引いて彼に近づいた。玄関の扉も内扉もきちんと閉める。閉めなきゃ怖いものが入ってくる。入ってこないように、しっかりと閉めなくちゃ。
龍与さんは彼の元へしゃがみ込んだ。彼の耳元で何かを囁く。微かにうなづいた彼に、少し眉を寄せると、いきなり龍与さんは彼のジャケットをはだけさせ、シャツのボタンを豪快に引きちぎった。ボタンが何個か飛んだ。
え、すご。驚くまま素直な感想が出た。
「ちょ、龍与さん!」
焦った彼が叫ぶと、血がびゅっと出て壁に血吹雪が飛んだ。最悪だ。
視界に入った傷は深い。肩から袈裟懸けに二本の深い、‥爪痕?
血に塗れたその傷は、ピンク色の肉が見えていて、ぐっと胃から迫り上がってくるーー
「うるさいわね。あらあらあら、派手にやられたわね。‥抉り取られてる‥喰われてるんじゃないわよ、この馬鹿タレ」
龍与さんが彼の頭をスパン、と叩いた。
怪我人の、しかも割と重傷な人の頭を、いい音がするくらい、いい勢いで。
血が再びぴゅっと飛ぶ。壁にもう一つの赤いシミ。
迫り上がって来ていたものが、食道の前で、ストンと胃に戻った。
え?この人、怪我人を叩いた。
「そんなに垂れ流すんじゃないわよ。汚いわね」
「ひどい!必死に、止めてんのに、刺激したのは龍与さんでしょ!」
「ほら、また出た。もうだらしがないわね」
だらしがないって、血って自分で止めたり出したりできたんだっけ?ていうか、この壁の染みどうするの…。え?マジですか…。
龍与さんは深いわざとらしいため息をついて、彼のスマホを操作し始めた。
「パスコード…なんで…」と彼の深い悲しみが聞こえた。
「あ、高良?うん、結構重傷で自力歩行は無理。あと、浄化と清掃を手配してもらえない?部屋の中も大惨事」
血の海なのよ、と龍与さんが困ったように笑った。
電話を切った龍与さんは私に向きあった。
「あのね、よく聞いて?」
深いベルベット。耳に心地良い声音。
「この部屋、血だらけでしょう?とても不衛生だし、壁の血も床の血も早く掃除しなきゃ落ちないわ」
深く微笑む龍与さんの口元を見つめる。
紫に近い赤の口紅が笑みの形で歪む。
「この部屋はこの子のせいでこうなった。そうでしょう?」
転がる彼を見てうなづく。連れ込んだ私も大概だけどこんな惨状になるなんて予想できるわけがない。
龍与さんの声がさらに優しげに深まる。
「だからね、ウチが責任を持って綺麗にするわ。でも、ひどく汚れてしまったから。すぐには終わらない。わかるかしら」
ぼんやりとうなづく。この汚れてしまった部屋を元通りにしてくれるのなら、なんだっていい。ラグも綺麗にして、壁も綺麗にして、…全てを元に戻して欲しい。
「それに、あなたにもあの子の血がついて、ひどく汚れているの。血がついたスマホを使ったのね、頬にも髪にも服にも血がついてしまっている。汚れているわ」
私は自分の手を見る。乾き始めた血が手のひら全体に広がっていた。
「だからね、あなたも綺麗にするために、私たちと一緒にきて?あなたが私たちときてくれている間にこの部屋は綺麗に、元通りにしておくわ。
大丈夫。私に任せておけば、大丈夫。困ったことも怖いことも何にもなくなるわ」
龍与さんに任せておけば大丈夫。
フワフワとした頭で私は、龍与さんの紫に近い赤い唇を見つめる。
「わかってくれて嬉しいわ」
龍与さんが私を抱きしめてくれた。ひどくひどく安心する。
「ねぇ、今日はどうやって帰ってきたの?彼が一緒だったから大変だったでしょう?」
「そう、タクシーを捕まえたの。あら、乗った車がわかるの?ありがとう、助かるわ」
「あと寄ったところはない?」
「居酒屋って栄町のあのお店?」
「そこで彼を拾ったのね」
畳み掛けるような龍与さんの問いにフワフワと答える。なんでも話さないと。龍与さんに任せておけば、だいじょ
ブーとスマホがどこかで鳴った。
床に転がっていた彼のスマホだ。
龍与さんがそれを拾い上げて耳に当てる。
「あら、高良、玄関開いてるわよ。え?開かない?」
龍与さんが、内扉を開けて鍵を確認する。鍵は開いていた。龍与さんは私を見て今までとは違う表情でにっこりと微笑んだ。
「ねえ、私の連れがきたんだけどお家に入れてもいいかしら」
「危なく、ないのなら」
大丈夫よ。と龍与さんが請けおってくれるなら大丈夫なのだろう。うなづくと、かちゃりと玄関の扉が開いた。がっしりとした体格の男性が入ってくる。
誰?
浮ついていた思考がスーッと沈む、
「おお。開いた」
「守りが強いのかしら。…解けちゃったみたいだし。大丈夫よ。この人は担架だから」
担架?
どういうこと?
俺の扱い雑じゃね?と言いつつ、男性は部屋へ上がり込み、転がっている彼の側にしゃがみ込むと意外と丁寧な仕草で彼のシャツをはだけた。
「随分と派手にやったな。ボタン飛んでんじゃないか」
それは龍与さんの仕業です、という言葉を、彼も私も飲み込む。彼が私の方を見て、へにゃりと笑った。顔色はまだ悪いし、痛そうだけど、安心したのか表情が柔らかくなっている。
「ああ、俺にもわかるくらいベッタリ邪気がひっついてる。傷が塞がらないのは当然だな。よく頑張ったな。俺にはちょっとしか散らせないし、もう少しがんばれ」
邪気?
疑問は口に出せない。龍与さんが、深く笑っていたから。紫色の唇が少し怖い。
「‥喰われてる、か」
何に食べられているんでしょうか、彼の体は。
聞ける状況ではない。
ただ、あまり状態が良くないのはわかる。
担架と呼ばれた男性は、そっと、優しい手つきで転がる彼を軽々と抱き上げた。
横抱きで。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「課長‥」
「喋んな。血が出るだろうが」
「でも、これは…ない」
お姫様抱っこで抱き上げられた彼は両手で顔を覆った。
「仕方ないわよ、だってあなた歩けないでしょう?おぶったら傷にさわるし、担架で運んだら目立っちゃうじゃない」
龍与さんの肩が揺れている。声にも笑いが滲んでいる。
おっさんに姫抱っこされている青年、てのも大概目立つよなあ、とぼんやりと考えていると、両手で顔を隠しながら、その指の隙間からこちらを見た彼と目が合った。彼がガックリと肩を落とす。
「…ひどい。これは、ない」
まあ、ないよりのないだよね。
彼の弱々しい抗議はまるっと無視して龍与さんが振り向く。
「さあ、私たちも行きましょう。この部屋は掃除して綺麗にしておきます。」
行くってどこへ?部屋を掃除してくれなくちゃ困るけど、ついていくのは怖い。だって私は、龍与さんがどこの誰かも知らない。何処からきたのかも、何者なのかもわからない。
「いえ、あの、掃除は明日にしてもらって、私はホテルにでも行きますから。」
どこに連れて行かれるのか怖い。
だって不穏な単語。
匿う。喰われた。ひどい傷ーーたくさんの血。
この人達は信用できるの?わからない。わからないなら逃げなくちゃ。
龍与さんの紫色に近い赤が、笑いの形に歪む。
「いいえ、いけないわ。だってあなたも血まみれで、そんな格好じゃホテルにはいけない。もう、夜も遅いしホテルも取れない。この部屋で過ごすのは不衛生だし、怖い物がくる…」
ゆったりとふかく、龍与さんの声が響く。柔らかく美しい、声。
甘い匂いが近づく。彼の血で染まった龍与さんの手が私の頬を包み込む。
甘い匂いに頭がクラクラする。深いベルベットに酔っていく。
「大丈夫。元通りにするだけ。何も心配なんてない。大丈夫よ、さあ、行きましょう?」
龍与さんに手を引かれて部屋を出た私は、血まみれの彼と同じワゴン車に乗った。
車内には甘い彼の血の匂いが充満している。フワフワとした思考がさらに鈍る。
大丈夫、龍与さんに任せておけば大丈夫。
私は根拠のない大丈夫にひどく安心して眠りに落ちる。
龍与さんと高良さんの声が耳の端で聞こえた。
「随分と守りが強いみたいだな」
「ええ。効きづらくて手こずったわ。でも守りが強いのはいいことよ」
「おい、浩、お前は寝んなよ。血が出るから」
「おれ、怪我人なのに‥」
血まみれの彼の扱いが雑だな、と寝落ちする寸前に思った。




