7話 地獄の谷に沈む鬼
会議室の入っているオフィスビルを出て駅に向かうと、道端の自動販売機の横に、電柱にもたれかかるようにして立つ人影が目に入った。
「エリ先輩……」
待っててくれたんだ。慌てて駆け寄ろうとして、立ち止まる。ネクタイは緩み、いつもの完璧な七三分けは、無造作にかき上げたのか崩れている。缶コーヒーを片手にうつむいている先輩は、私よりずっと背が高いはずなのに、いつもより小さく見えた。
彼は私に気付くと、顔を背けて、小さな声で呟く。
「ああ芦尾……今日はもう帰っていいぞ」
そう言ったきり、ポケットに手を入れ、再び地面に目を落としてしまった。これはきっと、あれだ。『やる気がないなら帰れ』という意味だ。私は今試されている。ここで本当に帰ったら、失望されてしまう。
「そういう訳にはいきません。ちゃんと謝らせてください。私が余計なことをしたばっかりに……お役に立てず、申し訳ありませんでした」
手を前で重ね、改めて頭を下げる。それでも先輩は怒鳴らなかった。言葉にされないというのが、こんなに怖いなんて。
しかしエリ先輩は、「いいから」と言った後、手をポケットから出した。その手に握られているコーヒーの缶を、こちらに差し出している。
「え………?」
固まっていると手を引っ込められそうになったので、おそるおそる両手で受け取った。先輩が飲んでいるのと同じ、ブラックコーヒーだった。冷たさの失われたその缶の無骨なプリントが、私の目に焼き付いていく。
「お前は悪くない。全て俺の失態だ。みっともない姿を見せてしまったな」
「…………そんなことないですよ…だって、資料がなくても先輩は、記憶だけで数字を出して、滞りなく進められていたじゃないですか。むしろ評価された場面だったと思います。私のデータ管理が甘くて……」
「そんなことはどうでもいいんだ」
低くつぶやいたあと、彼は空を睨みつけた。私も後を追うように見上げると、夕暮れで赤く染まっていた空に星がちらつき始めていた。
先輩は時折私を見るが、ひたすら足のあたりで視線を彷徨わせている。口を開きかけ、何かを言おうとして、またやめる。
口を挟まずに待っていると、ようやく声が聞こえてきた。
「お前は俺の下で働くのにうんざりしているか?」
「え?」
「芦尾は、よくやっている。でも、俺はお前の上に立つべき人間じゃないかもしれない。上に匂わされているんだ。あと一人俺のせいで辞めたら、なんらかの処分が下ると」
「ちょっと待ってください、何の話ですか」
エリ先輩は、私と同じ柄のコーヒー缶を口に運ぶが、上の空なのか一向に飲もうとしない。
「芦尾、うちの会社は部署異動の希望が通りやすい。俺はやり方を変えることはできない。今からでも人事にかけあってみるんだな」
「どうしてそうなるんですか?」
話が見えない。先輩、USBのことで落ち込んでいるんじゃないの?
「……どうして芦尾は、俺にUSBを渡したんだ」
「どうして?それは……」
エリ先輩が失敗するところを、見たくなかったから。
「俺だったら、いつも怒鳴りつけてくる上司のミスなんて助けようとしない」
「……」
「今日はよく分かった。学びが足りないのは、俺の方だ。俺の下にいたら、お前の良さは活きない。あの場にいた全員が、そう言いたげな目をしていた──」




