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5話 大失敗


 当然、緊張などしている様子はないと思われたエリ先輩の額に、わずかに脂汗が浮かんでいる。あれ、と思って視線を向けると、その手がスーツのポケットに伸びたり、ジャケットの内側をまさぐったりしていた。彼の視線は発表者に向いて真剣に聞いているように見えるが、両手はせわしなく何かを探っている。


 まさか……忘れ物?


 察した途端、私の体にも緊張が走った。先輩が、何かを忘れた。きっとどこかに入れて持ってきたはずだと、必死で探す手元を祈りを込めて見守る。


 しかし、先輩が落ち着くことはなかった。私は誰にも気付かれないように、ほとんど口パクで話しかけた。彼のことだから、私なんかに心配されるなんてプライドが許さないのは百も承知だった。それでも、見捨てることもできなかった。


「……どうされました?」


 先輩は私を睨むように見下ろしたが、唇を少しだけ動かした。


「……USBがない。あれだ。参考資料2のグラフが入ってる、黒いの」


「え……」


 グラフといえば、昨日まで先輩がずっと作っていた、今日いちばん重要な資料ではないか。何やってるんですか、という言葉は飲み込んだけど、先輩以上に動揺を隠せずにうろたえた。どうしよう。もう次なのに。先輩が恥をかいてしまう。私にできること、できること────


 その時、自分のペンケースが目に入った。なんとなく開けてみると、そこには私のUSBがある。確か先日、編集を手伝えと押し付けられたグラフが……保存されていたはず。


「これ使ってくださいっ」


 ピンク色のマイUSBを差し出すと、先輩はパチパチとまばたきをした。戸惑ったような顔で、「でかした」と言って受け取った。


 や……やった。初めて先輩に褒められた。でかした。でかした。でかした。4文字の言葉が頭にこだまする。エリ先輩はいつもの冷静さを取り戻し、いよいよ自分の番になって、席を立った。


 営業マンとは思えないほどの仏頂面だけど、理路整然とした完璧な発表に、さすがだなと感じる。でも、ただぼーっと感心しているだけではいけない。


 今日の私のミッションは、最後の質問タイムで手を挙げることであった。話を理解していないとできない芸当だから、集中しなければいけない。先輩は私のUSBをパソコンに差し込み、大画面に映し出されたファイルを操作しながら資料を読みあげた。


「──ではここで、参考資料をご欄くださ……」


 先輩の手はそこで止まった。理由は彼の操作中の画面がそのままスクリーンで見えているから明白で、どんどん私の血の気が引いていく。


 フォルダには、確かに資料があった。しかし何度も編集したそのグラフが、私がつけた『こんどこそ最新②』『完成版1』『最新②1』といったタイトルたちのせいで、先輩にはどれが本物の最新版なのか判断することができない。もちろん、私にも分からない。


「……これじゃないな」


 いつも言われていた。データを保存するときは日付を入れろ、と。


 それを無視した結果の恥を、私の代わりにエリ先輩がかいている。無言のまま秒単位でファイルを開いたり閉じたりする気の毒なマウスポインタを、スクリーン越しに全員が見守る謎の時間が経過していった。中には、ニヤニヤと顔を見合わせて笑い出す人もいた。


 この地獄のような状況で私は、さらに恐ろしいことを思い出してしまう。結局完成したグラフは私のパソコン本体に保存したということを。



***



 最終的に、先輩は資料を提示することができないままとなった。持ち前の対応力でなんとかその場をやり過ごし、注意こそ受けなかったものの、明らかな失態に会場全体の冷ややかな視線を浴びて終了した。


 私の隣に戻ってきた先輩は、私を見ようともしなかった。今怒らないということは、後で大爆発が起きるのだろう。これまで誰の発表に対しても鋭い質問を投げかけていた先輩は、自分の後は一言も発言しなかった。


 ……終わった。


 きっとこう言うだろう。「これなら忘れたと言った方がマシだった」と。開始前より冷たい空気になるなんて予想だにしていなかった私は、残りの時間をお詫びの言葉を考えることに費やした。





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