【おまけ】ドキドキ☆新入社員歓迎会
仕込みは完璧だ。薄暗い居酒屋のどの席からもよく見えるように、今朝自宅で油性ペンを使って大きく、はっきりと書いておいた。
やるなら本気でやるべきだ。恥ずかしがっている場合ではない。ここでひと笑いぐらいとらねば、新入社員としてこの飲みの席に貢献できまい。
なにしろ俺は、営業部に配属されたのだ。客にもこういうことをする日がいつか来るのだろう。今夜がその第一歩、というわけだ。
他のやつらは何をしている。ネタのひとつ用意できないで、よくもこの場に来れたものだ。俺たちはもてなしてもらう側ではないのだ。社会に踏み出したのだから、文字通り腹を決めるべきだ。
「エリちゃん、営業研修凄く優秀だったみたいね」
「ええ、おかげ様で」
同じ営業所の1年先輩の女性社員、里中さんが向かいの席で言った。ここに来てもエリちゃん、か。彼女だけでなく、入社して1か月しか経っていないというのに、社内ではすでにこの呼び名が定着してしまった。
自己紹介をするといつもこうなる。幼い頃からのことだから慣れてはいるが、本当は軽々しく名前で呼ばれるのは気に食わない。俺の衿という名の持つ意味に敬意を払ってくれる者など一人もいなかった。言われるのはいつも可愛い、愛らしい、そればかりだ。
しかし、会社という場所で自分を出すにはまだ早すぎる。やや不本意だが、しばらくは受け入れていかねばならないのだろう。
乾杯のビールが半分ほどになったとき、一瞬全員の会話が途切れた。社長と目が合う。すでに頬が紅潮している。何か言いたそうだ。まだグラスは空ではないから、これは違うことを俺に要求していると読み取る。
分かっている。しらけること自体が新人としての失態だと言いたいのだろう。我々は場をつなぎ、盛り上げ、上司や先輩方に気持ちよく飲んでいただくためにいる存在だ。社長に向かって、大きくうなずいて見せた。
一発、かましてやるか。
残ったビールをぐいと飲み干し、ネクタイに手を伸ばした。するりと引っ張り、ピンと張ってから額に巻きつける。
随分と練習したものだ。結び目が綺麗にこめかみのところにくるように、鏡の前で何度も調整した成果が今、発揮される。
「エ、エリちゃん……?」
里中さんの言葉を合図に、その場の全員が視線をこちらに向けた。その中には同期の楠本もいる。
のんきに飲みやがって。同じ営業としての勝負はここから始まっているんだ。いつまでも学生気分ではいけないのだということを、今から俺が教えてやる。
俺はワイシャツを脱ぎ、中の肌着も取り払った。今日の仕事中に消えてしまっていないかと不安だったが、良かった、今朝書いた顔はしっかりと俺の腹で笑っている。
俺の腹を見た途端、空気が変わったのを感じた。勇気ある新入社員の行動に、誰もが感心している。こいつはひと味違う、期待の新人だと、唾をのみ込む音まで聞こえてくるようだ。
腕を背中にまわして、仁王立ちになる。全員が俺に釘付けになったことを確認して、俺は────腹を捻らせた。
ヘソは一番動かしやすいから、口に見立てた。どこの筋肉を動かせばどんな表情が作れるかは勉強済みだ。まるで生きているかのように、俺は必死に体を捩じって数分間、渾身の芸を披露してみせた。
俺はあまりに真剣だったために、何か言葉にすることも、自分自身の表情を作ることも忘れていた。そして──誰一人笑っていないことにも、気がつかなかった。
予め決めていた順番通りの表情を作ったあと、俺は呼吸を整えながら、大きな達成感とともに辺りを見渡した。そういえば、歓声が聞こえない。
目の前の席の里中さんは、コホンと咳払いをして、カルアミルクを一口飲んだ。
楠本はどうだ。俺の一歩抜きんでた才能に悔しがっているはずだ。しかし、奴は間抜けにも口を半開きにして、ただ俺を見上げるばかりだ。
どうしたんだ?反応を期待していた者たちがことごとく俺から目を逸らす。この後は社長が立ち上がり、手を叩きながら俺を称賛する算段だったが、それもない。
10秒ほどの沈黙が続いたところで、全身から汗が噴き出した。認めたくないが、まさか──俺は滑ったのか?
誰か何か言ってくれ。座るに座れず立ち尽くす俺に、ようやく所長が口を開いた。白髪まじりの髪に、物腰の柔らかい所長の、気遣いに満ちたその一言が、俺にトドメを刺す。
「……うん。ありがとう、エリくん」
この瞬間、俺は自分がやらかしてしまった事を知った。楠本の顔を見ることができない。所長の言葉をきっかけに、温かい拍手が送られる中、俺は言った。
「……すみません。私のことは、獄谷と呼んでください」
後の歓迎会は、記憶がない。




