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恋は襟を正してから〜鬼上司の不器用な愛〜  作者: プリオネ
第四章 寂しさを越えて
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最終話 恋はエリを正してから


 帰りの階段は暗く、ロングスカートでは少し怖い。

 

 そろそろと降りていると、先を行っていた先輩が振り返って手を差し出した。


 私は一瞬ためらい、自分の手をそっと重ねる。どきどきしてしまって、逆に危ないような気さえしてくる。足元に集中できなくて、踏み外してしまいそうだ。それでも、彼の手の温かさを噛み締めながら、一段一段足を出していった。


「芦尾に頼みがある」


 残り数段になったとき、先輩は言った。


「……なんでしょうか」


「俺も……その、名前で呼んでいいか?」


 驚きのあまり、立ち止まる。先輩が私のことを、り、梨子って呼ぶってこと……?


「ダメです!恥ずかしいです」


 全力で首を振る。想像しただけで、卒倒しそうだ。


「……俺の気持ちがようやくわかったか!」


 先輩も、心なしか赤くなっている。私は急に、今まで自分がしてきたことがいかに厚かましい行為だったのか、突然思い知らされた。


「うう……では、私は今から獄谷さんって呼びます……」


「どうしてそうなるんだ」


「もう少し時間をください」


「ダメだ。お前にも恥ずかしい思いをさせてやる。り……」

 

 そこまで言って先輩は、止まってしまった。


「はい」


「……り……」


「……あと一文字ですよ」


 少し期待したのに、先輩はギブアップした。


「……もう少し時間をくれ」


「ええ!?なんだったんですか」


「うるさい!行くぞ」

 

 ぎゅっと手を掴まれて、引っ張られるようにして歩く。


「先輩の手、あったかいです。照れてるんですか?」


「いい加減にしろ。芦……芦尾梨子は本当に、生意気だ」


 フルネームときた。私は空気を壊すように、大笑いしてしまう。エリ先輩は私を思い切り睨んだけど、旅館に着くまで、その手を離さなかった。


 社員旅行が終わる。帰ったら私は、第一営業所を離れる。


 もう、今までのような直接的な上下関係はなくなる。先輩の営業活動への同行もないし、隣同士の席で一緒に残業することもないだろう。それはとても寂しいけれど、私たちはその先へと進む。



 "漆黒"に配属されて、よかった。




***



 休日を利用した社員旅行だから、翌日からさっそく通常業務だ。この激しい落差が、多くの社員を沈ませた。


 私の異動先はすぐに発表された。出勤するなり所長に呼び出され、話を聞き、自席へ戻る。この内容を一秒でも早く伝えたくて、私の足はやや駆け足気味になった。


「せ……先輩……里中さん……」


 私が小さく声をかけると、パソコンに猛烈な勢いで何かを入力していた里中さんと、鞄に資料を詰め込んでいたエリ先輩は手を止めた。


 所長からの正式な発表は午後のミーティングでされる予定だけど、そんなものを待っているつもりはなかった。


 私は、頬をかきながら、半笑いで言った。


「私の、異動先ですが……経理部だそうです……」


「経理……?」

 

 里中さんが、ぽかんとした表情でこちらを見つめる。


「はい……」


 エリ先輩は、あれほど怒鳴らないと言ったのに、腹から声を出した。


「……同じフロアじゃないかっ!!」


 私たち第一営業所は本社に併設する。総務や経理といった管理部の部署と同じフロアに並んでいるため、異動と言えど席替えで遠く離れた程度の距離だった。


「すみません!!」


 もはやお決まりの流れになってしまった私たちに、慌てて里中さんが人差し指を立てて小声で注意した。


「しっ!他の人に聞こえちゃう。梨子ちゃん、関東のどこかじゃなかったの?」


「はい。営業部で調整がつかなかったというのと、ちょうど経理が人手不足になっていたからみたい……です」

 

 私は苦笑いで答えた。経理業務も知っている営業事務を育てたいという方針だと、所長から聞かされた。いずれはまた営業事務として戻るそうだ。


「そうなんだ……良かった、良かったね、獄谷君」


 里中さんは笑顔でうなずき、小声でエリ先輩に言った。


「……芦尾」


「はい、エリ先輩」


「経理との接点といえば、経費精算がメインだな。俺は今まで以上に活動を広げるから、その分件数も増えるだろう。覚悟しておけよ」


ぎろりと睨まれる。


でも、その目つきが──ゆっくりと柔らかくなっていく。


私も嬉しくて、嬉しくて、憎まれ口を叩いた。


「先輩こそ、怒鳴り声が経理の島まで聞こえてこないことを祈っています。もうパワハラ告発なんてされないでくださいね!」


 そう言い返すと先輩は、返事をする代わりにジャケットの襟を整えた。









終わり





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