46話 もう逃げはしない
振り向けない。
「……営業に行くから、ですか?」
私はこの瞬間まで、部下として振舞った。
でも、その瞬間──強い力で引き寄せられ、後ろから先輩の腕に包み込まれた。
「……そんなわけないだろ」
エリ先輩は、私をきつく抱きしめた。その低い声は今までで一番近くで聞こえ、彼の鼓動が、背中に伝わる。
もう我慢ができない。ずっと思っていたことを、ずっと見て見ぬふりしてきたこの気持ちを、伝えたくなった。彼の腕に手を添え、絞り出すように声を出した。
「私、先輩のことが……」
「ダメだっ!!」
突然の大声に、私の肩はびくりと張り詰め、カラスが一斉に飛び立つ羽の音が聞こえた。
「……真後ろで怒鳴らないでくださいよ」
「俺が言うから、黙ってろ」
「はい」
私はつい吹き出してしまった。先輩ってば、本当に声が大きいんだから……
先輩が息を吸う音が聞こえる。呼吸の震えが耳に届き、私は先輩の腕をぎゅっと掴んだ。
「……俺は、芦尾がいなくなるのが、辛い。それはここまで育ててきた部下だからと言いたいところだが、もう、そんな言葉に逃げるのはやめだ」
「……はい」
「今となっては異動は止められないが、このまま見送ることもできそうにない。最後まで上司でいられない俺を、許してくれ」
先輩の腕に力が入る。
私はこくりと頷いた。私も今度こそ、まっすぐに受け止めることができる。
「好きだ、芦尾」
先輩の声が体中に染み込んでいく。
聞きたかったけれど、聞かない方がいいと思っていた言葉。
この先も一緒に仕事をするために、このままでいようと、何度も思った。
でも、この脈打つ胸がその答えだ。私も仮面を外す時が、きたようだ。
「エリ先輩。私も────」
最後までは言い切らせてもらえなかった。
突然向きをまわされて、すぐに先輩の顔が近づいた。
先輩の腕の中で、私は目を閉じた。
「……後で楠本さんに謝らなきゃ」
恥ずかしさから、すぐに会話を始めた。
「あいつは分かってるだろ。俺のところにも連絡来てたから」
先輩は、私ではなく目下に広がる景色に視線を投げている。
「ふふ、楠本さんには敵わないですね」
笑うと、むすっとした顔になった。
「……異動先が埼玉だったら許さないからな」
「それは私が決められることじゃないので許してくださいよ」
「楠本には絶対にやらないぞ」
エリ先輩の、楠本さんに対する一方的なライバル心のようなものがおかしくて、私は笑顔になる。
「ですから、私は大じょ……」
軽く笑いながら言おうとすると──もう一度抱き寄せられ、今度は体が反り返るほど深くキスをされた。
「俺が大丈夫じゃないんだ」
「ん……」
柵に押し付け、せきを切ったように私を求める。
「芦尾、好きだ、好きだ……!」
全身を包み込み、密着していてもまだ足りないと私を掻き抱く。まるで、ここから見える街のどこかにいる楠本さんに、見せつけているみたいだ。
先輩に怒られた今までのどんな場面よりも、心臓が激しく高鳴る。私は身を委ね、何度も唇を重ねた。
「芦尾。俺の……俺の恋人になってくれるか?」
エリ先輩は、今度は私から目を逸らさなかった。
初めて聞く彼の真っ直ぐな言葉が、熱い眼差しが、私の胸を満たす。
だから私も、言わずにはいられない。
聞いていただけますか?ずっと、思っていました。
厳しいけれどついていきたくなる背中が、
過去に向き合い、変わろうとする決意が、
言葉より行動で示してくれる、その姿が。
「はい。エリ先輩……大好きです」
目を閉じた私に、再び口づける。唇を離した時、彼は聞こえないくらいに小さく「ありがとう」と、言った。




