35話 矢が飛んできた場所
エリ先輩はまず里中さんに視線を送った。そして2人の営業さんを見たあと、最後に目を赤くさせた私と目を合わせた。低く、よく通る声が、しんとした空間に響いた。
「お騒がせしている件です。通報が────通報者本人によって取り下げられたそうです。内容の信ぴょう性が薄かったこともあり、今回は不問ということになりました。ご迷惑をおかけしました。今後とも、よろしくお願いします」
そして、頭を下げた。
「本当ですかっ!」
立ち上がり、思わず大きな声で聞く私に、エリ先輩の顔は少しだけ緩んだ。
「ああ。これからも、厳しくいくぞ」
「ちょっと獄谷君、それじゃ意味ないからほどほどにね」
里中さんが、優しく笑いながらたしなめる。
「……はい」
素直に頷くエリ先輩を、私は目頭を熱くさせて見つめた。
「先輩……!!」
白川さん、取り下げてくれたんだ……!
体中に満ち溢れる喜びを、抑えきれない。先輩はいつもと変わらない表情だけど、私には分かる。いつもまっすぐに上がっている眉毛が、今日はわずかに緩やかな弧を描いている。全てを貫く鋭い瞳が、柔らかく朝の光を反射している。
エリ先輩以外の営業さん──田中さんと茂木さんが彼をどう思っているのかは分からないが、この雰囲気に水を差すようなことは言わなかった。所長も席に着き、喜びに沸く私たちを見て白髪交じりのあたまをなでつけた。
***
お祝いムードも徐々に落ち着く。エリ先輩は営業に出発し、私は午後一番で業績評価面談が始まった。
所長と2人、件の会議室に向かう。エリ先輩の通報を告げられた夜に入ったときと違い、鉢植えの葉は青々と茂り、白いテーブルの天板も輝いて見える。大きな窓から見える空は晴れ渡っていて、あの空の下をエリ先輩がいつも通りに歩いていると思うと、何よりも誇らしい。
転職してから半年が経った。色んなことがあったけれど、第一営業所の一員として随分と馴染めたように思う。私の業績への評価も、まずまずだった。
「それにしても……エリ先輩に処分が下らなくて、本当に良かったです」
早々に面談が終わり、残った時間で私は所長に笑いかけた。
「週末の間に、通報フォームに内容を取り下げるメッセージが届いていてね。人事と急いで協議して、処分は見送られることになった。どうして取り下げられたのか不思議だが、こういう形で収まったのは、正直ほっとしているよ」
でも、所長は浮かない顔をしていた。私と、目を合わせない。
「先輩はパワハラなんてしていないって信じていました」
「君がそういう反応をするとは、思わなかった。我々はほとんど芦尾さんが通報者と確信していたからね」
「そうですね……私も、最初こそ転職を悔やみそうになりましたが、今はあの方についていきたいって心から思っています」
所長はうんうんと頷いて私の気合十分な拳に目をやったあと、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「そうだったのか……だからこそ、これを伝えなきゃいけないのがとても残念でならない」
──残念?
晴れやかだった気持ちが一気に曇る。所長は明らかに何かを伝えようとしているが、すごく言いづらそうだ。ふう、と深く息を吐き出し、力なく、私の目を見た。
「……君に、異動の話が出ている」




