32話 証拠がなくても
席に戻るなり、私はエリ先輩に声をかけた。先輩は忙しそうにしていたが、もうタイミングを伺っている余裕はない。
「エリ先輩。ちょっと、いいですか」
先輩は面倒そうにこちらを見上げたが、真剣な目を返す私にやれやれと書類の保存ボタンを押した。
給湯室に誘う。先輩は入り口付近にたち、腕を組み、足を交差して壁によりかかった。私は棚のティーバッグを無意識に並べなおしながら、深呼吸して言った。
「もしかしてあの日、白川さんに……告白されましたか?」
先輩は、一瞬間を置いて、答えた。
「……なぜ分かった」
「そして、断りましたね?」
「……ああ」
やっぱり、そうだった。スケジュールに何も残されていなかった理由が、これで繋がる。
白川さんは告白のために、会議室を予約したのだ。そして『打ち合わせ』が終わったあと、消したのだろう。
「通報──それが原因かもしれませんよ」
エリ先輩は、私の説明に目を丸くした。
「……白川さんが、か?俺はただ断っただけで、パワハラと受け取られるような言い方はしていないが」
「今、断言しましたね。パワハラはしていない、と」
やっと、言ってくれた。
「……」
「それでも録音記録は聞かせてくれませんか?」
先輩は私と数秒目を合わせて、表情を変えずに口にした。
「……悪い」
「……分かりました」
どうやら、自分の立場よりも大事なことが録音されているみたいだ。ここまで追い詰められても私に聞かせられないというのなら、仕方ない。
給湯室を出ようとする私を、先輩が呼び止めた。
「どうするんだ」
「もちろん、話をしに行くんですよ。白川さんと」
「やめてくれないか」
「そうだ。無事に解決できたら、どうして断ったのか教えてくださいね」
「……絶対にいやだ」
私は顔を背ける先輩に笑顔を向けて、小走りで席に戻った。今から、定時退社するであろう白川さんに合わせて、私も業務を締めくくらなければならないからだ。
***
オフィスビルの出口から少し向こうに、白川さんが歩いているのが見えた。小さなショルダーバッグを肩に掛けて、コツコツと高いヒールを鳴らしている。
私は無理やり笑顔を作り、足早に追いかけた。そして、後ろからできる限り明るく声をかけた。
「あ、白川さん!お疲れ様です。ぐ、偶然ですね」
「……はぁ」
我ながら下手過ぎる。自分でも分かるほど、声が裏返っていた。
「今日は私も早く上がれたんですよ。良かったらちょっと、カフェにでも寄りませんか?白川さんと、お話してみたくて」
「ごめんなさい、どこの部署の人でしたっけ?」
幼い少女のような高く澄んだ声とは反対に、そっけない態度だ。
「……第一営業所の、芦尾です」
その言葉で、白川さんの足がピタリと止まった。 数秒の間を置いて、ゆっくりと振り返る。
「ああ……芦尾さん。4月に入ってきた人ね。それで?」
白川さんは、明らかに警戒し始めた。
「少しだけ、お話させてください。10分で構いません」
「……10分ね」
そして大きくため息をつき、長い髪をかきあげた。




